ラブ・シック

「ねぇ、信義しんぎ

 テーブルを挟んで向かい側。その距離は三十センチメートル。

 茶碗の底を持って、白米を口に放り込む信義は、口をすぼめたままで「ん?」と私を見る。その甘えん坊な顔が可愛くって仕方ない。

「ご飯つぶ、ついてるよ」

「え、ほんと? 取って取って」

「自分で取ってよ。ここ、ここについてる」

 私は口元を指してご飯つぶの位置を示した。信義は少しだけねた表情を見せ、渋々といった様子でつぶを探り当てる。指についた米を舌で舐め取った。

「ね、今日のご飯、どう?」

 ご飯つぶよりも大事なのは、丹精たんせい込めて作った料理の感想だ。

「おいしいよ」

 咀嚼そしゃくしてようやく出たものは、思っていたよりも素っ気なくて、今度は私が拗ねて口を結んだ。

「え、なになに? どうした、麻依まい。おいしいって言ってんじゃん」

 トマトとベーコンのシーザーサラダに、鶏の照焼き、わかめと豆腐となめこの味噌汁、ごぼうの唐揚げ、ごはんのお供に、鶏皮でつくったこごりまで用意している。それなのに「おいしい」だけで済まされるのはいかがなものか。

 毎日二時間かけてつくった料理も、十分かそこらでたいらげられてはに落ちないものがある。そのうえに感想が素っ気ないから、私の不機嫌は当然のものだと言える。

「えーっと、じゃあ、どうしよう……この……この、」

 私の心情を読み取るかのように、信義は不器用に唸った。煮こごりを箸で指して固まる。

「この、ゼリーみたいなのは、なんですか?」

「煮こごり」

 なんとなく口調が厳しくなる。これに伴い、信義の口も固くなる。

「へぇ……うーん、なにそれ」

「もういいよ」

 透き通った茶色を均等なさいの目にしたそれを、れんげですくってご飯に乗せる。アツアツの白米に乗せると、じわっととろけていく。まだ形が残ったままのものを口に放り込み、ご飯と一緒に噛むと鶏肉の風味がふわっと広がった。

 信義も私にならって食べてみる。目を大きく開かせて「んー」と堪らない声を出した。

「美味い! これ、作るの大変じゃないか?」

「うーん。まぁね」

 照焼きを作っている時に偶然できた産物だったけど、そういうことにしておこう。

 パクパクと食べる手を止めない彼の姿を見て呆れつつ、その勢いに飲まれて、私はもう不機嫌でいることをやめた。


 ***


 いつの間にか一緒にいることが多くなっていたから「僕と付き合ってください」なんていう儀式めいたものは有耶無耶うやむやにしていた。

 それでも麻依は、今まで付き合ってきたどの女とも違い、面倒にねだることはしない。それどころか、プレゼントにも執着しゅうちゃくがなく「何がほしい?」と訊いても、生活必需品なんかの要望ばかりだった。

 世間一般でいう恋人になるための順序は、僕らの間では適応されず、何段階かすっ飛ばしている。これに気がついたのは、彼女と三度目の夜を過ごしたときだった。

 セフレというやつか。そういう中途半端はしたくなかった。道理というものを踏み外している気がして、勝手に罪悪感を抱いてしまう。

 こんな概念が働き、僕は何度か麻依に正式に「付き合おう」と話を持ちかけようとした。しかし、三度も寝ておいて、今更である。なんだか言い出せず、また麻依は勝手に僕の部屋の鍵を借りて出入りするようになっていたから、これはおそらく彼女の業界で言う「暗黙の了解」なのだと認識することにした。

 彼女と出会ったのは、上司の行きつけのクラブだった。麻依はいわゆるじょうであり、しかし見た目は派手ではなく、むしろ控えめな女の子。僕より一つ年上。

 彼女に好意を持ったのは、上司が蒸すタバコの灰がテーブルに落ちたとき、さりげなく拭き取っていた場面だと思う。上司は、贔屓にしている嬢と機嫌よく話をしていたので気づいていない。麻依もまた自然とした動作で、彼らの話に加わっていた。そういうこまやかな気遣きづかいをする一面にかれて、僕は思い切って彼女と話をすることにした。

「よく見ているんですね」

 会話の始まりにしては脈絡みゃくらくがなく、彼女も怪訝に「え? 何を?」と半笑いで言う。僕は彼女が灰を拭き取ったおしぼりを指した。

「それ」

 すると、彼女は口角をキュッと横に上げ、はにかんだ。

「あら、不破ふわさんこそ、よく見てたね」

「ちょうど目に入ったから。そういうさりげないところが素敵ですね」

 シラフじゃ歯が浮くようなセリフ。とても言えないだろう。そんな僕のクサイ言葉に、彼女は嬉しげな笑みを浮かべた。

「そんなこと気にしてくれた人、はじめて」

 それから、上司にクラブへ連れて行かれるたびに麻依と話し、僕らは打ち解けていった。

 しかし、相手は夢売る徒花あだばな。本気にするわけがなく、僕は一線を置いていた。

 一方、麻依のアプローチは露骨ろこつとも言えた。会うたびに距離が近づき、彼女は僕の指に手を乗せるようになった。足をすり寄せ、太腿ふとももを触る。そんなことをされれば、誰だって勘違いするだろう。

 それも何度目かのこと。閉店後、ひっそりと色街から姿を消して、誘われるままホテルで一夜。二回目以降は彼女の家に招かれた。

 いわく「ホテル代、もったいないでしょ」とのこと。

 これはつまり、僕と彼女は客と嬢の関係だけにとどまらない、ということである。そこからは自然だった。

 簡易ベッドに薄い毛布。ホテルよりも殺風景さっぷうけいで、家まで温めていた熱が冷めてしまわないか不安だったが、彼女の狭い部屋で肌を寄せ合っている最中はそれはそれは甘く優しく、夢心地ゆめごこちだった。同時に、この部屋で何人の男と寝たのか想像すると、嫉妬しっとと不安が交互に押し寄せた。以前は誰かのものだった麻依。でも、今は僕だけのものだ。きっと。僕だけの。多分。僕のものだ。

 彼女はきれいだ。細く華奢きゃしゃな白い体に、大きく潤んだ黒い瞳のコントラストが美しい。今までにこんなきれいな女を抱いたことがあっただろうか。いいや、ないだろう。今までも、これからも。

 言葉はなく、なりゆきで始まった関係は互いの家を行ったり来たりすることが億劫おっくうになるほど続いた。


「なぁ。引越しを考えてるんだけど、よかったら、一緒に住まないか?」

 何度目かの夜、僕は麻依に言った。「付き合って」とは言えないくせに、大胆だいたんな提案はできるところ、僕は自分がよく分からない。

「一緒に? いいの?」

「あぁ。いつまでもこんな狭いベッドで寝るの、嫌だろ」

「うーん。寒いからくっつけるし、いいんだけどな」

 麻依は可愛い鼻声で言った。彼女の温度が高くなる。一枚きりの布団がもぞもぞ動いた。

 意外とそっけないから、僕は彼女の顔を覗き込む。

「お金が貯まったんだ。いつまでも新人じゃないんだし、四月で一年だろ。どっちみち引っ越すつもりだったからさ」

「ふうん? 本当に信義が貯めたの?」

 疑り深い。

「当たり前だろ。いつまでも親のすねかじってらんないし」

「へぇぇ?」

 妙なところにこだわってくる。僕のことを温室育ちだと揶揄やゆしてくるくらいふてぶてしいが、そこがたまらなく好きだから、彼女の鼻をつまんでやった。


 ***


 信義は、私にはもったいない男だった。そして物好きだと思う。

 職場の同僚に比べたら地味で、話も相槌あいづちくらいしかできない、取り柄のない私のことを見てくれていた。だから、連絡先を交換するのはわりと早かった。私は本当にどうしようもない生き物だ。

 初めて信義に会った時、私は彼のことが気になった。鼻筋がきれいで、その上に硬そうなメガネをのせている。あからさまに上司に「付き合わされた」と言わんばかりの仏頂面ぶっちょうづらが、どんな風に崩れるのか見てみたかった。だから、思わず彼を試していたの。仮面を外したとき男は大抵、女の腹の上であぐらをかく。彼もまた他の男と同じだったら嫌だなって。

 そうして冷やかすように試していたら、いつの間にか私の方が本気になっていた。彼を離したくないと思ってしまった。つくづく、私はどうしようもない生き物。

 一緒に住もうと言ってくれたときは、思わず涙が出てきてしまい、それを悟られないように彼の背中に涙を押し付けたのはいい思い出。何度か会って、なすがままに体を預けて、いつでも夜は愛しさで溢れていた。つまらない仕事も、信義に会うってだけで色を添えた景色に変わった。今まで体だけが目当ての男は山程いたけれど、彼のように繊細で優しくて、私を大事にしてくれる人はいなかった。

 幸せの水準が私よりも格段に高いから、こんな私をも愛してくれるんだろう。

 聞いたところによると信義のご両親は、彼のことを大切にしているようで、確かに一人暮らしにしてはやけに広い2DKに住まわせている。これを手狭だと言ってしまえるのだから、世間知らずな子だと思う。ご両親も、まさか自分の息子が水商売の女と付き合っているだなんて夢にも思わないんだろう。

 親と子の愛情サイクルがきちんと行き届いていてうらやましくもある。反面、面倒そうだなとも思う。マンションまで用意してくれるんだから。彼がそんな家庭に育ったのなら、私は自身の中にある劣等感れっとうかんを殺さなくちゃいけない。

 いずれは挨拶あいさつもしなきゃいけないし、カリスマと言えるほどのプライドもなければ、ただ生活のために働いているだけなので、信義と一緒に住むのなら仕事をやめて、まっとうな(私が働ける最低ラインの)仕事に変えていいだろう。彼だって私がこんな仕事をしていたら、そのうち愛想を尽かせるに決まってる。

 今は良くても、熱はいつか冷めるものだから。


 都市圏のマンションの一室、2LDKの綺麗な部屋に引っ越して数週間。私の荷ほどきは少なく、彼の荷物がほとんど。彼の部屋を整理していたら、なんだか熱がすっと引いていた。広い部屋に一人きり。彼は平日、仕事だから家にいない。寂しいし、不安になる。

 強引に決めてしまって、私は前の家のままでも良かったのに、ベッドもダブルで、全体的に隙間が多い。よく考えたら、私は彼と一緒にいる時間が一日のうちのほんのわずかだ。寂しいに決まってる。

 こうも一人の時間が長いと、私の中にある劣等感がニヤニヤと笑みを浮かんで顔を覗かせる。あぁ、もう、鬱陶うっとうしい。

 一人は寂しい。私は冷たい床に寝そべって、フローリングのにおいをいだ。

「電話、してみよっかな」

 でも、仕事中に連絡なんてしたら「面倒な女」だと思われるかもしれないし、あまり執着してると愛想を尽かされるに決まってる。

 私はもう失敗するわけにはいかない。愛されるためには、努力と我慢がまんしまない。そう決めたでしょ。

「……あ、そっか」

 一人が寂しいなら、私も日中に働けばいい。コンビニでもスーパーでも工場でも。日雇いでもいい。イベントスタッフとか。思い立てば早いもので、私は自分でも驚くほど行動的だった。


「今度ね、近くのコンビニでバイトすることになったから」

 報告をすると、彼はネクタイをほどきながら「えっ?」と声を上ずらせた。

「なんで?」

 非難がましい。そう言われる覚えはないんだけれど。

 だから私も「えっ?」と返した。

「だって、こんな広い部屋借りちゃって、信義のお給料だけじゃまかなえないでしょ? それに、私だって仕事はまだしていたいし」

「別に仕事なんてしなくていいよ。俺がやしなってあげるんだから」

 信義は虚勢きょせいを張るように言った。

「こんな時代に何言ってるのよ。信義だけに負担はかけたくないの」

「負担じゃないよ」

 信義はいつまでもいい顔をしなかった。それどころか、

「飯は?」

 当たり前のように聞いてきた。話をすり替えられ、私は渋々キッチンに戻った。


 ***


 だって、麻依は可愛いから。美人で気がきく、いい子だから。あんまり外に出て欲しくないんだ。僕の憂鬱ゆううつを取り除いてくれる唯一の人なんだから、不自由はさせたくない。

 仕事を辞めると言ってくれて安心していたのに、また新しい仕事を始めるなんて、信じられない気持ちだった。

 彼女が働きに出なきゃいけないほど収入が悪いわけではない。半年は同棲して、それから結婚。式を挙げたあとに子供を一人。そして、子供が三歳くらいになったらもう一人。三歳差であともう一人。麻依には家庭に入ってもらいたいから、仕事なんてさせていたらふらっとどこかに消えてしまいそうで怖い。

 それは、同棲して一週間ほど経ってから思うようになっていた。

 彼女は誰に対しても優しい。エレベーターに乗り合わせたジジイにでさえ愛想を振りまく。

「ああやって、誰にでも愛想よくしてんだな」

 ふと呟くと、彼女は「え?」と小首を傾げた。何を言われているのか分かっていない。それが可愛いやら憎いやら、僕は複雑なまでに混沌こんとんとした気持ちを押し隠そうと咳払いした。たんが喉の奥に引っ込んでいく。

「信義。どうしたの? 私、なんか悪いことした?」

 部屋に入ると、麻依は泣きそうに鼻をひくつかせて言った。

「え? なんで?」

「とぼけないで。機嫌が悪いの、バレバレだから」

 麻依は目ざとく僕の鬱屈うっくつした気持ちを明るみにした。それが嬉しいやら腹立たしいやら。

 僕は彼女から目をそらした。

「ううん。機嫌悪くない」

「うそ。声が怖いもん」

「………」

「私が、おじいちゃんにエレベーターのドア、開けてあげたから? バス乗ってる時も、親子に席譲ったから? カフェの店員さんにお礼を言ったから?」

「しつこい」

 思い当たるんなら改善してくれよ。いちいち言わなくても分かってるくせに。

「怒らないでよ、信義」

 僕の表情を素早く読み取ってくる。彼女は、すがるように僕の背中に顔をこすりつけた。

「私だって、好きでやってるんじゃないよ。でも、自然とそうしちゃうっていうか。でも、それって悪いことじゃないでしょ?」

「悪くないよ。でも」

「でも?」

 僕は自分の言葉がどれだけ残酷ざんこくなものか、思い知った。このどす黒い気持ちがみにくくて嫌になる。関係のない人間に嫉妬を向けているだけに過ぎないんだ。でも、自然とそうしてしまうから。

「麻依は、僕だけに尽くして」

 こんなわがままくらい、許されてもいいはずだ。


 麻依は僕を捨てることはできない。捨てるどころか、嫌いにもなれないだろう。そして、僕の言うことを聞いてくれる。「てられたくない」から、尽くしてくれるのは当然だ。

 以前、聞いたことがある。

「私、こんなに愛されるの初めてで、怖い」

 ベッドの中で、涙ながらにそう言ったのは春先の肌寒い時だった。

「こうして誰かに一途に愛されるのって、人生で初めてで、私を好きになってくれる人なんて一生いないんだって思ってたから……愛ってすごいね」

 一仕事終えた後の彼女は脱力に話を続ける。感極まった麻依の話は、だいたいいつもこんな感じだ。

「すごく嬉しいの、私。こんな私を拾ってくれた信義に感謝してる。今まで、私は嫌われ者で、親にも捨てられてさ。ひとりぼっちだったから、今、すごく幸せ」

 こんな僕にも、彼女を幸せにできるなんて。その時は驚いたものだが、彼女の悲惨な生い立ちから背景はいくらでも窺い知ることができた。

 父親はおらず、母親はいるかいないか分からない。育児放棄は当たり前で、何度も児童相談所に預けられていて、親戚中をたらい回し。学校では親友と呼べる人はおらず、ただ堅実に抑揚のない不幸めいた物語だ。あぁ、いるいる、そういうの。クラスに一人はそういう子がいた。

 麻依はそのうちの一人で、不幸に選ばれた人間だった。他人から不幸を押し付けられ、幸福者のさかなにされる人種。学費がないから進学がままならなく、高校を中退してクラブで働くようになって、何人かの人と付き合ったけど、関係は長く続かない。僕が初めてだというのは嘘じゃないんだろう。

 いわば、僕は彼女の救世主だ。不破信義は金谷麻依のヒーローである。窮地きゅうちから救った英雄に、悲劇のヒロインはしがみついて喜びの涙を浮かべる。罪悪感はあれど、この優越は悪くないもので、僕は彼女に甘ったるい言葉を囁き続けるのだ。

「愛してるよ。だから、僕だけを見て」


 ***


「ねぇ、麻依」

「んー?」

「今週の土曜、空けといて」

 洗濯物をたたんでいると、信義が突然に言ってきた。

「へ?」

 間抜けな声を上げると、彼は気だるそうな表情を向けてくる。

「親がお前に会いたいんだって。駅前の飯屋で会う。そういう約束だから、そのつもりで」

「え? 今週の土曜って、明後日じゃない。急に言わないでよー」

 あまりにも突然すぎて話についていけない。そんな私を小馬鹿にするように、信義は鼻を鳴らした。

「でももう決まったからさ。頼んだよ」

「えぇ? もう……」

 どういうつもりだろう。

 ご両親は私のことを知っているの? 私がどんな育ち方をして、どんな仕事をしていたか知っているの? 私がどんな女か知っているの? 知った上で会いたがっているの? 私を認めてくれているの? いや、それは会ってから確かめるんだろう。でも、可能性が広がるチャンスでもある。私が認められるための、私が私を誇れるような、こんな私だって愛されることを証明するための。(こんな私を認めてもらえるの?)

「いくらなんでも、急すぎるよ。私にだって準備というものがねぇ」

「準備?」

 まったく、これっぽっちも私のことを考えてくれていない。信義の言動が軽すぎて、こちらの感情とギャップが激しい。(あぁ、もう。なんなの)

 ふわふわと浮くような、それでいて不安が膨らむような、よく分からない気分になって、私は洗濯物を無造作に放り投げた。それを信義は見ていた。驚くように目を丸くしている。(あぁ、あぁ、嫌になる。どうして分かってくれないの)

 私は立ち上がって、信義を見上げた。

「ご両親に会うんだよ? きちんとした服持ってないし、美容院もまだ行けてないし、身なりを整えるにはそれなりに準備しないと駄目じゃない」

「麻依はそのままで十分だよ」

 私の訴えは軽くあしらわれた。だから、思わずその横っ面を叩きたくなった。

 パチンと音が鳴り、彼の眼鏡と一緒に顔が右へずれる。

「そんな簡単に言わないでよ! 私、不安だよ……」

 ふと、一人ぼっちだったころを思い出した。すると、不安の波が押し寄せてきた。不安で堪らない。(そうやって勝手に決めて、私のことを大事にしてくれない)ううん。大事してくれてるけれど、違うの。(信義は私のことなんかどうでもいい)そうじゃない。(私は本当は愛されてないのよ)やだ。愛されてるはずなのに、私はそれを拒んでる。(私ばっかり愛してて、馬鹿みたい)やだ。どうして。

 あぁ、ダメだ。泣く。泣いちゃう。涙、落ちる。落ちたら、ダメなのに。泣くなってば。ヤダ、ヤダ、ヤダ。無理。決壊。止まらない。

 今まで色々ガマンしてきたから、幸せの中に突然入り込む異物が許せない。私は、本当は信義と二人だけで生きていたいのに、どうしてそんな不安をいきなり割り込ませてくるの。

「……ごめん、麻依」

 私の涙を初めて見たから、彼は慌てて言った。肩を優しく掴んで、それから自分の胸に引き寄せる。任せるまま、私も彼の胸に顔を埋める。シャツが涙を吸い取った。

「ごめん」

「ううん」

「泣かないで」

「うん……」

 頭を撫でられると落ち着いてしまう。すぐに不安がかき消されて、私の涙はすぐに乾いた。

「大丈夫?」

 信義は私のまぶたからしずくをすくいとりながら言った。そして、答えようとした私の唇を吸う。軽いリップ音が部屋に渡る。

「だいじょ、ぶ」

「そっか。良かった。急に泣くからびっくりした」

 言ってすぐにまたキスをする。今度は長く、ゆっくり。甘やかな愛の味を感じる。

 信義は、私の気持ちをどれだけ分かってるのかな。

 夢心地の中で、ふと、そんな疑問が脳裏のうりをよぎった。


 ***


 麻依が感情的になる場面を初めて見た。泣いたのも初めて見た。だって、彼女は良くも悪くも淡白な人だと思っていたから、あんな風に手をあげるなんて思ってもいなかった。

 精神が不安定になっているんだろうか。生活環境が変わると人は憂鬱に走りがちだとは聞いたことがあるけれど、麻依もそうなんだろうか。

 僕は不安な気持ちを抱えながら、麻依を連れて駅へ向かった。両親には早めに会わせたかったから、どうしても日はずらせない。仕方がない。

 土曜日の麻依はいつもと同じで、珍しく彼女から僕の手を握ってきた。

 急いで見繕みつくろったという、淡いピンクのカシミヤセーターと、ベージュのタイトスカートを合わせたスタイルは、いつもの彼女と違う印象だ。控えめなメイクが素肌っぽくて、これはこれで可愛い。そういうフェミニンなコーディネートも似合っている。それに、いつもと違って伏し目がちだ。クラブで働いていたことをまったく感じさせない、大人しい女の子が僕の横に座る。

 その向かい側には、僕の両親が並ぶ。上京ついでに顔合わせという話だったのに、父母はどちらもかしこまった格好をしていた。ラフなシャツとカーディガンを合わせた僕だけが浮いている。

 まず、いの一番に麻依が頭を下げて丁寧に挨拶をした。金谷麻依と申します、よろしくお願い致します――といった具合に。すると、父は照れたように笑みを浮かべた。一方で母はキョトンとした表情で麻依を見ていた。

「聞いていた感じとは違うわね……」

 いぶかるような言い方だ。

「母さん、そんな言い方するなよ」

 失礼だろ、と僕が言う。すると、父も母をたしなめた。

「あぁ、ごめんなさいね。えーっと、金谷さんは、今はお仕事は?」

 不躾ぶしつけだろう。さすがに。麻依も困っている。

「麻依は働いてないよ。僕のために仕事を辞めてくれたんだ。この間、そう電話で話しただろ」

 僕が言うと、麻依は「そうです」と小さく言った。

 母はそうだったわね、と言うように口を引き結んだ。そして、笑顔を浮かべる。

「麻依さん、息子をよろしくお願いします」

「あ、はい! ありがとうございます! こちらこそ、ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願い致します」

 お互いに頭を下げ合う。その様子を僕と父は呆れるやら、愉快ゆかいやら、苦笑を漏らしている。

 そうして緊張がほぐれ、僕らは和やかに一時間ほど談笑した。僕のことがほとんどで、大学を出たもののなかなか就職できなかった話をやたらとしたがる両親に、麻依は誠実な対応をしていた。

 信義さんは頑張っています、それを応援できる私は幸せなんです、と、そんな風に言っていたと思う。僕はそれを半分くらいしか耳に入れておらず、どちらかというと彼女の前でみっともない話をしてほしくない気持ちが勝っていた。

 両親の話をやんわりと逸らして、今はどんな仕事をしているのかだとか、上司はどんなだとか、取引先とうまくやっているから、もしかしたら引き抜きも有り得そうだとか。あとは、結婚したらどうするのかなど。そういった希望に満ちた話をすれば、両親は満足したようで、そのままの雰囲気でお開きとした。


「――いや、でも良かったよ。母さんに気に入ってもらえて」

 帰り道、僕は感慨深く言った。それを麻依は、丸い瞳で覗き込んでくる。

「え?」

「ぶっちゃけると、麻依がクラブで働いてたこととか、片親ってことを知って、母さんが猛反対してたんだよね。評価が低かったから不安で。でも、今日の感じだと大丈夫そうだし。ほんと安心した」

 これで親への問題は済んだ。あとは麻依と結婚するだけ。順風満帆じゅんぷうまんぱん。僕の生活は安泰あんたいだ。

 そんなことを考えていると、麻依の足が止まった。つないでいた指がピンと張る。

「麻依?」

 思わず振り返ると、彼女は顔を俯けていた。

「どうした? 具合悪いのか?」

 慌てて駆け寄る。しかし、彼女は何も答えてくれない。一体どうしたっていうんだ。

 道のど真ん中で突っ立って、通行の邪魔になってしまう。どうにか彼女を道の脇に移動させ、僕はもう一度彼女の顔を覗いた。今はもう、彼女がただ不機嫌であるのだと推測している。

「どうしたんだよ。何か気に障ることでも言った? それなら言ってくれないと分からないよ」

「……ね」

「え?」

「……信義は、いいよね、幸せそうで」

 やっと口を開いたかと思えば、彼女は低い声で、息を噛み殺しながら言った。肩を揺らしている。それがなんだか、鳴き始める赤ん坊のように見えて、僕は思わず眉をひそめた。

「でも、私は、そうじゃないの。私は……そんな、ことを聞かされたら、もう、この先、不安しかない」

 そんなことを聞かされたら?

 どの部分を言っているんだろう。たまに言っていることが分からなくて、反応に困る。だから黙っていると、彼女は苦し紛れに口を開いた。

「どうしてそんなことを平気で言うの? 私、私、こんなに、こんなに尽くしてるのに、どうしてそんなひどいこと言うの? 私、頑張ってるじゃん。仕事も辞めて、新しい仕事を始めようって思って、信義のためにごはんつくって、洗濯も掃除もして、広い部屋でずっと、ずっと待ってるのに、どうしてそんな風に言うの」

 やがて、彼女は引きつけを起こすように、呼吸を乱した。その切替が早すぎて、僕は追いつけなくて、時間が止まったように思えた。

「評価が低いなんてっ、そんなこと! 言われなくても、分かってるよ! 分かってるのに! こんなに頑張って、いるのに! どうして、そんなこと、言うの!」

「麻依、やめろ。落ち着け、なぁ、おい」

「やだ! やだやだやだ! 信義の馬鹿! 嫌い! 大嫌い! あんたなんか、もう大嫌い……死んでよ、馬鹿……!」

 子供のように駄々だだをこねる。「嫌い」と「死ね」を繰り返す。そうして、僕らの周りには人が遠ざかっていき、見世物みせもののようになってしまった。

「どうせ、私のこと、人形かなにかだと思ってるんでしょ。私のこと、馬鹿にしてるんだ。家政婦みたいに扱って、優位に立ってるつもりなんでしょ! 馬鹿! 馬鹿! 嫌い! 私にだって感情はある!」

 あぁ、くそ。どうしたらいいんだよ。麻依の馬鹿。馬鹿はお前だ。まるで僕が悪者みたいじゃないか。

「私は! 愛されたいの! 愛されてたい! なのに、愛してくれない。信義は私を愛してくれない……!」

「なぁ、おい、帰ろう」

「いや! 触らないで!」

「あぁ、そうかよ。じゃあ、もう帰ってくんな」

「いや! やだ! やだ、信義、待ってよ、置いていかないでぇ」

 決壊したら止まらない。もう止める術はない。僕は途方に暮れるしかなく、しゃくりあげる麻依をじっと睨みつけていた。

 周囲の視線が痛い。泣きわめく女とそれをただ見ている男。傍目はために見て、分が悪いのは僕だ。

「……麻依、ごめん」

 心がこもってない謝罪をしてみる。すると、彼女はぴたりと動きを止めた。

「ううん……私のほうこそ、ごめんね」

 涙を拭いて立ち上がる。その顔はまだ不満や不安が塗りつぶされていたが、さっきの剣幕よりはいくらかマシだ。

 最初からこうすれば良かったんだ。

「帰るよ」

「うん……」

 僕が歩きだすと、麻依も後ろをついてくる。そして、僕の手のひらを指でくすぐった。その些細な悪戯に、なんだか寒気を覚える。僕は彼女に悟られないよう、ゆるやかに歩調を速めた。


 麻依が怒る原因なんて、知らない。分からない。彼女が肚の中で何を考えているのか分からない。でも、何を生み出したのかはなんとなく分かる。

 あの日以来、穏やかな日々が続いたが、結婚しても彼女はたまにあの激しい感情をぶつけてきた。

 僕には、その原因が本当に分からない。多分、僕が彼女を変えてしまったんだろう。そんな日々を過ごしていると、僕は彼女を正しく愛せているのか分からなくなった。

 でも、彼女の優しく甘い「大好き」に、いつも騙されていく。そうして、流されるままに彼女のみずみずしい体を触れば、結局、僕は彼女をきちんと愛しているのだと思いこむ。錯覚。知ってる。でも、そのままがいい。目先の快楽のほうが、断然やさしい。たとえ、その場しのぎだとしても。


 ***


 ぷつん、と細い糸がちぎれた。いつの間にか。

(私は、彼を愛している)

 本当は棄ててもいいのに、なんだか手放すのも嫌だから、そのままにしている。

(私は、彼を愛している)

 安定した生活を壊して再構築するのが面倒なんだろう。人は誰しも、不幸者の上に立って自分の価値を推し量っているもの。

(私は、彼を愛している)

 自分がいかに優位な立場か自然に計算している。

(私は、彼を愛している)

 彼は可愛そうな私を見て、優位に立って、自分を甘やかしている。本当に、ダメなおとこ。

(私は、彼を愛している)

 だって、こんなに可哀想な私がいるんだから、手放したくないに決まっている。

 自分に尽くしてくれる女。都合のいい時に気持ちよくしてくれる女。私はそういう存在なんでしょ? どうせ。

 だから私は自分を安売りしてあげるの。そうすれば、彼は私を棄てられない。絶対に棄てない。離れられるわけがない。

(私は彼を愛している。彼だって、私を愛している)

 非道ひどい言いようだよね。でもね、これでも私はあなたに感謝しているのよ。薄っぺらで誰の記憶にも残らずに死んでいくんだろうって思っていたから。自分は何も愛せないんだろうと思っていたから、本気であなたのことを考えているのよ。人生で一番愛してるって断言できる。

 だから、なんだってするよ。あなたが望むことならなんだって。どんなことだって。

「ねぇ、信義」

「……何?」

「信義、ねぇ、名前呼んで」

「………」

「私の名前、呼んで」

「………」

「起きてるんでしょ」

「……うん」

 こんなに好きなのに、愛しているのに。まだ足りないっていうの。

 信義の背中は大きな灰色で壁みたい。でも、薄くて柔らかい。その背中に爪を立てると、彼はハッと振り返った。

「やめろよ」

 不満な低音。私はそれでもやめなかった。

「痛いって」

「じゃあ、名前、呼んで」

「はぁ……」

 何よ、その溜息。こんなに愛してるのに、どうして応えてくれないの。

 私をこんなふうにしたのはあなたでしょ。あなたの所為せいよ。あなたのためにこんなに尽くしてるんだから。名前を呼ぶくらい、簡単でしょ?

「麻依、ごめん」

 信義は小さくつぶやいて、私の唇を吸う。軽いリップ音が部屋に渡る。そして、余韻よいんも残さないまま、彼はくるりと反転してしまった。息を吸って、吐いて、そういうオーバーな動きをして、寝入っているフリをする。

 私は彼の背中にそっと頬ずりした。

 小さくぬるい愛だけど、それでもいい。莫大ばくだいな愛を与えられると補給を忘れて脱水してしまうから。でも、それはそれで息も絶え絶えになっていくようで、いいかもしれない。この愛こそ、私が生きてるあかしなの。

 私は、まだ、愛されている。だから、私も愛している。

「ねぇ、信義」

 冷たい夜の中、あなたの背中に囁くの。毎日、毎日、毎日。

 あなたが食べるものにも話しかけているの。毎日、毎日、毎日。

 あなたが使ったものにも、あなたが捨てたものにも。毎日、毎日、毎日。

「あなたに棄てられたら、私には何も残らないんだから」

 あなたに棄てられたら、何も残らないんだから。

(こうなってしまったのは、あなたの所為だから)

 あなたを愛せるのは私だけ。

(私を愛せるのはあなただけ)

 だから、これから先もずっと一緒にいようね。

(終わりにするなら、いっそ一思いに殺してね)

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