20
◇
時は遡る――八月初週末、大里雅也と玉緒アキラが京都を目指す電車の中。
電車に揺られて雅也は眠り、夢を見ていた。
その夢は雅也自身、自分の過去だとわかっていた。
◇
雅也の夢――小学校三年生だったころ。まだ関西に住んでいたときのこと。
通っていた学校は小中一貫の私立学校だった。夢の中で当時の評判を思い返す。
――偏差値はそこそこ、学生の品行はあまり良くない。僕も――
夏休みにもかかわらず、中等部の野球部が十年ぶりの地区予選を突破、全国大会出場をはたし、その激励会のため生徒は登校し、むさ苦しい体育館に集まっていた。
長い校長の挨拶、野球部顧問教師の熱弁、野球部キャプテンの決心を聞かされるだけで生徒の大半は疲れきった。
はやく終われ、はやく終われと拍手しながら皆が念じるように思えた――当時の雅也もそう思っていた。
退屈になり雅也の視線は右に向く。すぐ隣に、拍手どころか壇上に視線も向けない女生徒が一人いた。彼女は長い黒髪の先を指でいじりながら、高窓から降り注ぐ夏の太陽を見ていた。
――中等部の
そんな思いを雅也は幼くして抱き、恥かしくなって壇上を見た。
ユニフォームを着た全野球部員のレギュラーが帽子をとって頭を下げると、いっそう大きな拍手がおこる。生徒たちは野球部の応援よりも、貴重な夏休みを取り戻せた喜びのほうが大きい。
「おかしな風習だね」
ぎらぎらとした太陽を見る牡丹の呟きは、雅也にだけ向けられていた。
雅也は小声で、そうだね、と返事した。
体育館の靴脱ぎ場は市場のように人が群がり、おのおの靴を探して履き、出て行く。
雅也は全校生徒を受け入れる余地のないその空間に、無謀な特攻する気になれず、遠くから眺めていた。
その肩を、牡丹が軽く叩く。
「日焼けするよ。紫外線は目からも入って肌を焼くんだって」
彼女の肌は健康的な小麦色に焼けていた。
「マサヤんは良いな、綺麗な白肌。女の子だったらだけど」
「あまり外に出るなって、お父さんから言われる。僕も外、嫌いだし。ゲームしてるほうが面白いし」
雅也の返事に、牡丹は髪を掻いて、すこしうつむく。それを雅也は気にしてないと無表情のまま言い、たずねる。
「牡丹ねーちゃん、水泳はどうだったの?」
彼女は両手を広げて首を振り、予選落ちと笑って言った。人がはげしく流動するなか、二人は立ち止まって互いの近況を伝え合う。
「メンタルは絶好調だったけどね、京都府の壁が高かった……どーん、ってね」
「応援にいけなくて、ごめん」
謝る雅也の額を指で突き、牡丹は頬を膨らませた。
「謝るぐらいなら、中等部に上がってから入部するって約束して。完璧超人のマサヤんがいたら、男子水泳は無敵」
牡丹の無表情がすこしだけ緩む。
幼馴染の雅也にしかわからないほど、すこしだけ。
微笑みながら牡丹が背伸びをして肩のコリをほぐすと、日焼けしていない白いラインが見えた。
雅也は目を逸らして考える――
――僕にこんな努力の勲章は無い。ずっと変な修業させられてるけど、本気になれない。ゲームとか勉強のほうが向いてる。でも、約束を破っちゃダメだし――
牡丹は笑った。
「マジで考えなくていいって。マサヤんは本気で部活できないもんね。遊びで入部されたら私でも困っちゃうよ。私は最悪な最後で悔しかったけど、後輩に託したから。もうやり尽くしたって感じ。これから受験勉強して、来年からは高校でインターハイを狙うんだ」
牡丹はそう言って、太陽を見上げる。雅也も見たが、とてもまぶしく、すぐに手で目を覆い、己のポケットからハンカチを差し出した。
牡丹は中学の夏を全力で終えた――雅也はそれを讃えようと、思いをそのまま言った。
「牡丹ねーちゃん、お疲れさま。すごく頑張ったね。僕、これからも応援するから」
「あはは。小学生のくせに、生意気……ちょっと、きついぞ。もう……まぶしくて、涙、出てきちゃった」
体を震わせながら、牡丹はハンカチを受け取り雅也に背を向けた。
◇
二人が体育館を出ると、遠くの空から雷の鳴る音がした。天気予報では夏晴れといっていたし、先ほどまで晴天だった空の端に、少しだけ黒い雲が流れていた。
充血した目をさらにこすって、雅也は教室に向かって走った。こんなこともあろうかと傘を持ってきた、そう言って牡丹と競争した。
昔から牡丹は要領がよかったし、気もよかった。孤立しがちな雅也の性格、家の事情をよくわかってくれた。
雅也は牡丹の家の事情を、よく理解していなかった。
だが牡丹は人気があり、ひいきされていた。
彼女はごく普通の人として、誰とでも接していた。だが雅也は彼女に命を救われたことがある。彼女がいなかったら、今の自分はなかった、当時からそう思い慕っていた。
牡丹は雅也を完璧超人と言ったが、雅也にとって彼女より頼もしい人間はいなかった。
今、牡丹は前を走っている。いつも雅也は彼女を追いかけていた。こんな人間になれたら、こんな人と結婚できたら、そう思っていた。
校舎に入り、階段を駆け上がっていく二人。元気良く一段飛ばしで駆けていく。
そんな二人を他の生徒はいぶかしげに見るものの、誰にもその仲の良さは否定しなかった。
息をきらして牡丹が三年三組教室の前で止まり、手招きした。雅也はずいぶん遅れて追いつき、教室に入った。
小等部の教室に、机の上に座った三人の男子生徒がいた。彼らは雅也を睨んで、無言で圧力を掛けて来る。
――中等部の三年生だ。嫌なことをするし怖い。不良だ。
その三人組の一人が、さっとポケットに何かを隠す。雅也は何も言えず、自分の席に向かった。
無言の教室。外からはセミの声と運動部のかけ声が聞こえ、雷の遠鳴りがする。牡丹だけはいつも通り、にこにことしていた。
「
雅也はすぐ三人組をにらみつめた。重苦しい空気が流れ始め、彼らは口を噤んだがニヤニヤと笑っていた。
――今、牡丹ねーちゃんの悪口を言ったな。
その間に割り込むように牡丹がはいり、雅也に傘とランドセルを押し付けて出て行こうと、うながした。
しかし雅也は受け取らず、三人に迫っていった。
男子生徒の一人がゆっくりと目を、窓のほうに向ける。彼の口からはよだれが垂れていた。その生徒のポケットに雅也は躊躇せず手を突っ込んだ。
「コラ、ガキ!」
残りの二人が雅也を押さえつけようとするが、ポケットを探られている男は、まったく抵抗せず、むしろ光悦した表情だった。
「止めなさいよ! 小学生相手に!」
牡丹が二人を振りほどき、雅也の手を取る。
とっくに雅也はポケットから盗んでいた。それは鎮痛剤のような白いタブレットだったが、小さなビニール袋にいくつか詰め込まれていて、薬品番号の刻印もされていなかった。
「あんたたち、ダサすぎ。こんなもので遊ぶなんて」
そう言って牡丹は、雅也に先に行きなさいと視線で合図した。
心配になって雅也は首を横に振る。
男子の一人が教室の入り口に向かい、扉をゆっくりと閉めた。
今度は牡丹の横を挟んで立った。
「篠宮、てめぇの親父のせいだって、わかって言ってんのか?」
そう言う男子生徒に向かって牡丹は冷たい視線を投げ返す。気押されたように、男子生徒たちはツバを飲み込んだ。牡丹はタブレットの詰められた袋を握った右手で、髪の先をいじる。
「わかってる……じゃあ、ちょっとしたゲームをしましょう」
そしてタブレットを一錠の右手につまんでから男子に袋を渡した。次に左手で自分のスカートのポケットから何かを取り出し、手を合わせる。
手のひらで、じゃらじゃらと混ぜ合わして、手を開いて見せた。そこには大きさ、形の同じタブレットが二つあった。
「イカサマなしの一発勝負。一つは彼の持っていた‶気持ちが良くなる薬〟、もう一つは‶天国に逝ける薬〟。生き残ったら何でもしてあげる」
たじろぐ男子生徒たち。雅也はまったく理解できなかった。
牡丹は続けた。
「この前、弟の机から見つけた薬。自殺した弟の机から……ルールは暴力をしないこと。生き残った方はすぐ救急車を呼ぶ。どう?」
手を差し出し、男子生徒に選ばせる。
見ていた雅也も、どちらが彼らのものか見分けがつかない。緊張して見守った――
――
恐ろしいリンチを想像して雅也は体を震わせ、牡丹を見る。彼女の瞳は鋭く光って、さきほどの言葉が真実だとうったえるようだった。
ふっと緊迫した空気を和らげるように、牡丹がわらう。雅也にだけ判別できる小さな笑い――馬鹿にしたものではなく、むしろ許す、といった優しいものだった。
「いくじなし」
そう言ったあと、牡丹は一錠をつまんで躊躇せず、飲み込む。男子生徒たちは後ろに下がって、慌てて荷物をまとめだした。
牡丹の体が徐々に痙攣をおこし出し、二人の男子生徒は顔色を変えて教室を逃げ出した。
「やべーよ、どうすんだ!」
「知るか! 勝手に自殺したんだ!」
そう叫んで雅也がいることなど気にもしないようだった。
自殺、という言葉に反応して雅也は牡丹に寄り添う。
彼女は全身を震わせていた。
「しっかりして!」
雅也は、牡丹を教室の床に寝かせて頬を軽くたたく。と、荒々しく息をきらして牡丹はうめき声をもらした。
「何? 聞こえない、大きな声で――」
雅也が牡丹の口に耳を近づけると、突然、頭をつかまれ、牡丹の唇と自分の唇が重なった。
生暖かい空気が口内にはいり、唾液と混じる。自分の唾液がすべて牡丹に吸われていく――少しの恐怖をおぼえ雅也は目をつぶった。そして頭をつかむ腕を振りほどき、息継ぎのように顔を上げる。
雅也の頭をつかんだ牡丹の腕から汗が噴き出ていた。さらには体温が上がり、彼女の顔も赤くなって、目が泳いでいる。
息を整えながら、雅也は口を拭う。混乱した頭で、これは事故だと自分に言い聞かせた。
蝉の鳴き声が止み、雨音が聞こえ始めた。
教室は薄暗くなり、男子生徒がゆっくりと机から落ち、そのままイビキをかき始めた。
異臭がする――雅也が見る男子生徒、ズボンからシミが広がっていた。
雅也は急いでランドセルからタオルを取り出し、牡丹のスカートに被せた。
「僕、いまから保健室にいく! 動いちゃだめだよ、牡丹ねーちゃん!」
◇
そこで雅也は夢から覚めて、辺りを見渡す。快速電車は停車しており、ほぼ満員だった。大阪から乗ったままの雅也たちは席を確保したまま。
雅也の左、車窓から見える景色は田舎の田園風景のみ。
どうして駅じゃ無いのか、と雅也は欠伸を欠きながら尋ねる。
右隣り、通路側に座る玉緒アキラ――今日は浅葱色の着物袖に馬上袴。雅也でさえわかるほどの上物生地――は読書をしていた。
アキラは言った。
「事故です。停車してます、二十分も」
少し苛立った声だった。雅也は努めて明るく言った。
「読書や睡眠にはもってこいだね、何を読んでるの?」
「以前、私が勧めたはずの任侠映画を無視した雅也君から、強引に観せられた、海外の恋愛映画の、押し付けられた原作小説の翻訳版です」
アキラは目を合わさず、声を強くして言い放つ。
車内は人でごった返すものの、エアコンが効いている。その冷気より冷たいものを感じとり、雅也に寒気がはしる。
「そ、そう。結構、面白いよね? 映画とは違った世界観で、フランス文学の中でも俊逸だと思うよね?」
おっかなびっくりで雅也は尋ねると、アキラは息をついて本を閉じた。そして、
「映画館でも言いましたが、玄人には面白いかも、玄人には……小説もそう。のっけから改行も段落も無く、文字が横に綴られ、とてつもない情景描写のみが続き、映画より堅苦しく読みごたえ充分でしょうね、雅也君には……やっとで序章が終わり、私の頭ではまったくもって、物語も人物も読み解けません。雅也君との読書量の差が天地ほどあるのか、それとも東京から出て乗り継ぎ、雅也君がぐっすり眠ってしまって気を張っていたせいか……どっちでしょうね?」
感想を聞きながら、雅也は悔やむ。
――いろいろミスった。せめて今日、起きておくべきだった。
取り繕う言葉や話題を考えていると、アキラはつっけんどんに言った。
「どちらにせよ恋愛って良いですね、独自の世界観があって他人がどうこう言うなら馬に蹴られてしまえばいいですね。雅也君も‶ボタンねーちゃん〟と結ばれると良いですね、私はお邪魔ですね」
「え、なんで知ってるの?」
目を大きく開き、雅也はアキラを見つめた。彼女はバッグに本を詰め込んで漁り始めていた。
ウォークマンを取り出したアキラは、雅也を見ない。雅也の目は、バッグの中に、あの
凶器を捉える。
「だって大きないびきの合間に何度も何度も言ってましたから……他の乗客には迷惑この上ないけれど、安眠を覚ますこともできません。私が何度も揺さぶっても、二時間ぐらい、ずっと眠り、寝言を延々と……あげくには私が‶ボタンねーちゃん〟だと誤解され、笑い者になって……これから私は音楽に浸ります。音痴なのであしからず」
そう言う彼女のバッグの中には、この前のマンションで暴れた
唾を飲み込み、雅也は返事するものの声が震える。
「はい、どうぞ、どうぞ……ちなみに、アキラちゃんは、音楽好きなの?」
「少なくとも雅也君の寝言よりは」
「ど、どんなのを聴いて、いらっしゃるの、でしょうか?」
アキラの瞳が光り、雅也を刺すように見る。
「気分の良いときは
気分の悪い時は
「お、音楽に限らず、知らないアーティスト名を聞くと、感動します、よね? び、びっくりしました。少なくとも僕なんかより、通なんだなと……し、しかも大里流の鍛錬に繋げるとは、まいりました……ちなみに、今、どれを聴く気分でしょうか?」
雅也の問いに対し、アキラはイヤホンを両耳に付けるのみ。
彼女は掌に持ったウォークマンのパネルを叩き、目をつむる。
後頭部を掻き雅也は窓を見る。青々と育った稲穂、遠くに民家がいくつかあり、連なった山も見えた。空は快晴で雅也は瞬きを繰り返す。
車内のアナウンスが流れ始める。運転を再開する旨と、遅れた陳謝の言葉。他の乗客たちからは、ため息がもれる。
雅也が座席へ背をあずけるとアキラはハミングをはじめた。
それを雅也は聞きつつ携帯電話で先ほどのアキラが挙げた名前を調べ始めた。
――誰だって好きなアーティストを褒められると、嫌な気分にはならないはず。
検索サイトに名前を打つと、すぐヒットした。東秀は和楽器を使った雅楽、喜見華はピアノ、両名とも世界的な作曲家とある。
上村稔はミクスチャーロックバンド、櫻場高次はヴィジュアル系創成期のバンド、互いにヴォーカルとあった。
「――この刃を手に、木の葉を切りゆく殺人人形、言の葉信念、胸に秘め、世論雑言、馬耳東風――東奔西走、殺人行脚、逃走経路は朝日の向こう、闘争相手はあの日の向こう――」
電車の音に消されそうなほど、アキラの小さな声。かなりリズムが狂って聴こえたが、聞き取れた単語から雅也はさらに絞り込む。上村稔の曲にそれらしいタイトルがあった。
『殺人人形のXYZ』
歌詞を調べると親に捨てられた人形が自我を持ち、次々と人を殺めていく内容だった。
歌詞を覚えることなく携帯電話をポケットに入れて、雅也は目を覆う。
――無理だ。アーティストや作品名だけでは何も語れない。音楽は聴いてこそ。でもこの曲、たとえ歌詞よりポップなイメージでも、タイムリーすぎて聴けない。
――アキラちゃんの気分が優れないまま、僕の実家に向かうとマズい。向こうには両親が待ち構えてるし、中井のことを聞く旨を伝えたし、僕からアキラちゃんに打ち明けないといけない事がある。
アキラのハミングを聞きながら、雅也は言い訳や気分転換の方法を考える。
だが、雅也の実家近辺は田舎すぎて気晴らしになる場所など思い当たらない。やがて夢のことを思い出してしまい、そちらに意識が向かう。
――寝言を言う癖があるなんて初めて知った。どう対処すればいいのか。恥ずかしくて誰にも言えないな。だって牡丹ねーちゃんの事は――
雅也の思考と反して口が勝手に開く――雅也はアキラのハミングだろうと勘違いしていた。
『あなたはがんばりすぎて、働きすぎて
それでもあのひとのために生きている
きえてゆく夏の香り
吹き通る風にふかれてもなお、満足できない
気持ちはわかるつもり
あなたに触れたことがあるから』
その歌は雅也が初めて歌った、英詞の曲。小さい頃、辛い時、楽しい時、何度も。だが今日まで忘れていた――無自覚のまま、自身に語り掛け、思い出を蘇らせる.
彼自身は思い出を探ることに没頭して、気づかないまま風景を見ていた。
◇
電車がトンネルに入り、窓の景色は一瞬にして黒くなった。
雅也の顔と、車内の風景がぼんやりと見える。口は勝手に歌い、思考はそれを捉えない。
『うごきづらく、なんて息苦しいのだろう
この青空の下、羽ばたくこと、
はいずることもあなたの心はゆるさず、
解き放てない気持ち……わかるつもり
あなたに触れたことがあるから』
――篠宮牡丹、愛称は牡丹ねーちゃん。別の意味で僕より複雑な家系だった。確かお父さんが極道まがい、お母さんが元女優。しかも本当の親じゃ無くて、親戚の家を転々としていたとか。
『あなたの手はあのひとのためにある
まちがったときに、だきとめるため
あなたの手はあのひとのためにある
おちこんだときは、ひきあげるため』
――僕が小学二年生のとき、山で迷子になって四日もさ迷った。空腹で死にかけて最初に見つけてくれたのが牡丹ねーちゃんだった。さらに四年のとき、お堂に監禁されたときも、こっそり来てくれて、お菓子の差し入れや励ましをくれた。中等部に上がってからも一度だけ遊んだっけ。水泳部には入れなかったし、さんざん世話をかけたくせに、我ながら馬鹿だ。東京に出てから連絡、取れてない。前に帰省したときは留守だった。もう十年近く会ってない。結婚しててもおかしくない。子供がいたりして。ちょっと嫉妬するかも。
『あなたの手はあのひとのためにある
でていくときに無事をいのるために
あなたの手はあのひとのためにある
かえってきたときに、
かわりないことをしらせるために』
――牡丹ねーちゃん、洋楽が好きだったっけ。顔に似合わずパンクとかジャーマン・メタルとか結構コアな趣味だった。‶歌うときはその意味、念を込めると憑依する〟とか言ってた。語学の勉強がてら、カラオケに連れてってくれたっけ。ボロい店で曲も少なくて、僕も古い洋楽ばっかり歌ってた。最近、カラオケどころかCDすら買ってない。こういうの僕みたいなのが文化、業界を衰退させてるのかな。
『ゆっくりと風が髪をゆらす
ゆっくりと時がすぎていた
けれど……
ふたりの心はゆるがない
ほら、いまも寄りそって』
トンネルから抜けて、視界ががらりと変わる。
山岳に入り鉄橋を上って、駅に停車した。
学生がわっと入って来る。ホームからは手を振る女子生徒がいた。
その制服を見ながら、雅也は郷愁をおぼえ、牡丹と歌った曲を思い出す。
すると、ようやく歌っていたことに気づきいた。この歌のタイトル、英詞の意味を思い出し、早口に――
『あなたの手はあのひとのためにある
まちがったときに、だきとめるため
あなたの手はあのひとのためにある
おちこんだときは、ひきあげるため
あなたの手はあのひとのためにある
でていくときに無事をいのるために
あなたの手はあのひとのためにある
かえってきたときに、
かわりないことをしらせるために
あなたはがんばりすぎて、働きすぎて
それでもあのひとのために生きている
あのひとは心を解き放てずに、
この青空の下で立ちつくしている
神……願うことなら、
仲がかわらないまま
二人の心に少しだけ触れたことがある、わたしも、わたしのままで』
少しリズムが狂うのを感じながらも、強引に歌い終えた。黙ってホームを見ながら発車するのを待つ――つもりだった。
アキラが肩を叩いて声を掛ける。おそるおそる雅也が顔を向けると彼女は目をしっかり開き、顔を赤くしていた。
「初めて雅也君の歌声を聴いた……知らない曲だけど、お世辞じゃなく、すごく上手。透き通るような声が出せるなんて、びっくりした……でも、私には無理……」
胸を撫で下ろした雅也は、どうだろう、と言った。
「僕の好きなアーティストはあまり売れてないから、よく失笑される。それにカムイの‶
「あ……えっとね、そういう意味じゃなくて……」
もじもじとしてアキラは顔をがっくりと下げた。
首を傾げる雅也に、アキラは頭を下げたままで周囲を見るように手で促す。
視線を移すと、乗客たちが雅也を見ていた。
雅也はひしひしと視線を浴び、同時に声を拾う。
超絶アカペラ、プロ級生アレンジ、コスプレカップルの神声、カレシさん激ウマ、などなど誇張が掛かった賛辞を聞き、雅也、顔を赤くして、萎縮す――。
アキラがこぼす――笑いと恥じらいを堪えた声。
「もし美声が出せても、電車で歌うと……名曲でも、誤解をされるから……そういう意味で無理かなって」
雅也は頭を下げ、アキラに謝罪した――。
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