第9話 隣にある場所



「――さん」


 ん?

 あれ、誰かに呼ばれている。


「――日向…さ…」


 呼ばれているなら、起きないといけない。

 意識はすでに覚醒しているけど、瞼が重たくてなかなか目が開いてくれなかった。


「っ!?」


 ようやく睡魔に抗って目を開けると、懐かしい顔が視界に映って驚いてしまい、勢いよく身を起こした。


「きゃっ!?」


 急に起き上がった私に驚いて、傍にいた誰かが飛び退いた。よく見てみるとそこにいたのは椿で、相当ビックリしたのだろう、胸に手を当てて深呼吸を繰り返していた。私も表面上は落ち着いているが、内心すごくドキドキしている。


「ご、ごめんね。驚かせて」

「……………」


 彼女は何も言わず、真面目な顔で私をじっと見つめていた。えーと? あれ、もしかして怒ってるのかな? 椿が近づいてきて手を私の方に向けたので、叩かれてしまうのかと一瞬身構えたがどうやらそういうわけではなくて、目元に溜まった雫を指で拭ってくれただけだった。


「……え?」

「日向さん、泣いてました」


 目元に手を当てると確かにそこは湿っていて、頬を撫でると涙を流した痕がある。自分が泣いていたなんて、全く気付いていなかったので驚いた。


「悲しい夢を見てるのかなと思って、勝手に起こしてしまいました……ごめんなさい」

「ううん、ありがとう。悲しい夢じゃなかったけど……懐かしくて、泣いちゃったのかな」

「懐かしい夢、ですか」

「うん。ずっと昔の、大切な思い出」


 この町に引っ越してからよく懐かしい夢を見るようになったのは確かだった。

 けど、引越しした事が原因じゃないってことは、解ってる。

 おそらく、昨日彼女に会ったことが原因なんだろう。


「前の街に、帰りたいですか?」

「そういうわけじゃないんだけどね」


 引越し前の街を懐かしんでいると勘違いされてしまったようだ。…まぁ、もう二度と『あの場所』に帰ることは、できないし。


 どんどん落ちていく気分を悟られないように隠して心配そうに私を見る彼女に微笑み、身体をほぐすために大きく背伸びをした。そこで目が覚めてから気になっていた事があるのを思い出す。


「でも、なんで椿が私の部屋にいるの? ――あれ?」


 そう自分で言ってすぐに、大事なことに気付いた。


「はああっ!?」


 傍に置いていた携帯を手に取り時間を確認すると、時計は既に約束していた時間を通り越していた。


「うあ、あああ……」


 なんてことをしてしまったんだ私は!?

 約束の時間を破るなんて最低だ最悪だバカ、自分ほんと馬鹿だよこんちくしょう!!

 ああああもう、昔『彼女』に散々言われたことなのに、どうしてこう、守れないんだろう。


「ごめんなさい……私はもう切腹する覚悟にございます」

「い、いいです! やめてください!! 気にしないで下さい!! 落ち着いてください!!」


 慌てた椿に一生懸命止められたので、ひとまず落ち着いた。色々とごめんなさい。


「はぁ」

「あの、元気、出してください」

「あはは、椿は優しいなぁ」


 私のような駄目人間にこんなに優しくしてくれるなんて、いい子すぎるよ。


「――昔さ、時間に厳しいっていうか、全てに厳しい幼馴染みがいたんだ。その人はちょっとでも待ち合わせに遅れるとすごく怒るもんだから、時間を守るようにいつも気をつけていたんだけど……でも、なかなか上手くいかなくて」


 毎回、怒られていた。

 不機嫌になって口もきいてくれなくて。

 でも、最後にはやっぱり許してくれる。


「そうだったんですか」

「自分では頑張ってるつもりなんだけどね」

「しかたないですよ」


 約束の時間に遅れたのに怒るどころか気遣ってくれる。

 優しさが嬉しくて、それ以上に申し訳なかった。


「すみません…次回は、頑張りますので」

「ふふ、はい」


 コンコン。

 ちょうどいいタイミングで扉をノックする音が聞こえてきた。

 

「小姫?」


 名前を呼ぶと、扉が開いて小姫の姿が見えた。


「お昼ごはんできたよーってお母さんが。椿さんも良かったら食べてってね♪だって」

「え、でも」

「ぶっちゃけるともう作っちゃったから、食べてくれると嬉しいかも」

「……それじゃあ、遠慮なくいただきます」

「私は着替えてから行くから、2人は先に行っててくれる?」

「はい」

「早く来てよ~お腹すいてるんだから」

「はいはい」


 2人が部屋から出て行くのを見届けてから、

 小姫が空腹で暴れないように大急ぎで着替えることにした。



*



「お邪魔しまーす」


 お昼ごはんを食べ終えてから、予定通り椿の家にお邪魔することにした。

 初めて訪問するお隣さんのお家。やだ、どきどきしちゃう。


「こちらへどうぞ」

「あ、ご丁寧にどうも」


 玄関から入って案内されるまま辿り着いたリビングは、広くて綺麗でとても立派だった。

 身の置き場に困っていると、ソファに座っていて下さいと言われたので遠慮ぎみに座る。椿はお茶を淹れに台所に行ってしまったので、する事が何もない私はキョロキョロと周りを見渡した。広い部屋だけど、無駄なものがなく必要な物だけしか置いてないので余計に広く感じる。あんまり見るのも失礼かなと思ったので、大人しくしておこう。


「お待たせしました」


 お盆にお茶を乗せた彼女が戻ってきて、お茶を渡してくれた。


「ありがとう」


 せっかく淹れてもらったので、さっそくお茶に口をつける。――うん、美味しい。お茶の良し悪しが判らない自分でもこのお茶は特別美味しく感じるので、きっといいものなんだろう。


「あ、ちょっと待っていてください」


 そして再び彼女は部屋から出て行ってしまったので、またこの広い空間にひとりぼっちになってしまった。とりあえずお茶を飲みながら、ひとりでのほほんと和む。


(この広い家で、2人だけで暮らしているのか)


 母親は仕事で忙しいようだから、いつも椿は、この部屋でひとりなのだろうか。

 ――だとしたらそれは、とても寂しいことだと思った。


「日向さん、これをどうぞ」

「あ!!」


 椿は、両手に何冊かの本を抱えて戻ってきて、それをテーブルの上に置いた。表紙を見てみると、どうやら全部お菓子のレシピ本のようだ。


「昨日約束していた本です。お好きなものを持っていってください」

「い、いいの!? ほんとにいいの!?」

「はい」


 さっそく一冊を手に取りパラパラと中身を確かめてみると、見た事のないお菓子が沢山載っていた。知っているお菓子でも材料や手順が違ったりして、とても興味をそそられる。作り方を見ているだけでわくわくしてきて、早く作ってみたいと思った。


「……楽しそうですね」

「え、わかる?」

「はい、すごく目がキラキラしてて生き生きしている感じです」

「……うわー、なんか恥ずかしいかも」

「日向さんが楽しそうにしていると、私も楽しい気分になります」


 そう言った彼女の表情は眩しいくらいの笑顔で、本当に楽しそうだった。なんか、照れるなぁ。


「本、気に入ってもらえましたか?」

「うん! これと、これと、これを借りていっていい?」

「もちろんです」

「ありがとう!!」


 帰ってからゆっくり読ませてもらおう。

 私は借りた本をバックに入れようとして、そういえば渡すものがあったのを思い出した。


「これ、良かったらお母さんと2人で食べて」


 バックに入れていた物を取り出して彼女に渡す。昨日作っておいた特製プリンだ。普通のプリンではなく、甘さ控えめのカスタードプリンとチーズプリンの2種類を作った。頑張って作ったので、喜んで貰えると嬉しいな。


「わぁ!ありがとうございます!!」

「あはは、口に合うといいんだけど」


 気恥ずかしかったので視線を彼女から逸らしてテーブルの上に向けると、一冊のノートが置いてあるのに気付いた。気になったので思わず開いてみると、ページを捲るたびに可愛らしい絵が沢山描いてあるではないか。


「あ、ああっ、そ、それは!?」


 私が見ているノートに気付いたのか、急に顔を真っ赤にして素早くノートを奪い取られた。見られたくなかったのか、ノートをがっしりと両手で抱きしめている。


「み、見ました?」

「ごめんなさい。勝手にいっぱい見ました」

「あぅ」


 全面的に私が悪いので、正直に白状する。

 慌ててるところを見ると、きっと彼女が描いたものなんだろう。


「そのノートに描いてある絵は椿が描いたんだよね」

「はい、そうです。……誰にも見せたことがないので、恥ずかしいです……」

「とっても可愛い絵だったよ?」

「そ、そんなことないですよっ!」

「いやいや、本当に上手いと思う。暖かいっていうか、優しい絵だった」


 絵心は全くないし語彙も少ないから上手く伝えられないけれど、感じたままの感想をそのまま言った。


「…………っ」


真っ赤だった彼女の顔が、さらに赤くなっていく。


「また、見せてくれると嬉しいな」

「………はい」

「約束ね」

「約束、です」


 お互いに照れつつ、笑いあう。

 それからテレビを見たり、お互いの話をしたりして楽しいひとときを過ごした。



「でさ、おみやげ屋さんの試食コーナーが酷い事になってて……」


 中学の時の修学旅行の思い出を語っていた時、玄関の扉が開いた音がした。


「あ……」


 椿の母親が帰ってきたのだろうか。廊下を歩く音が聞こえてすぐに綺麗な女性が部屋に入ってきた。


「お母さん…今日は、早いんですね」


 椿の言い方が、どこか余所余所しくて冷たく感じた。さっきまでは明るく弾んだ声をしていたはずなのに、それを微塵も感じさせない。


「ええ、仕事が早く片付いたから……あら」

「どうも、お邪魔してます」


 私がいることに気付いたので、立ち上がって挨拶をする。時計を見ればけっこう長居していたようで、そろそろお暇したほうがいい時間だった。


「……そろそろ帰ります」

「ゆっくりしていっていいのよ」

「いえ、もう、遅いですし。椿、今日はありがとう。楽しかった」

「……私の方こそ、楽しかったです」


 先程まで楽しそうにしていた椿の顔が、気のせいか少し元気の欠けた顔になっている気がする。

 不思議に思いながら見つめていると、彼女は繕うように微笑んだ。


「どうしました?」

「ん、別になんでもない」


 バックを掴み、家に帰るために玄関のほうに向かうと、椿が見送りにきてくれた。靴を履いて彼女の方を振り向く。


「じゃあまたね」

「……外まで、送ります」

「ううん、家はすぐ隣だしここでいいよ」

「いいんです。私が、そうしたいんです」

「………あ、うん」


 有無を言わせぬ気迫を感じて、断れずに彼女の申し出を受けることにした。

 一緒に家を出て、すぐ隣にある私の家まで歩いていく。椿の顔をこっそり伺うと、俯いて神妙な顔をしていた。

明らかに彼女の様子がおかしい。


「どうかした?」

「え?」

「急に元気がなくなった気がしたから」

「………そんなこと、ないですよ」

「……そっか、ごめん。気のせいみたいで」


 それ以上深く聞くことが出来ず、口を閉じた。まだ出会って数日の私が聞いていいことではないのかもしれないから。それに、不用意にあまり深く関わらない方がいいんじゃないかと思う。

 私の家の前で止まって、椿と向き合った。その表情にはもう憂いはなく、彼女らしい穏やかな顔だ。


「じゃあね。わざわざありがとう」

「はい。それではまた」


 去っていく彼女の後姿に、幼馴染の影がうっすらと重なるのを見て、心臓が大きく跳ねた。


「…………っ」


 胸を無意識に押さえて、暴れている心臓が落ち着くのを待つ。


(逃げるなってことかな……)


 昔から深く考えたりすることが苦手で、何も考えず行動する馬鹿だったけれど、今の私は目をそむけて逃げようとしている臆病者なのかもしれない。


(このままじゃ駄目だよね)


 ようやく気持ちが落ち着いたので、ふらふらとおぼつかない足取りで玄関まで歩み寄る。

 私は一旦、自分の家に戻ってから、行っておきたいところがあったので再び外へと出かけることにした。


 

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