第40話 彼女が少女を好きだということ
これは夢なんじゃないかと、時々思ってしまう。
日向がいて。
椿がいて。
優しい人たちが、私の傍にいてくれて。
毎日が暖かな幸せで満ち溢れている。
一生手に入らないと思っていたものが、信じられないことに、こうして私の元にあるのだ。
叶うはずがない夢が、現実になるなんて思いもしなかった。
つい、こんなに幸せでいいのだろうかと、日向に溢してしまったことがある。
こんな幸せ、私には不相応に思えてしまったから。
でも、彼女は
『何言ってるの、陽織はもっともっと幸せにならないと駄目だよ』
そう、優しい笑顔で言ってくれた。
なんて人だろう。
どれだけ私を幸せにすれば気が済むのだろう。
赤口椿に、そして早瀬日向と出会えたことに、心から感謝したい。
私は、あの人を好きになって――本当に良かった。
「ねえ陽織さん、聞いてる? 私の話」
「え?」
「聞いてなかったみたいだね」
ひとり考え込んでいた私は、目の前にいる彼女の呼び掛けによって現実に引き戻された。瑠美ちゃんは呆けた顔をしている私を見て、困ったように苦笑いをしている。
私は気恥ずかしくなり、誤魔化すように手元にあったカップに口をつけた。さっき淹れたばかりだと思っていたのに、すっかり中身の紅茶は冷え切っている。
「ふふ、何考えてたの?あ、もしかして姉さんのこと?」
「……違うわ」
心を読まれたのかと内心ドキリとしたが、動揺を悟られないよう努めて表情を変えずに彼女の言葉を否定する。困ったことに、彼女は彼女の姉ほど鈍くはないのだ。どうせ私の否定の言葉など、全く信じていないのだろう。その証拠に、彼女はさっきからニヤニヤと含み笑いを浮かべているのだから。
「姉さんは幸せ者だね~。こんな綺麗な人にこんなに想って貰えて」
「だから、違うと言ってるでしょう」
恥ずかしくなって目を逸らす。そんな態度をとったら彼女の言葉を認めているようなものだけど、直視に耐えきれなかった。顔が、とても熱い。
「あはは、陽織さん可愛いっ」
「……………」
瑠美ちゃんはからかうように笑う。その笑い方が“彼女”のものとそっくりで、思わず見入ってしまった。今は血が繋がっていないとはいえ、さすが姉妹といったところだろうか。
(それとも、ただ私が重症なだけか)
気を抜けば、彼女のことばかり考えている気がする。いい年して恋にのぼせ、浮かれている自分が恥ずかしくて情けないと思う。恋人が出来たとはいえ一児の母なのだから、いい加減に落ち着かないといけない。
そう思う一方で、彼女が好きだという気持ちは日に日に増すばかりなのだから困ったものだ。
「はぁ。陽織さんが一途に思ってくれているのに、姉さんときたら」
「?」
瑠美ちゃんは手のひらを額に当てておおげさに溜息を吐き、さっきまでの笑顔が嘘のように表情を曇らせていく。
「ようやく二人が付き合い始めたと思ったのに。姉さん、バイト始めたんでしょう?」
「ええ」
何の相談もなく彼女がアルバイトを始めたのは、確かに付き合いだしてすぐのことだった。驚いたけれど、彼女が考えて決めたことなのだから、特に反対はしていない。
「ありえないでしょ、普通。やっと両想いになれて、これからイチャイチャ三昧だーって時に急にバイトなんか始めちゃって」
「イチャイチャ三昧って……」
「最近、会える回数減ってるんじゃない?」
「……………」
彼女の言うとうり、日向がバイトを始めてからというもの、会える回数は極端に減っている。
バイトがない日は顔を見せに来てくれるけれど、シフトがない日はほとんど学校のある平日なので一緒に居られる時間は少ない。私の休日と彼女の休日が重ならないので自然と会う回数は減ってしまうのだ。
今日だって土曜日なのに、日向の顔を一度も見ていない。
「寂しくない?」
「……ええ」
嘘だ。
本当は、寂しい。
もっと傍にいてほしい。
初々しい恋人のように甘い日々を過ごしたいなんて思わない。ただ、傍にいてくれるだけでいい。
けれど、そんなこと、口が裂けたって彼女には言えない。
「……陽織さん、変わったね」
「え?」
「昔の陽織さんだったら、何を言われても絶対表情を崩さなかったのに。今の陽織さん、凄く寂しそうな顔してるよ」
瑠美ちゃんは嬉しそうに微笑む。
感情を表に出したつもりはなかったのに、自然と表情が変わっていたらしい。
昔の私だったら、自分の感情を相手に悟らせるなんてこと、絶対しなかっただろう。
私は…そんなに変わったのだろうか?
「我慢なんかしないで、もっと姉さんに甘えてもいいと思うよ」
「それは、できないわ」
「どうして? きっと姉さんだって陽織さんに甘えて欲しいと思ってるよ?」
「それでも」
日向は優しいから。
私が望めばきっと何だって叶えてくれる。
自分を犠牲にしてでも、喜んでやろうとする。
そういう、馬鹿な人だから。
だから、我侭を言って彼女に迷惑をかけたくない。重荷になりたくない。
彼女にはもっと自分の為に生きて欲しいから。
「まあ、2人の問題だから私がとやかく言うつもりはないけどね。でも、我慢するのは良くないと思う」
「……私は」
「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言葉や行動で伝えないと、後で後悔しちゃうよ?」
「そう、ね」
昔から、ずっとそうだった。
本当は伝えたくて仕方がないのに、結局言えなくて後悔ばかりしていた。
ずっと本音を言えなくて、取り返しのつかないことになったこともあった。
何度も経験しているはずのに、何度も繰り返してしまう。
「うん。素直に気持ちを伝えるって、凄く難しくて恐いけど…姉さんだったら、大丈夫だよ。信じてあげて」
瑠美ちゃんに言われると、不思議と安心する。
椿が亡くなって塞ぎこんでいた私を、ずっと傍で支えてくれていた彼女。
何度感謝しても、し足りないほどだ。
「けどね、瑠美ちゃん。確かに会えないのは少し寂しいけれど……それでも私は今、じゅうぶん幸せなのよ」
長い間すれ違っていた娘と向き合うことができた。
失ったはずの大切な人と再び出会い、想いを通わせることができた。
それに、優しい人たちが私達を見守ってくれて、支えてくれている。
毎日が幸せだった。
私にはもったいないほどに。
「陽織さんも姉さんも、ほんっと不器用なんだから」
「そうね」
私が同意すると、瑠美ちゃんはテーブルの上に両肘をついて顔を支え、困ったように息を吐いた。
彼女はこうして時々、日向に言えない話を聞いてくれるし、色々な相談にも乗ってくれる。
ほとんど友人のいない私にとって、瑠美ちゃんは心の置ける数少ない理解者だった。
「でもそんな調子だとまだ全然進展してなさそうだけど……どうなの?」
「どうって」
「だから、恋人らしいことやってるのかなぁって」
「………………べつに」
「鈍感を人の形にしたような姉さんだもの。色々と難しいんじゃ……ってあ、あれ? 陽織さん、顔真っ赤だけど……え?まさか」
感情が素直に出るようになったおかげで、どうやら伝わってしまったようだ。
今日ほど無表情だった頃の自分に戻りたいと思った日はない。
「おやおや? これはもしかして~?」
「勘繰るのは止めなさい」
瑠美ちゃんはずいっと身を乗り出して、顔を近づけてくる。そんな子供のようなキラキラした瞳で見られても“先日のこと”を言えるわけもない。
どう答えようか悩んでいると、不意に思い出してしまい、さらに顔が熱くなってしまう。
「んふふ、2人のことだから全然進展してないだろうなぁと思ってたけど、やることはやってるみたいでちょっと安心しちゃった」
死ぬほど恥ずかしくて、今すぐこの場から逃げ出したかった。
瑠美ちゃんの顔をまともに見れなくて、何気なく冷め切った紅茶を一気に飲み干す。
「根掘り葉掘り詳しく聞きたいところなんだけどね」
「…………」
「陽織さんのことだから絶対答えてくれないだろうし、これ以上聞く気ないから……そんな怖い目で睨まないでくださいよ」
「べつに、睨んでるつもりはないのだけれど」
これは私なりの、精一杯の照れ隠しだった。
これ以上この話を続けるのはまずいと踏んだのか、彼女は露骨に話題を変える。
「そういえば姉さん、最近背が伸びてきたよね。もう伸びないかもって言ってたのに」
今の日向の身長は瑠美ちゃんと変わらないくらいで、私より少し低いぐらい。再会した時は女子高生の平均的な身長だった彼女だけど、ここ数ヶ月で随分と伸びたようだ。前からもう少し身長が欲しいと言っていたので、本人は背が伸びて喜んでいるようだった。
「椿ちゃんも大きくなったよね……胸とか。それと胸とか」
「あの子は胸が大きくなって困ってたみたいだけど。恥ずかしいとか言って嫌がってたわね」
「いいなぁ。私もせめてもう少し欲しいなぁ」
「瑠美ちゃんだって、そこそこあるじゃない」
彼女は大きくはないけれど、小さいわけでもない。平均的なサイズかもしれないが、それだけあれば十分だと思うけれど。控えめな胸の人から見れば贅沢な悩みだと言われるに違いない。
「陽織さんほどじゃないけどね。んー、やっぱり遺伝なのかな。お母さんも昔の姉さんも普通サイズだったし」
そう言って真剣に自分の胸をペタペタと触っている。私としては瑠美ちゃんくらいの大きさが理想だと思うけれど、私が言うと嫌味になってしまいそうなので黙っていた。
「でも、大きくなったよね、椿ちゃん。ついこの間まで小さかったのに」
「ええ」
成長していく娘を見ていると、嬉しい反面、寂しい気持ちにもなる。あんなに小さかった椿が、あっという間に大きくなって、もうすぐ高校3年生になるというのだから月日が経つのは早いものだ。
あの子が子供でいられるのも、きっともうあと少しだけ。彼女が自立していくまでの間に、今まで何もできなかった私は、親としてこれから何をしてあげられるだろうか。
「色々あったけど、時間が経つのって早いね」
「本当にそうね。瑠美ちゃんもこんな立派に成長したんだもの、私も年をとるはずだわ」
「あはは、なんだか照れちゃうな…。でも陽織さんは変わらず綺麗だよね。羨ましいかも」
「そんなことないわよ」
「恋をしてる女性は綺麗になるって言うしね~」
再びニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。
ここ最近はこうやってからかわれる事が多いので厄介だけど、不思議と嫌ではないのはどうしてだろう。
これは……惚気…というものなのだろうか。
だとしたら相当恥ずかしいのだけど。
「お母さん」
「あら?」
自分の部屋で勉強しているはずの娘が、ひょっこりとドアの隙間から顔を出した。
こちらの様子を伺うように見てから、遠慮がちに部屋に入ってくる。
「どうしたの?」
「消しゴムがなくなったので、買いに行ってきます。あ、ついでに晩御飯の材料も」
「そう。荷物が多くなりそうだったら私も一緒に行くけど」
「ううん、大丈夫です。今日はそんなに買いませんから」
仕事で忙しくなかなか家事が出来ない私の代わりに、椿が家の事を全てやってくれていた。せめて休みの時くらい代わってあげたいのだけど、普段やらないせいか、手伝うと逆に椿の仕事を増やす結果になってしまう。
「はぁ~いつ見ても椿ちゃんは偉いなぁ。こんな立派に成長しちゃって。お姉さんは嬉しいよ、うん」
「い、いきなり何を言い出すんですか瑠美さん。お酒飲んでます?」
「ひ、酷い。椿ちゃん最近ちょっとお母さんに似てきたよね、内面的な意味で」
「どういうことかしら」
「いえ、何でもないです」
正面からじっと見つめると、瑠美ちゃんは居心地悪そうな表情になり、すぐに目を逸らして明後日の方向を見た。
「あ」
けれどすぐに何かを思い出したようで、ポケットから携帯を取り出してディスプレイを見つめている。メールか何か来たのだろうか? 何やら表情がどんどん曇ってるようだけど。
椿と顔を見合わせてから、しばらく2人で携帯と睨めっこしている瑠美ちゃんを見ていた。
「まったくもう、あの子は……」
パタンと携帯を閉じて、彼女は重い溜息を吐いた。
「何かあったの?」
「……小姫ちゃんが逃げた」
「「え?」」
「今日は指定の時間まで勉強するように言ってあったのに、いつの間にか部屋を抜け出して外に遊びに行っちゃったみたいなの。今、恵美子さんがメールで教えてくれた」
「それは……まあ、大変ね」
確かあの子は今年受験だったはず。椿や日向と同じ高校を受けるらしく、今年は頑張って猛勉強していたようだけど。大丈夫なのかしら。
そういえば成績がギリギリで危ないのだと日向が心配していた気がする。
「ちょっと目を離したらこれなんだから……ああ、もう」
「あ、あはは。小姫ちゃんらしいですね」
瑠美ちゃんが私の家にいるのも、元々は早瀬家に家庭教師として来ていた帰りに寄ってくれただけだ。自分の仕事のこともあるのに、受験生の家庭教師を引き受けるなんて熱心なことだと思う。
「椿ちゃん、買い物に行くんだよね? 私もついて行っていい? 小姫ちゃん探しに行くから」
「それは構いませんけど」
「そういうことだから陽織さん、今日はこれで帰るね」
「ええ、頑張って」
「うん!」
席を立ってから、拳を握って意気込んでいる。
これは捕まるのも時間の問題だろう。可哀想だけど、しかたがない。
勉強ばかりで遊びたい気持ちも分るけれど、無事合格する為には我慢しないと。
「さっさとあの子を連れて帰って、罰として新しい問題集をやらせるんだから!」
「……ほどほどにしてあげなさいね」
いつも思うけれど、瑠美ちゃんは日向の妹に対して自然体で接している気がする。なんと言えばいいのか、目が生き生きしてる。顔を会わせては口論している2人だけれど、決して仲が悪いというわけではなくて。
ああ、そうだ。喧嘩するほど仲がいい、ということなのかもしれない。そう思うと、微笑ましい。
「じゃあね、陽織さん。姉さんと仲良くしてね」
「はいはい」
「行ってきます、お母さん」
「ええ。気をつけていってらっしゃい」
仲良く出掛ける二人を見送って、私は一人リビングへと戻った。
空になったカップを台所へ持って行き、片付けてからソファに座る。
急に静かになった部屋で、何をするわけでもなくただぼーっとしていた。
「?」
これから何をしようか考え始めた時に、玄関が開く音がした。
椿か瑠美ちゃんが何か忘れ物をしたのかもしれない。
ソファから腰を浮かせて、立ち上がる。
「おじゃましまーす」
「!!」
玄関に向かおうとして聞こえてきた声は、今、一番会いたい人のもの。
たった一声を聞いただけで、胸の奥が熱くなる。
考えるより先に身体が動いて、早足で玄関に向かうと、そこにいたのは靴を脱いでる最中の日向だった。
私がいることに気づくと、にっこりと笑って私の名前を嬉しそうに呼んだ。
「あ、陽織」
「日向っ…今日バイトじゃなかったの?」
「うん、バイトだったよ。いつもより早くあがれたから、来ちゃった」
靴を脱ぎ終えて家に上がった日向と共にリビングへ行く。
彼女は部屋に入ってすぐソファに身を預け、ぐったりと寝そべった。
……どこをどう見ても、疲れているのがわかる。
日向のことだから、疲れているのに無理して会いに来てくれたんだろう。
会えたのは嬉しいけれど、無理をしてまで会いに来て欲しいとは思わない。
「日向、疲れてるでしょう? ……無理に来なくてもいいのよ、私なら平気だから」
全然平気なんかじゃないくせに、私の口は本心とは真逆の言葉をスラスラと並べる。
どうして素直に気持ちを伝えることが出来ないんだろう。
どうしてもっと傍にいて欲しいと、たったそれだけのことを言えないんだろう。
悔しくて…自己嫌悪で、泣いてしまいそうだった。
「……」
日向は何も言わず傍に寄ってきて、そっと私の手を握る。
彼女の手は暖かくて、柔らかくて、気持ちがいい。
小さな温もりが、私の体温を上げる。
「あのね、陽織。私は無理して陽織に会いに来てるわけじゃないんだよ? 私が陽織に会いたいから来てるの」
彼女はもう片方の手を、私の頭の上に乗せる。
ほんの数ヶ月前までは腕をめいっぱい伸ばさないと乗せることが出来なかったのに、今は難なく頭に触れることが出来ている。
彼女の成長を近くで感じて、ドキリとした。
「陽織は私に会いたくないの?」
「そんなこと…ない、わ」
「良かった」
心から安堵したような、優しい笑みを浮かべる。
私は、彼女の笑った顔が大好きだ。
太陽みたいに眩しくて、暖かくて、穏やかな気持ちになれる。
とても、安心する。
何度彼女の笑顔に癒されただろう。
救って貰っただろう。
「陽織」
彼女の顔が不意に近づいてきたと思ったら、目を閉じる暇もなく唇を塞がれた。
軽く触れるだけだったけれど、私の頭を沸騰させるのには十分で。
ゆっくり顔を離すと、目の前には照れくさそうにしてる恋人の顔があった。
「そろそろ慣れてもいいと思うけど」
「慣れるほどしてないじゃない」
「ああ、うん」
顔を少しだけ紅く染めて苦笑している彼女を、キッと睨む。
すると彼女は困ったように頬をかいてモゴモゴと言葉を濁した。
初めて日向と口付けを交わして今に至るまで、片手で数える程しかしていないのに、それで慣れろと言われても困る。
……けど、どうして日向はそんなに余裕があるのだろう。彼女はもう、慣れたのだろうか? するたびに緊張したり、胸が高鳴ったりするのは私だけなのだろうか?
そんな些細なことで、不安になってしまう。
本当に、私のことを好きでいてくれてるのか、解らなくなる。
「陽織」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
彼女の方を見ると珍しく真剣な顔で私を見ていた。
「言いたいことがあるなら、隠さず言ってね。私って馬鹿で鈍いから、言ってくれないと解らないかもしれない。知らないうちに陽織のこと傷つけるなんて嫌だし、辛いから」
「日向…」
握られた手に、ほんの少し力が加わる。
「私は今、たくさん陽織に甘えてる。私のやりたいことをやらせてくれる。受け入れてくれる。前の私だったら、迷惑かけたくないって遠慮してたかもしれない。けど、陽織が甘えていいって言ってくれたから。そのおかげで私は安心してやりたいことをやれてるし、誰かに頼ることの大切さを知ることができたんだよ」
頭に乗っていた手が、優しく私の髪を梳いた。
彼女は私の髪を弄るのが好きなのか、暇があればよく触っている気がする。
髪を触られるのはくすぐったいけれど嫌じゃない。いや、むしろ好きだった。
「だから陽織も迷惑だとか色々気を使わないで、もっと甘えていい…というより甘えて欲しいかな。頼ってほしいよ」
やさしく抱き寄せられたので、そのまま彼女の肩に自分の顔を埋める。
彼女から香る甘い匂いを嗅いでいると、とても落ち着く。
私をこんな気持ちにさせてくれるのは世界中どこを探しても彼女一人だけだろう。
――もう二度と、この温もりを失いたくない。
「ねえ、日向…」
「なに?」
彼女の服をぎゅっと掴んで、握り締める。
少しだけ、自分の手が震えていた。
「ほんとは……寂しい」
「うん」
「傍にいてほしい」
「うん」
声が、掠れる。
本当の気持ちを伝えるのは、やっぱり恐い。
でも、それでも……知って欲しいと思う。
貴女のことが、こんなにも好きなのだと言うことを。
「…なかなか会えなくて、ごめんね。でも陽織も寂しいって思ってくれてて嬉しいな。陽織ってば全然平気そうな顔してるから、会えなくて寂しいのは私だけなのかも…って思ってたからさ」
「鈍感」
「ですよね」
強く抱きしめてくれて、心も身体も温かくなる。
ずっと感じていた不安や寂しさは、もう感じない。
「こうやって我慢しないでお互いもっと気持ちを言葉にしようよ。そしたら、きっと不安なんて感じないし、対等でいられるから」
「ええ、そうね。善処するわ」
互いに身体を離して見つめ合う。
そっと目を閉じると、すぐに温かくて柔らかいモノが唇に押し当てられた。先程よりも長く、深い。一度だけじゃなく、角度を変えて何度も何度も繰り返す。手を繋いで、指を絡める。息が苦しくなって少し顔を離すと、コツンと額と額がぶつかった。2人とも顔が真っ赤なのがおかしくて、くすくすと笑いあう。繋いだ手から彼女も緊張しているのが伝わってきて、日向も私と同じなのだと解かり、安心した。……やはり不器用なのかもしれない、私たちは。
「こうしてたまに二人で会えれば、私は大丈夫だから……日向は自分のやりたいことを、最後まで頑張りなさい」
「寂しくない?」
「ええ。全く寂しくない――わけじゃないけれど。大丈夫よ」
頼ることと、依存することは全く違う。
私は彼女に寄り掛かりたいわけではなくて、隣に並んでいたい。
私を支えてくれる彼女を、支えていたい。
「ありがとう」
彼女の良き理解者で在りたい。
二人で、周りの人たちと共に幸せな人生を歩んでいきたい。
昔の自分ならこんな考え方をしなかっただろうけど。
私はもう、自分の想いを偽りたくない。
もう二度と、手離したりしない。
「あー、うん、えっと、そういえば椿は? 玄関に靴がなかったけど、どこか出掛けてるのかな」
慌てて身体を放して不自然な笑顔を浮かべた日向は、甘い空気を振り払うようにやたら明るい声で問うてきた。私も彼女も恋愛初心者なので、良い雰囲気を長い間保つことが出来ないのだ。こればかりは月日を重ねて慣れていくしかないだろう。
「椿なら買い物に行っているわ。瑠美ちゃんも小姫ちゃんを探すついでに一緒にいるはずよ」
「小姫? ああ、また脱走しちゃったんだ。どうせすぐ捕まるのに、めげないなぁあの子も」
日向は呆れた顔をして、けれど楽しそうにくすくすと笑う。
「妹さんは今年受験生で、今は大変な時期なのよね。その、大丈夫なの?」
「うん。瑠美が見てくれてるからきっと平気だよ。小姫もやる時はちゃんとやる子だから」
彼女は“姉”の顔で穏やかに笑う。
しっかり心配はしているけど、2人の妹のことを信頼しているのだろう。
「ところで、日向も来年は受験生でしょう? ちゃんと勉強してるの?」
「それは大丈夫。成績も学力も問題ないし、推薦も貰えるかもしれない」
「それならいいのだけど。行くところは決めてるの?」
「まだ絞ってないけど、やりたいことは決まってるから」
彼女の言葉には迷いがなく、随分と余裕を感じられる。
どうやら進路は決めているようなので、余計な心配をしなくても良さそうだった。
「………」
会話が途切れる。
伝えたいことや話したいことは沢山あったはずなのに、うまく言葉に出来ない。いつもなら日向が話を振ってくれるので、口下手な私はそれに合わせて話しているのだけど。
「日向?」
やけに静かなので不思議に思い隣を見ると、彼女は気の抜けた顔で寝息を立てていた。
……やはり、疲れていたのだろう。揺さぶってみても全く起きる気配がない。
こんなところで寝ると風邪をひいてしまうので、どうにかしないと。ベットに寝かせてあげたいけれど、自分とあまり体格の変わらない日向を運ぶのは難しい。おまけに非力なので、ソファにちゃんと寝かせることも出来そうにない。
私に出来るのは風邪をひかないように毛布をかけてあげることぐらいだろう。そう思い、毛布を取りに行く為に立ち上がろうとしたら、日向が私の方に寄りかかってきたので立てなくなった。私の肩に頭を乗せ、気持ち良さそうに眠っている彼女の顔を見てると、動けない。
「仕方ないわね」
もう少ししたら椿も帰ってくるだろうから、しばらくそのまま寝かせてあげよう。
邪魔にならないよう前髪をそっと払い、穏やかに眠っている彼女の顔を見つめる。
「ふふっ……こうしてると、昔を思い出すわね」
遊びに来たと思ったら、私を放っておいて寝始める、非常識な女の子。
いつも私の肩を枕代わりにして、気持ち良さそうに眠っていた。
年上のはずなのになんだか頼りないし、無邪気で子供っぽい人だとずっと思っていたけど。
けど、彼女は私よりもずっとずっと大人だった。
優しくて、一生懸命で、自分よりも他人を大事にする、とんでもないお人好しだった。
「ありがとう、日向」
私と椿を守ってくれて、ありがとう。
生きることの尊さを教えてくれて、本当にありがとう。
これからもずっと、私の隣で、笑っていてください。
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