第65話「爆撃ミサイルのカウントダウン」



  7


 

 こめかみの血管が浮き上がり始める。

 眉間の皺が深くタテに刻まれていく。

 長い髪は振り乱れて、目元は憤怒の情に吊りあがって、

 それでいて口元は何か絶好の好機を捉えた獰猛な獣のように喜びの笑みをたたえている。

 優しくて清純で無垢な、自分の知っている幼なじみの少女が、

 激しさと醜さを押し隠した悪魔のような容姿へとビキビキと変貌を遂げていく。

 霊瘴だ、と僕は直観的に思った。

 その姿は昔どこかで目にした祟りにあった女性の顔のようだ。

 人格が交代して憎しみの怪物へと切り替わったかのようだ。

 

 これが彼女の本当の姿なのか、と僕は思った。

 

 だがすぐに、これも彼女の一部なのだ、と打ち消した。

 僕がこれまでみてこようとしなかった異性の一側面なのだ。

 儚げに笑っているだけじゃない。嫉妬に怒り狂った彼女の姿だ。

 そしてこの悪魔化した彼女が、次々と僕の周りの少女たちを行方不明に追い込んだのだ。


「私たちの邪魔をするオマエは絶対に許さない」

「絶対にこの手でメタメタにしてやる」

「ずるいよ――なんでオマエばっか」

 

 のどの奥から搾り出すような声だ、醜悪な老婆の金切り声のような声だ。

 こんなにも人間は変わるのだろうか。凄まじい濁声で、彼女は絶叫した。

 それから銃を捨てて、髪を振り乱しながら、足元に転がっている僕のバットを拾った。

 手のひらで転がようにしてバットの表面に付着したどす黒い汚れをふき取っていく。

 それは闇色に変色し始めた血だった。さきほどの鳥居の奥の死体でできた汚れだ、塑像の前で倒れていた父親のあたまを打ち割って付着した血痕だ。

 エレナは両手を顔の前に広げて茫然と手のひらに付着したその漆黒の血を眺めていた。

 それから窓の外を仰ぎみるように顔の前に手をかざすと、目元に押し付けてから、ゆっくりと指のはらでこすりつけ始めた。


 彼女の顔が血塗られていく。

 顔面に闇色の紋様のようなペインティングが描かれていく。

 図像が中途半端な段階で顔料がわりの血液がなくなったのか、

 彼女は急に自分の顔をまさぐる手を止め、


「消してやる」バットを握りしめてユリアの前に立った。

「やめろ」

 僕は制した。

「なんでそんなふうに憎んでばかりいるんだ」

 そういってユリアにからだを覆いかぶせながら、叫んだ。

 だが彼女は攻撃をやめようとはしなかった。

 僕のすぐ背後の椅子を全力で叩き割った。

 粉塵とともに材木の匂いがして、粉砕音とともに凄まじい歯軋りが聞こえてくる。

「邪魔をするなら容赦はしないの」

 そういって墨の塗られた頬をバットに寄り沿わせて小首を傾け、僕を見下ろした。

 だめだ、と直観的に思った。

 彼女の理性がみえなくなっていく。

 普段の優しい彼女の心が、あたかも歪曲した四次元座標軸のグラフのように曲がって、どす黒い憎しみの感情に押し潰されていく。

 

 憎しみがすべてを侵食する。

 僕に対する愛情から生まれた憎悪が肥大して、もともとの感情さえ飲みこんでしまう。

 僕はその事実を否定したくて叫んだ。


「そうやってノゾミさんも殺したのか!」

 一瞬の沈黙。遅れて、地鳴りとも滝の音ともつかぬ濁声で、不気味な笑いが、腰の下の方から聞こえてきた。

「殺、し、てない、よ……、」

 笑っているのだ。それは健康的ないつものエレナの笑いではなく、苦しそうにひきつっていた。

「神隠しにあわせたの」

 裏返った声でいって、挙動不審気味に一瞬呆然とあたりを見回し、言葉をつっかえながら、「ま、まるごといなくならせたの、い、いいい、イキたまま」

 僕は彼女のいうことがまったく理解できない。

 生きたまま神隠しにあわせたとはどういうことだろう?

 そこで、この天使狩りの究極の謎に行き着く。

 それは、これまでも幾度となく繰り返されてきた問いだ。

 行方不明になった少女たちは一体どこへ消えたのだろう?

 そしてノゾミさんのからだはどこへいったのか?

 そんな僕の疑問に答えるように、彼女は壁際に設置された掃除用具入れを指差した。


「そこ、みるがいいよ」

「神隠しの秘密が隠れてる」

 どういうことだ。僕はとっさに壁際まで近づいて、掃除用具入れの扉をあけようとした、


「でもだめ。もうもたない」


 そういって頭上を見上げる。何をみているのだろう。

 黒シリーズをみているのか。彼女にはその姿がみえるのか?

 異界のものが見えるレベルにまで彼女の崩壊は進んでいるのだろうか。


「それに彼女は最初から死んでた」


 どういうことだ。

 僕は冷静さを取り戻そうと必死で自分を抑えながらいった。

 自分でも驚くほど低い声がでた。

ノゾミさんのことをいっているのだと、声に出してから気付いた。

「まだ気付いてないの?」彼女がピストルから顔を上げて、小首を傾けて僕をみる。「あのひとはとっくにこの世界から消えてる。なぜなら」

 そして口をひらいて、何かを言おうとして、だが声だけが抜け落ちている。

 うす桃色の小ぶりなくちびるだけが、ゆっくりと閉開して、

 

 ――彼女は、あなたの……、

 

 轟音が炸裂する。

 頭上から飛来してきた鉄の音に、彼女の声はかき消されてしまう。

 焼夷弾のミサイルの雨は、バラバラと落下してくるあいだ、互いに激突するパイプオルガンのような音色を奏でて、一瞬の静寂のあとに建物の遥か後方で爆発する。

 骨が軋む、筋肉がこわばる。

 僕は衝撃に思わずユリアのからだに手をついた。

 錯乱しかけたエレナと暴走する黒シリーズ、役に立たないユリアとまともに動かないからだ。絶望的な状況だ、そんな絶望的な地上の現実を嘲笑うかのように巨大な黒シリーズの機動音が建物の真上から聞こえてくる。

 

 みられている。


 僕は、はっきりと確信した。

 額から顎先へと生ぬるい汗がこぼれてきて、思わず、頭上につぶやく。


 うて、


 旋回音が言葉をかき消していく。

 凄まじい鋼鉄の機体の轟音で、思考すら消失させる。

 僕はあたまで呟く。


 なぜうたない、


 黒シリーズは監視しているのだ。

 ぐるぐるぐるぐると僕らのすぐ真上を旋回しながら、待っているのだ。

 だが何を待っているのだろう?

 そんなもの、わかりきっている。

 僕らが殺しあうのを待っているのだ。


「なんでそいつを庇うの?なんでそいつに触れるの?なんで?なんで?なんで?」

 彼女がゆっくりと壊れていく。同じことばかり強迫的に繰り返す。

 滑舌が異様に悪くなり、言葉を繰り出す舌の動きが狂っていく。

 自律神経が狂い始めているのだ。

 目の前に長い影が落ちて、僕はとっさにからだを投げ出した。

 

 ゴシャリ。


 ――耳元で何かが潰れる音を聞く。

 驚くほどの無感覚が全身を包んで、小さく息を吐き出した瞬間に、激痛が上半身を貫いた。

 バットで打たれたのだ。

 だが打たれた肩ではなく、頭のうしろがじぃんと痺れて、

 遅れて岩石が落盤したかのような衝撃が鼓膜のあたりからあふれてくる。

 あまりの激痛に自分の五感が掻き回され脳幹と五感をつなぐ連結回路のシグナルが暴れているのだ。

 僕は絶叫してその場に倒れこんだ。凄まじい汗が頬を流れていく。

「そいつの方が大事なの?大事なの?大事なの?ねえなんで?なんで?なんで?」

 鮮血のこびりついたバットの先端が視界をかすめる。

 気付いたときにはうめき声をもらしながら、我も忘れて地面を転げまわる自分がいる。

 傾いた地面に少女の白い足がある。

 その先に少女の太ももと胸元と顔がみえる。

 エレナは表情を変えずに、もう一度バットを振り上げる。振り下ろす。

 その瞬間、僕は目を閉じた。奇妙な無重力状態が全身を支配した。

 

 だが二度目の激痛はやってこなかった。

 彼女は顔を押さえてうめいていた。

 壊れそうになる自分と本来の自分――彼女のなかの二人の人格が葛藤しているのだ。

 

 涙だ、と思った。

 彼女は涙を流していた。

「あああ、あああああ」

 エレナは頬を濡らしながら、髪を振り乱して叫んでいた。

〝――でも心のどこかであなたに気付いて欲しかった″

 ミコトの言葉が、蘇える。

〝最低の自分とわかっていながらでも、それでもあなたとの時間を求めた″

 絶叫はやがて獣の遠吠えのような呻き声へと変わって、悲痛な色を帯びていく。

 

 音は何もない。


 大通りを走る車輪の音も、救命のサイレンの音も、黒シリーズの旋回音もきこえない。

 無音の沈黙のなかで、ただ彼女のうめき声だけが、孤独に作動する機械の重低音のように静寂の底に流れている。


〝――エレナは心のどこかであなたを待っています″


 僕は腕の付け根を押さえながら立ち上がった。

 それから一歩ずつ彼女に向かって、歩き始めた。

 まだ彼女は彼女のなかにいるだろうか。

 まだ僕の声は届くだろうか。

 いや、まだ届く。

 きっと、届く。


 僕は心のどこかで彼女を信じていた。


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