上がってこない……

 

 



 真鍋がその井戸に近づいたとき、女官は消えていた。


 今日はもうおしまいか? と思ったのだが、その女官が渡殿の方からまた歩いてくる。


 そして、井戸を覗き込んだ。

 どうもこの動きを繰り返しているらしい。


 井戸の中に何があるのだろう。


「井戸は異界へと繋がる場所だというものね」


「そうだな」

と相槌をうってから気づく。


 横に成子が立っていた。


「……お前は、人が此処を警備している意味がわかっているのか?」


「私に何事もないように?」

と成子は笑う。


 わかっているのなら、出て来るな、と思っていると、成子が言った。


「だって、床下の怨霊が面白いことが起こるだろうから出てみろって」


 なに考えてるんだ、あいつは。

 というか、怨霊に誘われて、ひょいひょい出てくる斎王もどうなんだ、と思った。


「その霊、何度もこの井戸を覗き込んでいるのよ。

 話しかけても答えないわ」


「話しかけたのか!」


 無謀すぎると成子を睨むが、本人は気にする風にもない。


「井戸に引きずり込まれたら、どうするつもりだ」


「込まないわよ。

 その女官だって、そこに居るじゃないの。


 上に居る女官が私を引きずり込むわけないし。

 中に何か居るとしても、この女官を引きずり込んでもいないし」


 屁理屈を言うな、屁理屈を、と思っていると、成子は言った。


「今日はまだ道雅も現れないし、暇なのよ」


「……あれは毎晩来るのか」


「そうでもないわ。

 道雅の意識がないときに身体を乗っ取ってるんだと思うんだけど。


 たぶん、眠りが浅くても出て来られないし、身体疲れ過ぎても動けなくて出て来られないんじゃない?


 ねえ、中、覗いてみたいんだけど」


 昼間やったら、怒られるから、と言う。


「夜でも怒るぞ、もちろん」


 あら、つまらない、と成子が言ったとき、彼女の足許にあの黒猫が来た。


 にゃーと愛らしく鳴く。


「猫、危ないから、奥へ入ってなさい」


 いや、そもそも、そいつが悪霊なんじゃ……と思ったとき、声が聞こえた。


「……上がってこない……


  上がってこない……


 上がってこない……」


 見れば、井戸を覗き込んでいる女官の口許がそのような形に繰り返し動いている。


 側でそれを見ていた成子だが、いつのまにか、すすす、と動き、後ろに来ていた。


「……どうした」


「い、いや、さすがにちょっと怖かったから」


 成子が移動すると、猫もついて移動する。

 すると、その声は聞こえなくなった。


「猫」

と呼びかけたが、猫は聞いていない。


 弓なりになっている草の上のてんとう虫をつつこうと、必死に肉球つきの手を振り回しているが、なにせ、霊なので。


 てんとう虫に猫は見えてはいないのかもしれないが、気配を感じて必死に逃げようとしている。


 ついに飛んだてんとう虫を猫が追いかけようとして飛んだ。


「待て、こら、猫っ」


 そのまま駆けていこうとする猫に、成子が代わりに呼びかけてくれた。


「猫、おいで」


 その声にぴたりと止まり、成子が移動した井戸の前までやってくる。


 成子を霊に近づけたくはないが、仕方がない。


 猫が再び、女官の側に行くと、彼女の声がまた、聞こえ始めた。


「……上がってこない……


  上がってこない……


 上がってこない……」


 成子と顔を見合わせる。




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