第52話「二つの羽根をならべた夜」

 

   4

 

 

 紫の雲が千切れながら続いていく。

 地盤の低い建物の屋根が、しだいに丘に飲みこまれる。

 僕は、河川敷を走りながら、ある考えに取り憑かれていた。

 

 スタンガン。

 

 こめかみを撃てば、何かが変わるだろうか。

 あの断罪の巫女の言葉が確かなら、僕がそれを実行に移せば、あの黒シリーズの爆撃も止められるだろうか。

 彼女は言った。

 

 自分を殺せば、闇もろとも、すべてを消せる。

 

 それは甘い誘惑のような言葉の響きをもって、胸に迫った。

 いや、それは逃げだ、と自分のなかの、誰かが叫んだ。

 父親の姿が浮かんだ。あの死にかけのからだの横に、もう一体、別の標本ができあがるだけだ。

 だがそれの何がいけないのだろう。

 むしろ――自分の物語を自分の意志で断ち切ることは、

 美しい一個の完成形ではないだろうか。

 この壊れかけた世界で、グズグズに魂の腐っていく自分が、

 その腐敗を断ち切ろうとするのは、文字通り《断罪》にふさわしい。

 そうやって、意識もろとも、頭蓋を吹き飛ばせば、

 自分は何かになれるのだろうか。

「向こう側の世界」に辿りつくことができるだろうか。

 それが本当にあちら側の世界に辿りつくことを意味するのなら、

 自分は異界の景色をみたいと思った。

 

 この世界の闇が殲滅される、その瞬間。

 電子の弾幕に、脳髄をふっとばされ、意識が失われるまでの――

 闇が次々と解き放たれていくほんの一瞬。

 その数瞬の間にだけ、世界は「深層」をみせるのかもしれない。

 思考は次々と流れていく。

 自分は異界の磁場に惹かれている。

 

  5

 

 目の前に高い石の壁が迫り始める。

 橋だ。

 僕はナイフを手に、壁の隙間に押しこんでいたものを引きずり出した。

 

 羽根が、出た。

 

 橋の下の、いつもジョギング後にストレッチする場所だった。

 そこに、僕は、現場に残された羽根を隠していたのだ。

 幸いにも、警察、大人たちは、まだ、ラブラドールの存在には気付いていない。

 だが、時間の問題だろう。

 証拠を彼らに渡してはならないという真理が、働いた。

 

 天使狩りの被害にあったと思われる羽根。

 だが、二つの羽根には決定的な違いがある。

 

 バトラー探偵、『鈴木』の手にしていた羽根は、鮮血で汚れていた。

 だが、これまでの天使狩り被害者の羽根は、黒い斑状の染みがついているだけだった。

 

 もし後者の染みが、凝固した血痕ならば、鈴木の残した羽根も、同じような色に変色しているはずだ。

 

 僕は、それぞれの羽根を河原に並べた。

 答えは、すぐにわかった。

 

 両者は別物だ。

 

 まるで異なる色を、二つの羽根は示していた。

 血痕は固まれば、色に紫を帯びる。

 にもかかわらず、神隠しにあった羽根は、漆黒に光っている。

 

 これは、何を意味するのだろうか。

 考えるべきことはいろいろあったが、僕には、時間がなかった。

 

 頭上では黒シリーズのミサイルが撃ち落とされ、

 少女だけの秘密は脆くも崩れ去ろうとし、

 二つの都市伝説が絶滅の危機に瀕する一方で、

 海沿いの病院では父親が息を引き取ろうとしている。

 

 その存在、父親の存在が――、

 この世界から消える前に決着をつけなければならないという気持ちが、あった。

 それが僕を駆り立てた。

 だから僕は、理由も、わからずに。

 ただがむしゃらに反抗する、子どもみたいに衝動的に。

 

 天使狩りの羽根を比べた。

 

 見た目には、ほとんどおかしなところはない。

 黒い染みのつくられた、天使狩りの汚れを指でなぞる。

 匂いをかぐ。冬の寒気だけが鼻腔をくすぐる。何もおかしなところはない。何も新しい発見はない。

 ここまでで四つの感覚を導入している。

 

 触覚。嗅覚。視覚。聴覚では判別できない。

 

 

 

 こめかみを生ぬるい汗が流れていく。

 現場に残された羽根の前で四つん這いになって、間近にそれを観察する。

 それから意を決して、黒い染みに鼻先を近づけ、舌をさしだして、

 

 舐めた。

 

 違和感に、背すじがふるえた。

 

 

 それは、あまりに予想していなかった物質が体内に侵入したことによる、

 からだの拒絶反応だった。

 だが同時に、一つの真相を理解したという、曰く言い難い、震えもあった。

 

 一つの謎が、明らかにされた。

 

 羽根の黒さには、メッセージ性が宿っていた。

 それは間違いなく意図の感じられる、「作為的」な動機の証明だった。

 

 甘い、匂いがした。

 やわらかい衣擦れの音がした。

 音と匂いが流れてきて、僕は頭上を見上げた。

 

「ここに、闇がある」

 

 ユリアが立っていた。

 

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