第33話「ゼロになることは出会うこと」



  2

 

 

 茜色の日差しにのびる生徒の影が薄れていく。

 冬の夕暮れが校舎を包み、水平線の底が黄金に染まる。

 それでもグランドから流れる生徒の掛け声は、響き続けた。

 

 からん、

 

 保健室の窓から外の様子を眺めていると、空の弁当箱が鳴った。

 給油の温度を高めに設定し、弁当箱の容器を洗う。

 その子供じみた容器は、当然のことながら、自分のものではない。幼なじみのエレナのものだ。彼女は毎日、僕のお弁当(肉肉弁当)をつくってくれているのだ。時刻はすでに五時を過ぎようとしていた。

「ユリア?」

 声をかけるが、反応はない。まだ眠っているようだ。

 僕も、反対側のソファに横になろうか、と考えたが、眠れそうにない。

 授業中の半分は居眠りしている自分は、まだ眠気がないのだ。

 授業中の教師の声は、格好の睡眠薬がわりとなる。

 そして、そこで――僕は夢をみる。

 

 

 3

 

 

 ――夢のなかで。

 

 僕は透明な龍になって、美しい空を翔けている。

 七つの海を翔け、八つの大陸を統べる、全知全能の龍だ。

 だがその一方で、暗い記憶もある。何もできない蛇の形をした自分が同時に存在していて、空に思いを馳せる一方で、遠く離れた地下の底で、面を這い回る。暗く、血なまぐさい、ジメジメした井戸の底。そんな絶望的な場所から、手も足ももたない蛇のようなおぞましい姿で、ただ空を見上げ続ける。 

いつもみるのは、その夢だ。

 

 ちょうど、生まれたときの光景を思い出せないように。

 

 夢から醒めたときに、その内実を完璧に覚えていることはない。

 自分の名前も、思い出せない。

 でもそれでいい、と思う。

 どちらが本当の現実なのか、それすらわからなくていい、と思う。

 

 無は全と同じで、眠りはある意味、すべてを手に入れた状態なのだ。

 色も。音も。光も。記憶も。時間さえも知覚できない。

 それは逆にすべてを知覚しているのと同じで、

 もっと深く長い永遠の眠り――死へとつながっている。

 死は永遠の無で、しかし虚無だとは自分は思わなくて、すべてを与えられている状態とさえ、思うのだ。

 

『ゼロになることは、出会うことと同じなんだ』

 

 昔。

 誰かが――……僕にいった台詞を、今でも思い出す。

 それが誰の言葉だったのかは、思い出したくない。

 ただ、女性だった……と思う。

 とても大きくて、あたたかい存在だったと思う。

 大切な人だった、ような気がする。

 大切な人が、この世界からいなくなろうとしていて、それが幼い自分にはわかっていて――悲しみにくれていた自分に向けられたその言葉は、今でも、胸に残っていた。

 ゼロは、出会うことと同じ。

 だから、眠ることは、誰かと再び出会うこと。

無になって、すべてを手入れることと。すべてと、つながること。

――その深層意識の世界が、あの夢となって現れているのかもしれない……。

そんな風に考えていると、

 

 ――女難体質。

 

 ふいに、ノゾミさんの言葉を思い出す。

 たしかに、自分にはそのケがあるのかもしれない。と思う。

 とても病んでいて、災いをひきつれてくる少女にばかり好かれる――、

 女難体質。

 嫉妬深いエレナといい、

 暗黒新聞と嘯き全身を墨だらけにするミココといい、

 なんとかの異袋をもつミココといい。

 そして何より。

 この――断罪の巫女を名乗る少女といい。

 


「ユリア」

 

 カーテンの向こうに、声をかけてみる。

 だが、反応はない。やはりまだ意識を失っているのだ。

 誰もいない放課後の保健室までは、僕が運んだ。

 少しだけ汗ばんだ首と、白い曲線を描く太ももの裏側。

 両手には、まだ彼女を抱えた瞬間の感覚が残っている。

 

 照明の落とされた薄暗い室内。

 

 ゆっくりと歩いて、ベッドに近づく。

 どういうわけか、足音が響かないように、注意している自分に気付く。

 それはなんのためだろう?

 彼女を起こさないためだろうか。

 自分の存在を告げないためだろうか。

 いつもエレナを起こすみたいに、カーテンをあける。

 枕元に立ちつくす。

 そのまま僕は彼女の、異様なほど美しい顔を――見下ろしていた。

 

 遠くから下校する生徒の笑い声がきこえてくる。

 はだけた毛布をなおそうと手をのばすと、呼吸に上下する胸にかすかに触れて、長い髪が肌にこぼれた。

 襟の崩れた制服からは胸元がかすかにのぞいている。

 僕は、指を離すことができなくなった。

 ユリアの首元に触れている手の甲が、じんわりとあたたまるのを――僕は不思議な心地で見守っていた。

 

 なぜだろう。ユリアに触れるたびにエレナの顔がよぎるのは。

『ギシッ……』

 腕がバランスを崩して沈みこむ。

 もう片方の手で彼女の首もとに手をついて、体重を支える。

 だが、そんな意志の働きをあざわらうかのように――制服のリボンが手首をくすぐる。XXXの漆黒のセーラー服だ。エレナがいつも素敵だと羨ましげにみていたものだ。

 いつからだろう。

 何かを求めるような台詞を彼女の口から耳にしなくなったのは。

 ねだるような、焦がれるような、何か、未来への憧れといったものを――彼女が口にすることがなくなったのは。

 何か大きな挫折が、或いは階段前の石ころにつまづくみたいな小さな、しかしその後の悲劇へと続くようなささやかな失敗が、過去にあったのだろうか。

 そして僕はようやくエレナが受験に失敗した唯一の学校が、このお嬢様学校のXXXだったことを思い出す。

 そうだ。

 僕はXXXの校舎に――一度だけ入ったことがある。

 洋館を連想させる――「館」などという言葉で俗称される校舎だった。

 その体育館脇の昇降口の隣。真っ白いボードの前に張り出された、中等部の合格者番号の張り紙を、覚えている。その白さを――その掲示の前で、寒い冬のなか呆然と立ちつくしていたエレナの姿を――。

 そして気付く。

 その凶悪な内面はさておき、外見は凄まじい美的外観を誇っている。

 まるで精巧な部品を組みあげてつくられた人形のようだ。

 意志が強く、他人に振り回されることがない。

「断罪の巫女」なる、この少女は――エレナが憧れ続けるものの、現実化した姿なのだ。

 

『がんばれば、なにかいいことあるのかな。むくわれるのかな』

 

 そういって雪のなか鞄を抱えていた三つ編みの少女を思い出す。

 まだ髪が黒く、今よりも遥かに髪の毛は短くかった。

 その肌は透き通るように白かった……。

 受験に落ちた帰り、二人で偶然立ち寄った店がラブラドールだった。

 かがみさんは、あたたかいコーヒーをいれてくれた。グァテマラだよ~。などといっていたが、絶対にネスカフェのプレジデントに間違いない。

 しかし、それが不思議なほど、冷えたからだに心地良かった……。

 

 ――第一志望である県内トップクラスのお嬢様学校に失敗したエレナは、そこから三つほどランクの落ちる、この学校にきた。

 エレナの挫折は、ともすれば、そのときから始まっていたのかもしれない。

 そして十代の急速に成長するからだは、夢の世界にとどまることを許さない。

 中性的だった容姿は崩れ、輪郭は丸みを失い、反対に胸は膨らみを帯びる。

 

 そうやって、誰もが大人になる。

 

 いつまでもアニメの世界に留まることはできないのだ。

 

 がんばっても、取り戻せないものはある。

 がんばればがんばるほど、失われていくものもある。

 スパルタ教育の父親のもと、週五で受験勉強につぎこんだ彼女の小学校六年間は――決して戻ってくることはないのだ。

 そんな幼年期の終わり、時間の残酷さに気づいた彼女が、初めて本音をもらして泣いたとき、僕は何をしただろう?

 

 いま、そのときの彼女にそっくりな、いやそれ以上に可憐な――非の打ち所のないほどの美的な輝きを放つ少女を前にして、自分が感じているこの動悸の正体は何だろう。無意識のうちに、彼女の呼吸に自らの呼吸を同期させている自分の意図は何だろう。

 言葉をかけてやれなかった。

 勇気づけてやれなかった。

 ただ同じようにそばに立って眺めることしかできなかった。

 そんな数年前の雪の日の出来事を、まだ後悔しているのか?

『キスをしたら目覚めるんだよ』

 ギシッ……。その細い手首を掴むと、やわらかい肌の感触が手のひらでほどけて、熱がじんわり肩ごしから胸へ流れてくる。

 ユリアは、自分の言葉は真実だといった。だが、本当にそうだろうか。そんなことが、あるのだろうか。

 僕は、壊したかった。

 あの日のエレナに対する、後ろめたい気持ちと裏腹に、傷ついた彼女を、恐れている自分がいる。エレナの失望を前にして、どうしていいかわからない、そんな情けなかった自分を、認めたくない自分がいる。

 そんなものに脅えている自分が、醜かった。汚かった。無様だった。

 ギシッ……、

 だからいっそ、傷つけてやろうと思った。

 傷つくのはユリアなのか、エレナなのか、自分なのかわからないが、それで先に進めるなら本望だ。くちびるを近づける。甘い髪の匂いが顔の前に立ちこめる。その瞬間少女の世界テリトリーに踏み込んだのだと実感する。

鼻先があたたかい熱に高潮する。湿度をもったやわらかい質量、恒常的に熱が維持された眠りにつく一人の少女の体温が、闇色の保健室の空気のなかこちらにもつたわってきているのだ。僕は少しだけ汗ばんだ彼女の額の髪を、手のひらで撫でた。頬と頬が触れた。首すじで甘い呼気が抜けていく。呼吸に合わせて上下する胸もとの、シーツのこすれる音が波のように現れてはひいていく。それが彼女のものか、自分のものなのか、じきにわからなくなった。僕はさらに顔を近づけて、そのままくちびるを薄桃色の、ほのかに上気したくちびるに運ぼうとした。だがそこで、これが初めて自分がきちんと交わすくちづけだと気づいて、かたまった。硬直した。躊躇った。目と鼻の先で止まった。その瞬間、

 

「なにをしている」

 

 目をひらいて、ユリアがいった。

 ゴン、と頭をぶつけた。驚きのあまりベッド脇の身長器具にぶつかってしまった。

「図画工作の習作でもしてたのか?」

 彼女がアホで助かった。

 常識がなくて助かった。

 しかしどれだけ常識がないのか。

「よくねたぜ」

 などと言って、ユリアはのびをする。猫が良くやる動作に似ている。その仕草にそっくりである。

 それで僕は、彼女が今回の一件をなんとも思ってないことを理解した。

 少しだけ、その反応を物足りなく思う気持ち、残念に思う気持ちが――沸き起こる。自分は、いったい、何を考えているんだろう。何を感じているんだろう。わからない。

 だが、それ以上に、ほっと胸を撫で下ろす。

 心に落ち着きが戻ると、窓の外の様子が意識された。

 再び、雪の降り始めた中庭をみる。

 傘をもってくるのを忘れたな、と思う。

 予報では、晴れのはずだった。

 降水確率は0パーセントだった。

 僕はため息をつき、もし先方が用意していれば、今も保健室のベッドにだらだらと寝転がりながら制服のスカーフを直している彼女の傘に、少しだけ入れてもらおうと思った。

 この世界は、いまだにわからないことばかりだ。

 

 天気さえ自由にならない。

 


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