第七話

 心地良い熱さの中で見る夢はやがて悪夢に変わり、彼を苦しめる。

 何故夢が突然、悪夢に変わってしまったのか、何故夢の中にもかかわらず、これほどまでに苦しいのか。

 理由がわからない彼にできることはもがくことだけ。

 所詮は夢。何処までいっても夢は夢。しかしそれ故にもがいたところで抜け出すことなどできるはずもなく、彼は苦しみの中で息絶えようとして――湯船の中から脱出を果たし、息も絶え絶えになりながら周囲を見回す。

「ハァ、ハァ、ハァ――」

 微睡みの中より意識を覚醒させた彼が真っ先に行ったのは現状確認。

 湯船という名の魔性の手に掛かり、心地良い死を迎えそうになったことを悟ると罪もない浴室の壁を八つ当たり気味に蹴り、迂闊にも足の小指をぶつけたことで痛みに悶え苦しむ。

 自業自得極まりない行いなのだがそれでも彼は己の非を受け入れず、湯船に対して人差し指を突き指す。

「貴様の温かさは侵略行為。その優しい認識、全て貴様に返す!」

 見様見真似の天地上下の構え。凝縮した静の気迫を湯船にぶつけ、カウンターによる一撃必殺を狙う。

 無論、敵意がない――というよりそもそも己の意思というものを持たず、その場から動かず、仕掛けてくるはずのない湯船相手にカウンターを狙うことは無意味。

 彼がそのことを理解したのは構え始めてから三分が経過した頃。

 冷め始めた体が完全に湯冷めする前に浴室から出て脱衣所へ。

 バスタオルでお湯と汗を拭き取り、下着を着てから居間に戻る。

「風呂空いたぞー」

「あっ、お帰り、仁」

「風呂空いたって言われても――って、アンタ、なんて格好をしているのよ」

「全裸がお好みで?」

「却下」

「じゃあ上半身だけ露出?」

「不許可だよ」

「成る程。下半身だけを露出させろと。流石はマイチャイルドフッドフレンズ。理解不能な悪趣味をしておりますな」

「露出させたら切り落とすわよ?」

「東間のなら切っていいぞ」

「わかったよ、仁。それが君の答えなんだね」

 立ち上がり、台所から包丁を持ってきた東間に躊躇わず土下座をする仁。

 彼の土下座は見飽きているものの、予定調和でもあるために東間は怒り――に見せ掛けた別の感情を内側に収め、包丁を元々あった場所へ戻す。

「取り敢えず、さっさとパジャマを着なさい。それがレディーを前にしての最低限のマナーでしょう」

「レディーなどこの場にはおりませんが」

「へえ?」

「私の前にいるのはお美しいレディー。その姿はまさに聖女。例えるなら猫に小判。豚に真珠な美しさ!」

「美しさの度合いがいまいちわからないわね」

「仁が適当なことを言うのはいつものことだよ。さて、と。ついでだから僕もお風呂に入ってから帰ろうかな」

「東間、早まるな。まず先に理香を入浴させ、長風呂によって滲み出た出汁を回収するのが先決だ」

「ゴメン、今の発言はマジキモいわ」

「うん。実は今の発言には俺もひいた。今のは無いわー。マジ無いわー。言った側も聞いた側もドン引きだわー」

「わかっているならもう少し自重しようね」

 浴室へ向かう東間を見送り、理香と二人きりになった仁はテレビを点けてまったりとした時間を過ごす。

 理香の方も仁が入浴中に宿題を終えたのか、頬杖を突きながら彼が点けたテレビを心底どうでもよさそうに視聴する。

「……つまらないわね」

「同意だ。クイズ番組とか似たようなバラエティ番組ばっかりやって、一体何が面白いんだか。視聴率が底辺なのも頷ける」

「お金が足りないからじゃない? テレビよりネットの方が人気があるし、そもそも似たような内容の番組ばかりじゃ飽きられて当然じゃない」

「あとは過激さが足りないのも問題だな。最近は少し過激な内容のものを放送するだけですぐに苦情が来るという噂を聞いたことがある」

「まあ子供に悪影響があったら困るっていうのはわからないでもないけど」

「俺はわからないな。大体、ガキなんて放っておいても勝手に育つ。親がいるガキなら親の背中を見て育つんだから、捻じくれた性格になったらそれは親の責任だ」

「アンタの子供とか、凄い性格になりそうよね。下手をすると世界征服とか世界滅亡とか企みそう」

「問題ない。恐らくは俺の性格をそれぞれが受け継ぐ。具体的には狂科学者な一面を受け継ぐ奴と、真面目かつツッコミ気質な性格を受け継ぐ奴と、ボケ兼暴走気味な性格を受け継ぐ奴の三種類に分かれるはずだ」

「子供の数、三人なの?」

「そこはわからん。もしかすると養子とかも取るかもしれないし。頑張れば四人目や五人目も作れるかもしれない」

「フーン。大家族になるのは結構だけど、あんまり子供を作り過ぎてお金が足りなくなるとか、大変なことにならなければいいわね」

「それも問題ない。放任主義になる可能性は高いが、生活費云々で困るような真似をするなら始めから子作りなどしない。ヤる時は責任を持つのが男の生き様」

「ご立派な考え。ああ、そういえば今の時間ってドラマの再放送がやっているんじゃなかったかしら? こんなクイズ番組よりもそっちの方が面白いわよ」

「再放送のドラマって、確か少女漫画を実写化したやつだったか? 実写化にはあまりいいイメージがないんだが、面白いのか?」

「私は気に入っているわね。役者が全然似ていないはともかく、内容は原作に忠実だし、演技の方は良を付けていい程度の出来だもの」

「ほー、それなら見てみるか。えーっと、チャンネルはっと」

 リモコン操作で回されるチャンネル。映し出される映像は主人公が浮気現場をヒロインに目撃され、罵声を浴びせられながら逃げられるシーン。

 原作読破している理香はそこに至るまでの過程を知っているが、原作未読の仁は何がどうなってそのような展開になっているのか理解できないので首を傾げる。

「……取り敢えず、この主人公はクズ男なのか?」

「クズじゃないわよ。単に三股している最中に他の女の子にも声を掛けて、四股しようとしているだけで」

「クズじゃなイカ」

「みんなを幸せにしたい、が心情なのよ。それにこれからクズ男には相応の罰が待っているから」

「やっぱりクズなんじゃなイカ」

「クズじゃなくてクズ男よ。一緒にしちゃクズに失礼よ」

「何がどう違うのか、事細かな説明を要求する」

「仁、五月蠅い。ドラマ見ているんだから少し静かにして」

「むう」

 納得できず、呻く仁を無視して理香はドラマに没頭。

 仕方なく仁もドラマに集中し、主人公の救い難きおかしな行動の数々に本当に男性が主人公なのかを疑い始める。

「つーか、少女漫画が原作なのに男が主人公で良いのか?」

「五月蠅い。静かにして」

「理香ちゃんが冷たい」

「アンタが五月蠅いからでしょ」

「しくしく」

「ウザいわよ」

「…………」

「フー、いいお湯だった――うん?」

 タオルで髪の毛を拭きながら下着姿で現れる東間は落ち込む仁とドラマに熱中している理香を見て現状を理解。

 冷蔵庫から無許可で瓶入り牛乳を取り出し、音を立てながら咽喉を潤すと脱衣所へ戻り、私服に着替えて居間へ移動。

 無音無言でソファーに腰を下ろし、理香が熱中しているドラマを興味深そうに観察後、主人公の男性の情けなさ過ぎる姿に呆れてため息を吐き出す。

「なんというか、凄い主人公だね。こんな人にはなりたくないっていうイメージを凝縮した感じがするよ」

「なによ、東間。アンタまで文句があるの?」

「別に文句はないよ。ただ、メインヒロインっぽい女性の説得を終えて家に送り届けた直後に別の女性を言葉巧みに誘惑するのはどうかと思っただけで」

「いいのよ、これで。罪には罰を。クズ男にはいずれ天罰が下るんだから」

「むしろこんな男の口車に乗せられて説得に応じる、あのヒロインにも問題がある気がしてきた。もうちょっと警戒心とか疑いの心を持とうよ」

「ちょっとしか見ていない奴にそういう感想を言う資格はないわ。どうしても非難したかったら原作を全巻購入しなさい」

「ちなみに何冊?」

「今出ているのは151巻ね。中盤以降は本屋さんに売っていると思うけど、最初の方は古本屋に置いてあるか微妙だから、ネットでの購入をお勧めするわ」

「なんで最初の方は本屋に置いてないの?」

「色々あって絶版になっちゃったのよ。少女漫画であんなことをしたらそりゃ問題にもなるわよね。実際、ドラマでもあのシーンはカットされちゃったし」

「……どんな内容なのか、凄く気になるんだけど」

「ヒント1。虫。ヒント2。保健所」

「ゴメン。わけがわからない。でも聞きたくなくなってきたというか、想像したくないからそれ以上は言わないで」

「男のくせに情けないわね。ヒロインの一人が心身にトラウマを刻み込まれる有名過ぎるシーンとして少女漫画界の恐怖の象徴として今でも語り継がれているのよ」

「少なくとも少女漫画で描写していい内容じゃないことだけは理解できたよ。と、ドラマも終わったみたいだし、理香もお風呂に入ってきたら?」

「んー、まあそれもいいんだけど、今日はこのまま帰るわ」

「そっか。それじゃあ僕もそろそろ帰ろうかな。仁、またね。それとおやすみ」

「おやすみなさい、仁」

「ういー、オヤスミー」

 落ち込みながら手を振る仁へと手を振り返し、一号に見送られながら理香と東間はそれぞれの家へ帰宅する。

 静かになった居間に響くテレビの音。誰も見ていないテレビを点けっぱなしにしていても仕方がないと一号がテレビの電源を切り、落ち込んだまま動かない仁をソファーまで運ぶと何処かへ行ってしまう。

 誰もいなくなった居間。孤独な世界に取り残され、やることがなくなった仁は大きな欠伸を漏らす。

 眠気があるのかと問われれば微妙なところ。湯船の中で微妙に寝てしまったこともあってか、就寝する気になれず、かといって何かを行う気力も湧かない。

「……退屈だ」

 テレビを点けたところで見るものもなく、ネットの世界に埋没する気にもなれず、おとなしく休む気にもなれないのに退屈を嫌う。

 我ながらワガママと苦笑する彼はソファーで横になり、天井を見上げる。

 見慣れた天井に染みがないのは一号たちが日頃から掃除を行っているからか、退屈凌ぎのための何かを探して視線だけを動かす彼は棚の上に置かれているケース入りのトランプを発見する。

「なんであんなところにトランプが? 一号が置いたのか? それとも紗菜の奴が友人――に分類していいのか知らんが、誰かと一緒に遊んだ後に置いたとか?」

 やることがなかった彼は立ち上がり、トランプを手に取るとケースを空けて中のカードを一枚一枚確認。

 視覚、触覚から得られる情報ではトランプは紛うことなき普通のトランプ。

 仕掛けが施されている様子は見られず、枚数が足りないということもない、百円ショップで売られていそうな安物のカードの束。

「もしやこれは日々の日常を退屈に過ごしている俺への天からのプレゼント? このトランプを弄っている間に天から女神やら天使やらが降りて来て、俺を冒険と浪漫と欺瞞に満ちた異世界へ導いてくれるとか?」

 シャッフルし、誰もいない空虚な空間にカードを配ると己へ分けたカードを手に取り、同じ数字のカードをテーブルの中央に投げ捨てる。

 始まるのはババ抜き。ただし仁以外は誰もいないため、当然ながら配られたカードを整理する者は誰もいない。

 都合よく何かが降臨することもなく、暇な人が遊びに来るには既に夜遅い。

 二階へ行けば彼の妹が付き合ってくれる可能性があるものの、天運の守護を持つ彼女を相手にギャンブルを挑むのは蛙が無策かつ単身で蛇に挑むようなもの。

「むう。これは困った。配り始めた時点で俺は何をやっているんだろう感という名の虚無が俺を支配していたが、実際に始めれば何かが変わるかもしれないとほんのちょっぴり期待していたのに」

 配分されたカードを回収後、ケースの中にトランプを入れて棚の上へ戻し、再びやることがなくなった彼は二階へ上がり、自室の扉を開けてベッドに直行。

 無意味なトランプ遊びによって得られた虚無は彼の心に虚ろを与え、虚ろなる心が思考を鈍らせたことで彼を眠りへと誘う。

「……今日も一日、疲れたなー」

 走馬灯のように駆け抜けていく今日一日の出来事。

 退屈とは無縁の濃密な一日――ただしやることがなくなった自由な夜はほぼ退屈な時間だったが――を振り返るも反省や後悔はしない。

 今の彼が思うのは明日がどのような一日になるかという一点。

 少なくとも退屈だけはしないだろうと確信を持ちながら虚無の世界へ堕ちていき、意識を完全に失う直前にスマホを手に取り操作を行った。

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