穢れ

 

 



 夜、女官たちとともに、前回いろいろとあった井戸の側を歩いていた命婦は繊細な調べに顔を上げた。


「まあ、なんて美しい」

と横に居た若い女官たちが微笑む。


 御簾の向こうで斎王成子が、今や弾けるものの少ない琴の琴を弾いている。

 その手前の欄干の側では、真鍋が琵琶を弾いていた。


 斎宮の建物の上には大きな朧月。

 時折風に御簾が揺れ、斎王様のお姿が見える。


 本当だ。

 なんと美しい光景だ。


 ああ、都を遠く離れてついてきた甲斐があった、と普段は愚痴っている命婦も、こんなときには実感する。


 この合奏は、恐らく、真鍋への褒美なのだろうが。

 この屋敷の者たち、みなへの褒美となった。


 悪霊を連れ込んだり、退治したり、困った斎王様だけど。

 たまには、こんな気の利いたことをなさるから。


 この間から斎王様が懇願されているお話を私からも頼んでみよう。


 そう命婦は思っていた。


 




「斎王様、斎王様、斎王様っ」

 朝、珍しく命婦が駆け込んできた。


「海に参りましょうっ」

「海?」


「まだ日程は調整中ですが、海に行って、貝殻拾いなどなさいませんか」

「えっ、本当に?」


「この間、予定していたときに、ちょうど都からの使者が訪れて中止になってしまいましたからね。


 そのままになっていたので、わたくし、掛け合って参りましたっ」

となにやら鼻息が荒い。


 ちょっと揉めてきたのではないかと思うのだが。

 そこまでしてくれる命婦の気持ちがありがたかった。


「……ありがとう」

と微笑むと、

「いいえ。

 斎王様が、みなの気持ちを盛り立てようとしてくださるので、そのお返しです」

と命婦は言う。


 いつになく、穏やかな空気が流れていた。


 まあ、出発するまでのことではあったが。



 


 斎王が都から伊勢に来るときには、天皇など特別な人間しか乗れない葱華輦(そうかれん)という輿(こし)に乗ってくるのだが。


 今日は海に遊びに行くだけなので、成子は、命婦と一緒に普通の牛車に乗っていた。


 楽しく語らっていたのだが、ふいに牛車が音を立てて止まる。


「あの、命婦殿」

と外から声がした。


 こそこそと耳打ちしている。

 なんだろう、と思っていると、命婦が顔をしかめて言った。


「引き返します」

「え、何故?」


「今、カラスが牛車の前に、猫の死骸を落として言ったのだそうです。

 神に仕える斎王様が穢れにふれるわけには参りません」


「えっ、でもっ」


「でもじゃありません。

 引き返します」


 既に潮の香りもしていると言うのに、有無を言わさず、牛車は海から遠ざかり始めた。







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