第20話 3月の蝉
3月の暖かな日、灰白色の地面が少しだけ盛り上がった。見るとそこには、小さな穴が開いている。
穴の中には、キラリと光る目が二つ。蝉の幼虫が、今まさにこの世界へ現れようとしているところである。
幼虫は戸惑っているのか、なかなか穴の外へと出てこようとはしない。
それもそのはず。いくら暖かな日差しが降り注いでいるとはいえ、今はまだ3月。少し日陰へでも入ろうものなら、生物達はたちまち凍えてしまう季節でもある。
そんなことを知ってか知らずか、その蝉の幼虫も容易に穴の外へと出てこない。
それでも少しの時間の後、蝉の幼虫は意を決したかのように、その巣穴より這い出してきた。
すかさず、近くにある桜の木にしがみつく。しかし若葉はおろか、まだ花芽も芽吹いていない桜では、蝉の幼虫は自分の姿を隠すこともままならない。
蝉の幼虫は必死の思いで、地面から50cm位のところまで這い上がっていった。時より吹く北風は、彼の身体を硬く凍えさせる。
(土の中に比べて、なんて寒いんだろう・・・ )
それもそのはず。この蝉の幼虫が居たところは、温水配管が近くを通っていて冬でも十分暖かい。逆に言うと、それが蝉に季節の感覚を狂わせてしまったのかも知れなかったのだ。
蝉の幼虫は、凍える手でしっかりと幹につかまりながら、辺りを見回してみる。
(それにしても、仲間達は何処に居るんだろうか?・・・)
彼の視界の中には仲間の幼虫の姿どころか、蝉となった大人達の姿もない。
(何でだろう?・・・)
そう思ったとき、急に身体の芯の辺りからゾクゾクするものが感じられた。
(えっ、これって何だろう?・・・)
幼虫が思う間もなく、彼は静かに目を閉じると、幾分背中を丸めるようにと硬くなり、そして動かなくなった。
羽化が始まったのである。
1時間後、幼虫の背中だったところ辺りに亀裂が入り真っ白い蝉の成虫が姿を現した。そして時間が経つに連れ、彼の身体と羽は段々と茶色を帯びてきた。
アブラゼミの誕生である。
真夏の象徴でもあるアブラゼミが、3月の、しかもまだこんな早い時期にこの世に生を受けたことになるわけである。
蝉は身体を身震いさせると、少しだけ羽を広げてみる。羽の隙間から入り込む空気の冷たさに驚いたものの、やはり大きな空間にいるという開放感は彼にとって格別なものである。
「何て気持ちが良いんだ」
思うと同時に、蝉は大空高くまで飛んでみる。
今まで彼の記憶にある景色とは、全く別の世界がそこには広がっていた。前転をしてみる。こんどは後方宙返りだ。
ひとしきり飛び回ると、蝉は別の桜の木へとすがり着いた。
「それにしても、僕の仲間はいったい何処にいるんだろうか?・・・」
その日、蝉はこの世界へと飛び立つことができたという喜びの中で、静かに眠りについた。
次の日、蝉は仲間達を捜す旅へと出た。
当然それが蝉の習性でもあり、この地上へと現れることができた彼らにとっては最後の役目と言うことでもあるからだ。
しかし、一日中飛び回ってみたが、何処にも仲間の姿を見つけることができない。
3月の蝉にとって、それは当然といえば当然のことであり、後には例えようもない孤独感が彼を包み込んだ。
「僕は、何故ひとりなんだろう?・・・」
二日目の夜、蝉は独りぼっちを噛み締めながら、高い木の枝で涙を流した。
三日目は冷たい春の雨。蝉は一日中、シロダモの葉の裏でずっと考えていた。
(きっと、僕以外の仲間は何処にもいないんだ。このまま一人で居ても仕方がない。いっそのこと、鳥にでも食べられてしまった方が役に立つのだろうか?・・・)
どれも確かな答えが得られないまま、蝉はなかなか寝付かれない夜を過ごした。
四日目、鳴くことも忘れてしまった蝉は、ふと木の下に目を落とした。
そこには一人の人間の子供が、膝を抱えて泣いている姿がある。友達にいじめられたのだろうか、その子の身体には幾つもの靴の跡が残っている。
蝉は見るとはなしに、その人間の子を目で追った。
ところが、その子は鞄だけをそこに残すと、乾いた顔で歩き始めた。その先には電車の踏切がある。
当然蝉には、それが何を意味するものなのか、そしてこの後何が起こるのかなどと分かろうはずもない。
蝉のその丸い目には、その子が警報機の鳴る踏切の中へと吸い込まれて行く姿が映っていた。蝉は生まれて初めて生き物が目の前で死んでいく様を目撃したのである。
「どうして?・・・」
昆虫には感情がないなんて誰が言ったのだろうか、少なくとも3月に生まれたこの蝉には、今の悲しみを十分に感じることができた。
その日一日、蝉は声を出さずに悲しんだ。
五日目の朝、蝉は何かを振っ切れたかのように明るい顔をしている。樹木の幹に滴る朝露をお腹いっぱいに吸うと、こう呟いた。
「今僕が置かれている状況が、たとへ最悪なものだって構いやしないさ。僕に残された時間、僕は立派な蝉として生をまっとうしよう!」
蝉は大きく羽を振るわせる。
「だって、僕は蝉なんだから・・・」
蝉は何度も何度も、その羽を大きく振るわせた。
3月のその日、近くの公園でアブラゼミの鳴き声を聞いたという人々の声が、夕方のニュースで話題になっていた・・・
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