第315話歎異抄 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり(1)
(原文)
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲といふは、も のをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがご とくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、 念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごと く衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとほし不便と おもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき と云々。
(意訳)
慈悲ということに関しては、従来の自力で修行、成仏を目指す教えと、浄土門の教えとでは違いがあります。
従来の仏教が教えてきた慈悲(聖道の慈悲)は、人を憐れみ、愛おしみ、慈しむということであります。
しかし、人間が思い通りに他人を助けるということ(助けを成功させること)は、本当に難しいことだと思います。
それに対して、浄土門の慈悲では、念仏を行い、速やかに仏となって、仏の慈悲心によって、思った通りに人々助けることをいうのです。
この世においては、どれほど愛おしくて、かわいそうであると思っても、皆さんご承知の通り完全に助けることは困難ですし、結局、慈悲は一貫しないのです。
そのように考えると、念仏するだけが、一貫した慈悲の心となるのです。
さて、慈悲とは、「他者と悲しい気持ちをともにして」、「他者の不利益と苦しみを除去しようと欲し」、「取り除き」、「他者に利益や安楽を与える」行為である。
しかし、他者の苦しみに同情し、なんとか助けようと努力をしても、結局完遂できないことがほとんどなのだと思う。
そして、助けられなかったことに自らも苦しむ、辛い思いを持ち続ける人が多い。
浄土宗では、念仏を唱え、浄土に生まれ変わり仏になれば、仏の智慧を持ち自在に「慈悲」が実践できると説く。
「自らの煩悩に囚われた凡夫」の状態では、他者の苦しみの本当の原因を理解することは無理。
本当の原因を理解できずに、本当の慈悲、救いなどは無理ではないか。
人の不幸の原因について、「お前の不幸は、先祖の祟りだ」と言い放ち、高額なお布施を恐喝まがいに要求するお寺が、現代の世でもある。
いったい子孫に祟ろうなどという先祖があるのだろうか。
自分が先祖であるならば、子孫に祟ろうと思うだろうか。
そんなことをいう従来の仏教(法然曰く聖道門)などは考えず、「念仏を唱え、阿弥陀様に任せなさい」というのが、浄土の教えである。
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