第59話「暗闇の底で待つ薔薇型の中心」
ソレは赤い。残酷なほど赤い。赤すぎる。赤いペンキがこぼされたような白い足が、視界を割って、間仕切の影の向こうに倒れている。骨格は細い。どこかで確実に見たことのある華奢な肉体だ。抱けば潰れてしまい壮なほど脆く感じられた肉体だ。のばされた太ももの付け根からはおそろしく白い肌が覗いている。だが反対に、濃紺のスカートは驚くほど黒い。
足元で小石がぶつかる音がする、と思ったら、それは顎のふるえによって自分の歯が鳴る音だった。
羽根がみえる。
セーラー服の周囲には切断された羽根が撒き散らされている。
土と血と汚れで変色したその天使の羽根は、唐突に終わるモノローグのように根元の手前でブツリと途切れている。お嬢様学校として名高いXXXの漆黒の制服だ、だがその上半身は異様な輝きに満ちて、漆黒の湖面を湛えた月光の泉のように天井の明かりを反射している。照明の光の粒は揺れながら輝いて、間仕切りの枠線の影へと流れていく。液状化している。
そして僕は気付く、黒過ぎるセーラー服は闇ではなく液体を吸っているのだ、
しかし一体何の液体を吸っているのだろう? そこで僕はセーラー服の胸がひらいていることを知る。白い肌がこぼれている。なめらかな飴玉のようにひらかれている。リボンのついた制服の胸元はナイフで切り裂かれていて、腹までざっくりあいている。おへそだ。胎児を宿すところだ、かつて自分もあの中にいたのだろうか。呆然とした思考が中空に浮遊し、それから僕は衝動的に両手で顔を覆う。
世界が上下する。
心臓の鼓動と肉体の震えに揺れている。
指の隙間から槍状の光がこぼれてくる。
荒々しい呼吸が口腔と鼻腔からもれだしていく。
悲鳴にわななく獣の鳴き声のような不細工な音をたてる。
景色が驚くほどスローモーションで流れていって、そして僕は目撃する。
少女の胸に真っ赤な薔薇がひらいている。
八重に切り裂かれたバラ型の花弁の中心から、胚嚢――心臓が覗いている。
バラは赤い鮮血の湖面となって、制服の右の袖口から銀のスタンガンにこぼれ落ちる。ひとすじの赤い液体が、ゆっくりと少女の胸から白い肌の上を流れていく。優美に、優雅に、ねっとりとした粘着質な質感さえ漂わせるほどの濃密さで、スカートに沁みこむ。吸いきれずにこぼれる。少女の腰元の闇に輪をつくる。波形を描いて拡がっていく。
僕は思わず、顔を覆っていた手を離した。光があふれた。
瞳孔が収縮する、
ノゾミさん、
また助けられなかったのだ、
なぜかそんな言葉が脳裏に閃き、次の瞬間には僕は衝動的にクローゼットから飛び出していた。ノゾミさんのそばに駆け寄り、からだを抱きかかえる。制服があたたかい。ボトボトと涙が瞳を閉じた彼女の白い頬の上で弾けていく。小刻みにふるえるそのからだは、まだ心臓が幽かに動いていた。いきている。僕は彼女の胸元、その鮮血の渦の中心に顔を近づいて、反射的に咳きこんだ。そのからだは生ぐさかった。強烈な血の匂いに遭遇し、太古の原始的なリズムがあたまの細胞を蹂躙していって、自分のなかの理性が剥がれ落ちて、むき出しの本能が声をあげる。
あああ、
僕は叫んでいた。無意識の働きだったが、地鳴りのようなダミ声だった。あああ。叫びながら、僕は泣いていた。声をあげながら泣いていた。どうしようもない欠落感が足元に沈みこんでいって、新たに生まれた巨大な穴にからだごと飲みこまれていくようだ。
あああ、……ああ……ぁあああ、
死は一方的な喪失だ。それも死ぬ方ではなく先立たれる側の。涙が壊れた消火栓のように流れてくる。でもそれでいて泣いていることの意味はまるでわからないのだ。悲しいといわれると少しおかしい。寂しいといわれると狂いそうになる。鼓動が失われればもう二度と息をして生命感を取り戻すことが無いのだという圧倒的な喪失の事実が自分を奈落の底へ突き落とすのだ。イドのような空洞の闇へと放りこむのだ。この井戸の底の洞窟が死へと繋がっていたように。僕はそこで彼女のからだの隣に、上品な銀色の盆をみつけた。フランス料理でしばしば使用される指の油の汚れを落とすためのものだ、テレビ番組などで度々目にする少しだけ黄金がかった色味の盆だ、だがその中には水ではなくいまは漆黒の液体が注がれている。僕はその盆を覗き込んだ。汚れた自分の顔が映っている。だがそれも一瞬だけで、涙と鼻水が落下して波形を描き、水面の顔を歪ませてしまう。盆の向こうには、切り取られた彼女の羽根が置かれている。第四間接のあたりに、黒い水滴がついている。天使狩りに使われている液体だ、と気付くまでに、さして時間はかからなかった。僕は傷だらけの自分の手をからだの左右にひらき、肘と手首の下側の部分を地面につけて、腹ばいになった。そのまま顎をあげて四つん這いになり、鼻先を盆に近づけて液体に顔をつけ、犬のように盆を舐めた。それは紛れもなく、いつも口にしている味だった。涙のせいか、いつもより塩気が勝っているように思うが、間違いない。そしてそれが――オリジナルレシピでつくられた普段は店の奥のボトルにいれられたはずのそれが、必ずこの地階のラブラドールにしか存在しないものであるということが、天使狩りの事件に関する実行者の意図的な動機の一端を示しているように思われた。そこで誰かが近づいてくる音がした。衣擦れと足元だ。だがそれはカツカツという尖鋭的な踵の鳴る音ではなく、なめらかな、素足の、ぺたぺたと裸足でかけてくるような幼い音だった。僕は墨だらけの顔をあげて、その文様をみた。
『闇鍋の闇はイカスミです』
全身に入れ墨をした裸のミコトが現れた。
勅使が完成したのだ。冥界への。
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