第352話歎異抄 さるべき業縁のもよほさば

(原文)

「さるべき業縁のもよほさば、 いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひしに、 当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、 あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、 道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外 にしめして、内には虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらん 罪も、宿業のもよほすゆゑなり。

(意訳)

「そのような業縁が動きをなすと、本人でさえ予想できない行動をとってしまうのが人間というものなのです」と、親鸞聖人が仰せになったのですが、最近の風潮としては、往生を心から願うような殊勝な様子で、「善人だけが念仏をするべきである」と主張してみたり、道場の入り口などに「これこれの行為を為したものは、道場への入室を禁止する」などの禁制の張り紙をするところもあるようです。

これらの主張や行為は、法然上人や親鸞聖人が厳しく批判されたはずの、「外面的には賢善精進の様子を見せびらかせ、それぞれの内心においては虚栄心に満ちた虚しく悲しい主張や行為」としか、言いようがありません。

本願に甘えて為してしまう罪も、宿業が動きをなして生まれたものなのであります。


人間というものは、おおかた、「自分に甘く、他人に厳しい」。

特に悪事を為した人間に対しては、それが微罪であっても、重罪のごとく批判、排除する。

罪を犯せば計を課す。

しかし、究極の刑である死刑を課しても、凶悪犯は絶えない。


人間というものは、「しかるべき原因」が生ずれば、どうしようもなく罪を犯してしまうものだと思う。

それが微罪であろうと重罪であろうと、現実の世界を見ると、「あっと」思ったら犯罪を起こしているような状態が多いのではないか。


「罪が全く無い人が石を投げよ」

イエスの言葉を思い出す。


そもそも、煩悩に囚われていない人間、「罪が表面化していない」人間に、他者を断罪する資格や権限が、本当にあるのだろうか。


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