第345話歎異抄 弥陀の本願不思議におはしませばとて
(原文)
弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、 また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本 願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもは れせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。
(意訳)
「阿弥陀仏の本願を理由にして、悪事を恐れないということは、見方によっては『本願誇り』であり、とても往生などはできない」と述べる人たちがいます。
しかし、この見解は、本願そのものを疑い、善悪というものが宿業により決まるということを理解ができていない見解なのです。
善良な心が生まれるのも、悪い心が生まれ悪いことが実行されるのも、ともに「宿業」がはたらくためなのです。
※本願誇り:本願に甘えること。
※宿業:過去に為した行為。
確かに、煩悩が激しく悩みが深いと、人間は悪事に走ることがある。
しかし、阿弥陀仏は、そうした苦しむ人を救うことを本願としている。
問題点としては、悪事に走っても、「本願誇り」によって、罪の意識も反省もないこと。
これでは、被害者は、たまったものではない。
そこで、悪事をおこさない真面目な念仏者が、悪事を起こしても何ら反省がない念仏者を「本願誇り」として非難したのだと思う。
さて、歎異抄の筆者唯円は、真面目な念仏者に対しても、「本願誇り」の悪人念仏者も、
「善良な心が生まれるのも、悪い心が生まれ悪いことが実行されるのも、ともに宿業がはたらくため」として、批判する。
宿業とは、「宿」が過去、「業」が行為なので、過去の行為となる。
つまり、善い心が起こるのも過去の善行の結果であって、悪い心が生まれるのも過去の悪業に起因するということ。
自らの「その時の意思」の前に、「因縁」による過去の諸行があるということになる。
そういう根本の原因を突き止めずに、目の前の事実だけで、人が他人を批判、非難、断罪することは、妥当なのだろうか。
さて、人の心は、悲しいかな、いつも揺れ動く。
善から悪へ、悪から善へ、何度も揺れ動く。
一般的に善人と言われる人も、全てが善であったのか。
極悪人と言われる人は、全て悪であったのか。
そうなると、徹頭徹尾、善人である、あるいは悪人である、という人はどこにいあるのだろうか。
※難解な部分となるので、次回は宿業をテーマとします。
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