第31話「夜の街で男と歩くしりあいの少女」
見たことのない相手だった。
口元はマスクで覆われている。
その顔は判別できない。
二十メートルほどは離れているだろうか。
そこで、男がユリアの肩に触れた。
とても自然な動作だった。
耳元で声がした。
「見て……しまったね」
振り返ると、どす黒い顔をした男が立っていた。
奇妙な笑みを口元にたたえている。
「坊っちゃんも……」
嗄れた声で、親しげに僕を呼んだ。
男の頭は異様に小さく、
のどは皺だらけで死にかけの鳥みたいなのに、
腹だけが異様に膨れている。
「ぼっちゃんもあのコの世話になったのかい?」
そう言って薄くなった髪を撫でつける。白い手袋のはめられた指だ。
「何をいってるんですか?」
とっさに答えた自分の声は、揺れていた。
掲示板で目にした文句を、思い出した。
『スタンガン天使ちゃん』
それほど気にも止めなかった言葉が、
見知らぬ男と談笑するユリアを見て、
あたまのなかでぐるぐると回っていた。
「隠さないでいい。愉しんだんだろ?」
陰湿な笑みを浮かべながら、男が言う。
「だから、何を……」
僕は何かに怯えるように、一歩後ずさった。
天使の羽根を売るスタンガン少女。
ユリアが、本当にそんなことをしている、というのだろうか。
でも、何のために?
「いい思いをしたんだろう?」
あたまが、ぼうっとする。バット。僕はひとつのものを考える。
バットをもたないと。
「おやおや。大きくなった?」
ひひひ、と下卑た笑みを浮かべながら――僕のズボンのあたりを一瞥する。
「何、何ですか、あなたは。一体……」頭でもおかしいんじゃないですか。突然話しかけてきて、意味不明な言動で……。そう思ったが、黙っていた。
黙っていると、愉快そうに男は笑った。
「それは難しい質問だなあ。私の、アイデンティティ?に、関わる問いだからね」
「アイデンティティ?」
「そうだ、自分が何者であるのか、という問いかけだよ」
僕は帰ろうとした。
きびすを返すと、肩を掴まれた。
「待つんだ」
「何ですか、いきなり……失礼ですよ」
肩を振り払いながら、言う。
「少し私と話をしようじゃないか。私は『探偵』だ」
探偵?
「謎を調べるのが探偵の仕事だとしたら、私のやっている行為は、紛れもなくその単語に該当するだろう」
「……何の謎を調べてるんですか」
「私も君と同じだ」
「同じ?」
「ひひ……そうだよ、同類だよ。兄弟、と言った方がふさわしいかな?」
「僕はあなたのような兄はいません」
強引にきびすを返して、駅と反対方向に行こうとする。
男の手が立ちふさがる。僕はまた振り向かされる。
「やめてください。警察を呼びますよ」
「呼びたいなら呼びたまえ……それで君が本当に困らないならね……」ひひ、と下卑た声をあげて男は笑った。僕は舌打ちをして、男を見据えた。
年のこうは四十代中盤だろうか。
酔っ払いか何かだろう、という当初の思いつきは、
男の目を見た瞬間に、消えてしまった。
その目は、何かを知っている者の目だった。
「……あなたは誰なんですか」
「まあ、『鈴木』と呼んでくれ」
「便宜上?」
「まあそんなところだ」
「ダブルミーニング?」
「そこまで頭はまわらんよ」
ひひひ。と探偵を自称する『鈴木』は、
痰のからんだ声で笑ってから、
冷たい視線で僕を射貫いた。
「天使狩りのことを調べているんだろう?」
「どうしてそれを……」
天使狩りは、ふだんは都市の暗闇に隠されている。
大人の世界から、秘匿されている。
ネットの匿名の世界に、埋もれている。
連続失踪事件は、家出ということにされていて、本格的な事件として取り上げられる事態には到っていない。
それは僕らのあいだだけの『噂』なのだ。
なのになぜ、一般人であるこの男が、そのことを知っているのだろう?
いや――ともすれば、一般の人間ではない、のだろうか?
「『天使狩り』を調べているのは、坊やたちだけじゃないってことさ」
完璧にクローズドな世界は存在しない。そう付け加えると、鈴木は、また下卑た声をあげて笑った。
「完璧な清純が存在しないようにね。私も君と同じだ。昼と夜で別の顔を持っている。個人的な経緯から天使の行方を調べている。そして彼女のからだに溺れた……狂わされたんだ」
目の前が、暗くなった。僕はその瞬間、真空状態になった空白の意識のなかで、たった一つのことを考えていた。バットを考えていた。
叩き割ってやる。でも、何を? 空虚な問いかけは、吐き出した白い蒸気とともに、浮かんではたちどころに消えてしまう。
「あなたは天使の行方を調べている、と言いましたね?」
「ひひ……」
「それはいったい、どういうことですか……? そのこととユリアが、何か関係あるんですか?」
「……本当に……そんなことが訊きたいのかい?」
くそ。
「そんな、怒った顔するなよぉ……これでも、私は心根が優しいんだ……」
そこで男は、ポケットからライターを取り出した。タバコに火をつけようとしたが、指先がふるえてうまく点かない。男は舌打ちしてタバコを人差し指と中指のあいだから親指のあたりに移して握りしめ、先端が身動きのとれないようにしてから強引に着火した。ゆっくりと煙を吐き出してから、
「きみに一つヒントを教えるとね、それの犯人は一人だよ。でも一人じゃない。言っている意味、わかるかな?」
「僕はあなたが何を言っているのかわからないし、分かる気もありません」
「人間は誰しも二つの顔をもっている。きみや私と同じさ。昼と夜で別の顔をもっている。ダブルワークだよぉ。いま流行の、グ、グェ……!」
そういってのどに絡まるのか、咥内の痰を集めると、勢いよく地面に吐き出した。
タァン、
音を立てて黄褐色のカタマリが、液状化した地面の轍に弾けた。
『鈴木』は、再び煙を――親指の爪を噛む子供のように先端に食らいついて――吸って、吐き出した。
「減る羽根は一つ、でも与えられる福音は二つ」
福音?
何を言っているのだろうか?
「なぞなぞだよ……ぼっちゃんにぴったりのね」
福音の一つは金だろうか?
だがもう一つはわからない。
「少女たちは次々に羽根を売る。でもそれが何のためかわかるかね。卑俗なだけの低俗な時間。もちろんそれもアリだろう」
この煙は何の銘柄だろう? どこかで嗅いだことのある匂いだ。
だが、もちろんそれはあまり愉快なことではない。
なぜなら、それはタバコの匂いであると同時に、男の口から吐き出された煙のにおいでもあるからだ。
ただ――自分は、この匂いを知っている。
そして――男は何かを知っている。
「だが大切なものを守るために――或いは失うために――羽根を貢ぐ集団もいる。思春期の少女にとって、もっとも大切なもの。それは時間だ。だがときにヒトは、時間よりもっと大きな概念に出くわすことがある。《project禁猟区》は、それを補完するためにある」
「……ッ!」
僕は、息を止めた。
project禁猟区。
この男は、どこまで知っているのだろう?
「なぜ少女でなければいけないのか。なぜ少年でなければいけないのか。それが問題だ。だが若いからだはときに容易に入れ替わる。みえないものがみえる。降りないものが降りてくる。その固体が一対のメディアに転じうるのだ。冥界のラジオに。
生贄に捧げられるのはいつも少女だ。
そのくせ犠牲になるのはいつも我々なのだ……。
ぶつぶつとそんなことをいって、爪をかじる。
雨は止んでいた。
傘が減って、視界が広がると、その姿も居なくなっていることに気付いた。ユリアも消えていた。そのことに男も気付いた。
「いずれにせよ、私が欲しいものは《彼女》ただ一人だ」
タバコの先を壁に押し付けると、そのまま指から放した。
「そのためなら、あらゆる罰を受け入れる。《あのお方》は、最後に裏切る私を許さないだろうがね」
ひひひひひ。と笑って、盛大に痰を吐き出した。
「おげえええ……エエエェ、」一分近く痰を吐いていたのではないかと思う。僕は無意識のうちに数歩後ろに後退していた。
「……はあ、はあ、はあ……」
膝をついて、撒き散らされた足元の唾液を眺めながら、男はしばらくのあいだあえいでいた。僕は自分の足に疲労を感じた。
ここはどこだろう、と僕は考え始めている。
いつまで自分はここに立ち続けているのだろう、と思い始めている。
(――こいつはいったい何を言っているのか?)僕のあたまは、その問いを行ったり来たりしている。
だが、本当は気づき始めている。
男の話に付き合っているのは、そこに、奇妙な「強さ」を感じるからだ。
探偵『鈴木』の精神は、明らかにバランスを崩し始めている。
だが、この男の言葉には、「虚言」だとは思わせない何かがある。
この男の言葉と精神は――何か、脆さと同時に――物事の本質だけがもつ力強さを備えているのだ。
探偵『鈴木』。
この男は、何かを知っている。
それも、自分の手にしていない情報を、掴んでいる。
そしてその事実は、何かを破壊する。
自分たちが築いてきた、甘い幻覚の眠りのような――、
やわらかい何かを瓦解させる。
自分がつくりあげてきた、繭のような世界を倒壊させる。
そんな、悪い予感に襲われて、
「お前、ユリアのなんなんだ?」
こぶしを握りしめて……訊いていた。
すると探偵『鈴木』は、一瞬だけ眉をひそめて、
「ユリア、ユリア……ああ、そうか。今の彼女はそれを名乗っていた……」
断罪の巫女を自称する少女。
召喚人格を自称するユリア。
この男は、そんな「彼女」の――
本当の名前を知っているのだろうか。
召喚人格であるユリアの母体は、
XXXに通う白百合百合亜――左右対称な回文のような文字列――で、
僕らの前ではその宿主の名前を名乗っていた。
「私は、彼女の、ひひひ」
男がのどを引き攣らせる。唾液と痰のからんだ下品な声で笑って、僕を、卑屈そうな目で上目見る。
瞳の奥では笑っていなく、かといって冷め切っているわけでもない。
何か、どす黒い感情を押しこめた不気味な瞳で、僕の全身を舐めまわす。
「お嬢様は……」
そう言って、清錠一のお嬢様学校であるXXXの生徒の、からだの感触を口にした。
「お嬢様のからだはどうだったかね?」
僕は、こぶしに力を籠めた。
黙っていると、男は続けた。
「私は久しく味わってないんだ……」」
そういってくちびるを舌で舐め、周囲を犬のように這わせていく。
どれだけ以前にからだを重ねたのだろうか。
「私たちみんなの《ユリア》のからだをさあ」
その言葉で、何かが弾ける音がした。
僕は、男の襟を掴んだ。殴りかかろうとした、
殴ったと思った、
「ひ……!」
だが……腕は直前で止まっていた。
「くそっ」
そんな言葉を吐いて、襟を離す。
やはり自分は誰かを殴ることができない。
現実を変えることができない。
ぶち壊してやることができない。
だが、それだけではない、とも――同時に思った。
男の顔に、不思議な感覚を覚えた。
その違和感の正体は、既視感だった。
この男の卑屈な顔を、自分はどこかでみたことがある。
だが、どこでだろうか?
「気の短い坊やだ……。親父譲りだな」
探偵『鈴木』は、窮屈そうにからだを縮めながら、両手でシャツをはたいた。
「親父をしってるのか?」
「ひひ……喋りすぎたかな……?」
あたりには再び小雨がパラつき始めていた。
「ただ……悪いことはいわないよ――あの娘には、関わらない方がいい」
そういって、僕の顔を覗きこむ。まぶたの端がたるんだ皺で覆われている。眼下懸垂、というやつだろうか。それが男の容姿の醜さを一層強調させている。「『あの娘に関わるな』――これは私の職業柄、『探偵』としての忠告だ。だが、ひひ……最後に、一人の友人としての……いや、人生の先輩としての、アドバイスをしよう……」
目元が緩んだ。皺が深くなった。男は口腔を締めつけて自分の足元に痰を吐いた。風船の割れたような音が鳴った。地面にきれいな八重型で割れた。
「助けてやるんだ、手遅れになる前に」
徐々に遠ざかっていく『探偵』の後ろ姿を眺めながら、小さく呟く。
ユリアが天使だとは思えない。
その溜息交じりの言葉は、再び降り始めた雨音にかき消されて、
それでも長いあいだ自分の胸に留まっていた。
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