第25話 ゴリラの気持ち

 晴香と後藤さんが店に入り、注文した物を受け取ってレジから離れたのを見計らい、俺も店内に侵入した。この店は幸いな事に、江手高生が他にも多くいるから、俺の姿が目立つ事はない。注意すれば、2人に見つかる事もないだろう。

 適当にジュースとハンバーガーを1つずつ選び、それの乗ったトレーを持って2人の席を慎重に探す。1階にはいない……俺はおそるおそる2階に上がる。上がってすぐの席に座られていたらアウトだ。

 しかしその心配は無用だった。フロア中央の席に2人は向かい合っていた。俺はパーティションを挟んだ真横の席に腰をかけた。ここなら覗き込まれない限り2人に見つかる心配はないし、声もよく聞こえる。スモークガラス越しに、2人の動きもよく分かる。心に湧く僅かな罪悪感を握り潰し、俺は隣の席に耳を傾けた。


「本当、すいません。熊井さんと帰るところを邪魔してしまって。それにコーヒーまでご馳走になっちゃって。誘ったの私の方なのに……」


 晴香が頭を下げて謝った。


「ううん、気にしないで。前にお兄さんにアイス奢ってもらった事があるから、そのお返しだよ。それに同じ中学同士、1度はこうして2人きりでお話したいなって思ってたの」


「あたしもです。でも……本当はもっと違った機会に、違った話をしたかったです」


「それで、お話っていうのは?」


「えと……その……後藤先輩、うちの兄に、何か言われましたよね?」


「……」


 流石の晴香も、「告白されましたよね?」と直球では聞けないようだ。後藤さんも、晴香が何の話をするつもりだったのか予想していたのか、さほど驚いた様子は見せなかった。


「うん。付き合ってほしいって……そう言われた」


「それで……何て返したんですか?」


「お友達でいて下さい。そう言ったよ」


 また俺の胸が痛んだ。今度はチクリとした痛みではなく、ズキッとした嫌な痛みだ。直接言われたわけではないのに、傷口が広げられたような感覚だ。あの時の事がフラッシュバックする。心を落ち着かせるため、俺はハンバーガーを口の中に押し込んだ。


「本当は、あたしなんかが首を突っ込んじゃいけない事は分かってます。あたしとしては、2人が付き合ってくれたらって思ってましたけど、後藤先輩にだって選ぶ権利は当然あるわけで。だから無理強いは出来ないんですけど……」


「うん」


「えーと……だから……つまり……」


 晴香が言葉を詰まらせる。必死で言葉を探しているのだろう。晴香は俺なんかよりよっぽどしっかりしているが、それでもまだ中学生だ。兄の片思いの相手と面と向かって話すのは、緊張するに決まっている。ましてや話題が話題なのだから。後藤さんも続きを促す事なく、ジッと晴香の顔を見据えている。

 晴香……もういい。もう止めてくれ。協力してほしいとはお願いしていたが、もう終わったんだ。ここまでしてくれとは言ってない。俺自身、もうこれ以上は頑張れないのだから。


「兄は……顔は別に良くないし、勉強だって高3の2学期までは全然からっきしでした。唯一の取り柄と言ってもいい野球だって、別にレギュラーで活躍してたわけでもないし、代打でホームランの1つも打った事もありません」


 いきなり何を言い出すんだ……。


「でも、後藤先輩に会ってから兄は変わりました。あれだけ嫌っていた勉強を、学校から帰ってから夜遅くまでやってましたし、土日も朝から晩までぶっ続けでした。大学なんて入れればどこだっていいとか言ってた兄が、後藤先輩と同じ門木大に入りたいがために、ずーっと頑張ってたんです」


「……うん」


「結果は……知ってると思いますけど、不合格でした。今思えば無謀な挑戦だったと思います。門木大に入ろうとする人なんて、皆もっと前から必死に頑張ってた人達ばかりだと思うし、高3の2学期から本気出して合格出来るほど、甘くはなかったのでしょう」


 全くその通りだ。俺だって頭では分かっていた。俺なんかが受験する事自体が、他の受験生への侮辱とも言える。ナメてるとしか思えないだろう。それでも、もしかしたら俺にもチャンスが……と思ってしまった。実に滑稽だ。ピエロそのものだ。


「兄は落ち込んでました。野球部の引退が決まった時ですら、あんな顔は見せていません。しかもその翌日、更に酷い顔になっていました。まるでこの世の終わりみたいに。それで話を聞くと、後藤先輩に……フラれたって」


「……」


「あんな辛そうな兄を見るの初めてで。いても立ってもいられなくて、こんな所まで押し掛けてきてしまったんてす」


 晴香……お前……。


「後藤先輩……回りくどい事言ってしまいましたけど、はっきり言います。もう一度考え直してもらえませんか? 兄は、本当に後藤先輩の事が好きなんです。野球の事しか頭に無かった兄が、初めて本気で恋した人が後藤先輩、あなたなんです。きっと、後藤先輩を悲しませる事だけはしないはずですから」


 止めに入ろうと脚に力が入る。それを手で押さえる。俺はそんな事を何度も繰り返していた。晴香を止めなければ後藤さんを困らせる。でも、俺の本心は続きを聞きたがっている。晴香の説得で後藤さんが心変わりするのを期待している、情けない自分がいるのだ。


「……晴香ちゃん、ごめんね」


「えっ」


「お兄さんが必死で頑張ってきた事は、もちろん分かってる。私の事を好きだって言ってくれたお兄さんの気持ちも、凄く嬉しい」


「だったら……」


「でもね……私にはどうしても裏切れない、大切な友達がいるの」


 友達……熊井だな。やっぱり後藤さんは、熊井の気持ちに気付いていたのか。裏切れないって事は、熊井の同性愛を受け入れるって事なのだろうか。


「それは……熊井さんが、兄の事を好きだからって事ですか?」


 俺は鼻で笑った。何言ってんだ。違うだろ晴香。熊井が好きなのは後藤さんだ。


「知ってたの?」


「はい。パーティーで会った時、熊井さんの兄への態度を見て何となく察しました。自分で言うのもなんですけど、私こういうの鋭いんです」





 ────!?


 待て。どういう事だ? 2人は何を言ってるんだ? 熊井は俺の事を好きどころか、誰よりも俺の事を嫌っているんだ。後藤さんに纏わり付く害虫のような扱いをされてるんだぞ。分からない……わけが分からない……。


「熊井さん、兄にはこう言ってたそうです。自分も梨央の事を1人の女の子として好意を持ってるから、あんたには渡さないって。だから兄の中では、熊井さんはレズビアンって事になってます」


「それは知らなかった……。月乃ったら、後先考えずにそんな大胆な事を言ってたんだね」


 あれは、真っ赤な噓だったってのか? おかしいだろそんなの。何でわざわざそんなデタラメを言う必要がある? 俺の事が好きなら、俺にそう言えば済むだけの話だろ。

 第一、俺はあの時初めて熊井と会ったんだぞ。一目惚れしたとでも言うのか? そんなにイケメンじゃないぞ俺は。


「熊井さんは、いつから兄の事を好きになったんでしょうか」


 俺の疑問を、晴香が口にした。


「1年の時、たまたま野球部の練習を見る機会があってね。その時はただの暇潰しだったんだけど、月乃はそれから毎日のように野球部の練習を見るようになったの。と言っても、教室の窓から覗くだけだったんだけど。それで聞いてみたの。誰か気になる人でもいるの? って。そしたら、顔を赤くして頷いたの」


「それが、兄だったんですか?」


「うん。男嫌いって聞いてたから、私もビックリしたんだけどね。なんか、いつも我武者羅に頑張ってて、チームメイトと一緒に楽しそうに笑ってるお兄さんを見て、好きになっちゃったんだって」


 ……信じられない。この俺が、全く気付かない間に1人の女の子に恋心を寄せられていたなんて。


「試合も何度も観に行ったんだよ。練習試合も公式戦も。お兄さんが出る試合は少なかったけど、お兄さんが打席に立つ度に月乃は目を輝かせてた。そして最後の引退試合の時、お兄さんが泣いてるのを見て月乃も泣いてたの。ずっと応援してたから、無理もないよね」


 いたのか……!? あの時、スタンドのどこかに後藤さんと熊井が。しかも試合が終わって泣いていた……。


「だから私も、お兄さんの事をずっと前から知ってたよ。半年前、木の下敷きになってるところを見た時は、本当に驚いちゃった。その時はただ助けなきゃとしか思ってなかったんだけど、それがきっかけでお兄さんと知り合いになれた。だから、チャンスだと思ったの。私が架け橋になって、猿山君と月乃が仲良くなれたらいいなって……」


「兄を図書室の勉強会に誘ったのも、そのためだったんですか?」


「半分はね。一緒に門木大に行きたかったって気持ちは本当だよ。でも、月乃に自然な形でお兄さんを紹介する機会になったのも事実。それで上手くいく……はずだったんだけど……」


 全く上手くいかなかったな。仲良くなるどころか、熊井は俺に対して敵意剥き出しだった。原因は俺が熊井ではなく、後藤さんを好きになってしまったせいだろうが、それにしてもあの態度は腑に落ちない。とても好意を持っているとは思えないのだ。


「熊井さんって、兄に対していつもあんな感じだったんですか?」


「うん。でも、いつもその後になって後悔してたみたい。せめてもっと優しくしてあげれば? って毎回アドバイスしてあげてるんだけど、顔を合わせるとどうしても素直になれないんだって」


「あんな気が強い人なのに……奥手なんですね」


「お兄さんには話したけど、月乃は本当は凄く臆病なんだよ。お兄さんが私の事が好きだって知って、パニクっちゃったっていうのもあるんだろうね。片思いなんて初めての経験だっただろうし」


「なるほど……。分かるような分からないような」


「そんなんだから、間に割って入って自分に振り向かせる事よりも、まずは私からお兄さんを引き離す事ばかり考えてしまったんじゃないかな。まあ……三角関係になってたって事は、私は昨日までは知らなかったんだけど……」


 聞けば聞くほど……今思えば納得のいく事ばかりだ。後藤さんがやたらと熊井を持ち上げるような話を俺に振っていたのは、俺と熊井がくっついてほしいと願っていたため。俺との間に、見えない線を引いていたように感じたのも、熊井に気を遣っての事だろう。

 卒業旅行の誘いに妙にあっさりと乗ってきたのも、熊井なりに何か思うところがあったのだろう。最後かもしれないから、素直になろうと……。

 そうとも知らず、俺は熊井を邪魔者だと決めつけ、挙げ句の果てに後藤さんをパーティーや卒業旅行に誘うために利用しようとしたりしていた。客観的に見れば、誤解を招くような事をした熊井が悪いのかもしれない。しかし俺の心は、罪悪感で満ち溢れていた。


「事情は分かりました。でも、1つだけ聞かせて下さい」


「なに?」


「後藤先輩自身の気持ちは……どうなんですか? 先輩は、兄をどう思ってるんですか?」

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