悪夢


 



 風にそよぐ菖蒲の花に囲まれた井戸の前。

 成子はゆっくりとそこに近づいていった。


 夜空を背に若い男が立っている。


 白い衣に長い髪。

 それは神に近いものの象徴に思えた。  


 こんなところに居たんだ……。


 そう成子は思い、彼の許に近づいていく。


 白い衣。

 一瞬、道雅かと思ったが、違った。


 では、どんな顔をしているのかと問われてもわからないのだが。


 それはいつも自分が夢で見る男のようだった。


 美しい川のほとりに彼はいつも居る。

 まるで自分を見守ってくれているかのように。


 今、井戸の側に立つ彼は自分に向かい、微笑みかけた。


 そして、彼は、笑い返そうとした成子をその笑顔のまま、井戸に向かい、突き飛ばす。

 



 



 ……悪夢だ。


 成子が起きたとき、既に命婦たちが周囲で忙しく立ち働いていた。


 御帳台を出ると、命婦が、まあっ、という顔をする。


「斎王様、お目が少し腫れてらっしゃいますよ」

 慌てて、人を呼んだ。


「誰かっ。

 布を冷たい水で濡らしてきてっ。

 すぐに冷やさないとっ」


「別にいいじゃないの。

 少し腫れてるくらい」


 鏡で顔を確認するが、それほどとも思えない。

 ああ、この人、少し寝不足なんだなあ、という感じだ。


「なりません。

 いつどなたがいらしてもいいように。

 斎王様は常に美しくあらねば」


 他に取り柄はないんですからっ、と言い出しかねない勢いだった。


 それもどうだかな、と思っていると、命婦が女官たちを急かすように言う。


「そこの井戸で濡らしてきなさい。

 あそこの水は冷たいから」


「えっ。

 ちょっと待ってっ」

と成子は止める。


「そこの水はちょっと」


「まあ、何故です?

 あそこの井戸が一番深いのか、水源に近いのか。


 とても冷たくて美味しいんですよ」


 まあ……冷たそうな気はするな。

 いろんな意味で。


「あの井戸の水、なにに使ってるんだったっけ?」

と訊くと、


「なににでも使っておりますよ。

 散水するのにも、布を洗うのにも。


 お食事――」


 ひっ、と思ったが、命婦は、


「ああ、炊事に使っているのは、炊事場近くの井戸でしたわね」

と言う。


「そ、そう。

 よかったわ」

と言うと、不思議そうな顔をしていた。


 まあ、井戸なんて、どれも似たようなもので、なにが入ってるかわかったもんじゃないからな、とは思う。


 井戸は異界へと続く道、か。


 先程、白い男に井戸に向かって笑顔で突き飛ばされたことを思い出し、憂鬱になる。


「斎王様、成子様」

と命婦はにじり寄り、小声で言う。


「また夕べ、なにかあったのではないでしょうね。

 私も起きて見張っていようかとも思うのですが、眠くて」


 さもありなん、と横に体格のよい命婦を見て思っていると、命婦はそこでなにか言いかけ、言葉を濁す。


「なに?

 なにか問題があるの?」


「本当は成子様のお近くに寝てもいいくらいなのですよ。

 成子様の身の安全を考えれば。


 でも、そうしてはならないと、前の命婦から、きつく言われておりまして」


 そういう申し送りがある、と言いますか、と言う。


「斎王とは一緒に寝てはならないって?」


 はあ、と命婦は言う。


「この間のようなことがあるからでしょうね。

 神は斎王の許に通うもの。

 それを邪魔してはならない」


 命婦は、あの白銀の鱗のことを言っているようだった。


「そうねえ。

 ま、どのみち、真鍋たちが邪魔しまくってる感じだけど」


 真鍋と床下の霊が。


 もう、と命婦が怒り出す。


「真鍋はなにもわかってはいないのです。

 斎王様が此処にいらっしゃるということの意味が」


 いつもはお気に入りの真鍋だが、仕事に関しては厳しい命婦は容赦なく怒り出す。


「まあ、斎王というのは、此処に『居る』ことに意味があるわけだものね。

 天皇が自分の代わりとなるものを伊勢に送り込んでいること自体にね。


 居るだけでいいのよ。

 後は静かに神意を映す鏡でも磨いてろってことでしょう」


 前回の一件で、獅子も狛犬も鏡も私を守ってはくれなかったが。

 信心が足らない、ということなのかな。


 ……カミサマに井戸に突き飛ばされるようじゃね、と溜息をつき、成子は井戸へと繋がる庭を見た。






 ふ


   るべ



  ふるべ



    




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