引き上げられたモノ

  




 奇麗にした柘植の櫛を盆の上に置き、成子は寝所に座っていた。


 まだ乾いておらず、それは重たそうだった。


 その重みは、井戸の底に沈んでいた歳月の重みなのだろうと見つめていると、やがて向かいに人影が現れた。


 あの女官がいつの間にか、端座していた。


「見つけたわ、これね。

 貴女が捨てたの? この櫛」


 はい、と女官は頷く。


「斎王様がおっしゃったのです。

 櫛を渡されるというのは、縁を切られるということだ。


 それはよくない贈り物だと。

 だから、私はあの人にもらったこの櫛を井戸に投げ捨ててしまいました。


 でも、女性に櫛を贈るというのは、必ずしもそのような意味ではないと随分後から聞いて。


 だけど、そのときには、もう、あの方は都に戻られていました」


 それぎり会うこと叶わなかったと女は言う。


「斎王様はご自分がお美しいからわからないのです。

 男の方に、ふいにかけられた情けがどれほど嬉しいものなのか。


 そして、それが自分が期待していた意味と違うと言われてしまうことで、どれほど女が傷つくものなのか」


「……ごめんなさい。

 その斎王は私ではないけれど、謝っておくわ。


 でも、誰だかわからないその彼女のために、少しだけ、言ってもいい?


 私たちは、伊勢に旅立つ前に、天皇に櫛を贈られる。

 知っているでしょう? 『別れのお櫛』を。


 父であったり、従兄であったり。

 親しいものから、永遠の別れとして、それを渡される。


 そして、その瞬間から、もう帝を、過去の都での生活を振り返ってはならないのよ。


 今まで自分の身近にあったすべてのものから切り離される。

 身内からも、愛する人からも。


 その切なさから、歴代の斎王は、櫛を贈られることにいい感情を持てなかったんじゃないかと思うの。


 でも、貴女を傷つけたのは確かね」


 ごめんなさい、と成子は頭を下げた。


「いえ。

 もったいない。


 申し訳ありません。

 私こそ、いつまでも、若い日の恋を未練がましく。


 あの方も私も、幸せな結婚生活を送り、子や孫に囲まれて過ごしたというのに」


 ん?


 顔を取り戻した女はみるみる年老いて、立派な老婆になり、微笑んだ。


「ありがとうございます、斎王様。

 これでようやく、若き日の未練に決着が着きました」


「……はあ」

と成子は間抜けな返事を返す。


 女官は丁寧に手をつき、深々と頭を下げて、極普通の女官のように、出て行った。


「真鍋……


 聞いてた?」


 外に控えていた真鍋に呼びかける。


 恋を失い、不幸にして死んだのかと思っていたら、ただ、若き日の想い出にこだわっていた老婆の死霊だったとは。


 いつの間にか、道雅も来ていたらしい。


 霊の声は聞こえなくとも、真鍋とのやりとりから、事情を察した道雅が言った。


「いいじゃないですか。

 人はいつも迷うもの。


 今とはまた違う幸せな人生があったのではないかと。

 常に今とは異なる未来を想像してみるのが人間です」


「いや……幸せに過ごしたのならそれで良かったんじゃないの?」


「何処までも貪欲に幸福を追い求めるのは悪いことではありません。

 そうして、人は前へと進んでいくんですから。


 失礼します」

と道雅はおもむろに立ち上がり出ていく。


 いい歌がかけそうだとでも思っているのだろう。

 随分と機嫌が良かった。


 ああやって他人に感情移入できるから、自分が恋を知らなくても恋の歌がかけるんだな、と思った。


「真鍋」

「はい」


「人間の女というのは、何故、あんなに強欲なの」


「貴女も女になればわかります」

「今、女じゃないとでも?」


「神に仕える貴女に、性はありません。

 神に愛されたものは、月のものさえ、止まるとか」


 まるで、人としての生殖機能を取り上げられたかのように。


「よくご存知で」

と言いながら、真鍋以外誰も居ない、寝所の向こうに姿を現した。


 真鍋が目を細めて成子を見る。


「いいのよ。

 私にはそんなものいらない。


 だって、斎王はどうせ、人を愛してはならないのよ」


「成子」

と床下から声がした。


「では、お前に神が愛せるか」


 わからない、と成子は思う。


 御簾の向こうでしか見ない神を愛せるかどうかなんて。


 まあ、人間の男でも、普通はそのようにしか見られないものだが、と真鍋を見下ろす。


 そっと手を差し出すと、少し迷ってから、真鍋がその手を掴んだ。

 なんだ? と真鍋が言う。


「貴方になら触れられるのにね」


 こうして、生きている人間の肌の感触と熱さを感じられるのは真鍋だけだ。


 じゃあ、真鍋と恋に落ちられるかというと、これもよくわからない。


「きっと私にはそういう感覚がないのよ。

 だから、斎王に選ばれたんだわ。


 人間の男を愛せない女だから」


「そんなことはない、前向きに努力しろ」


 それって前向きに努力するものなのか? と思ったとき、真鍋が立ち上がった。


 手を掴み直し、成子を引き寄せる。

 真鍋に抱き締められると、道雅とはまた違う良い香りがした。


 真鍋は無骨なように見えて趣味が良いな、と成子は場にそぐわぬ間の抜けたことを考えていた。


 そして、よくはわからないが、この状況で、こんなことを考えている以上、今、自分は真鍋を愛してはいないのだろうな、と。


「前向きに頑張れ」

と真鍋は叱咤激励してくれる。


 それも変な話だと思いながら、笑ってしまった。


 そのとき、あの毒々しいまでに艶やかな蝶が真鍋の後ろを舞った気がしたが、それは一瞬の幻だった。







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