第17話「無数の災禍と不安と殺戮」


 

『 』『 』『 』

 

 天窓の中心。

 世界の向こう側から、自分を呼ぶ声が降りてくる。

 そんな幻を――もう何度心に浮かべたことだろう。

 だがそれは所詮幻想で、現実ではない。

 

 願いも、望みも、果たされることはない。

 

 そもそも、誰かが叫ぶ声が頭上でひらめいたとして、

 自分をここからつれだしてくれる存在が仮に現れたとして、

 それが自分を呼んでいるのかどうか。

 知ることができるのかも、自分にはあやしいのだ。

 

〈自分の名前が、わからない〉

 

 感傷的な思考を断ち切るように、ゆっくりと酸素を吸いこむ。

 とっぷりと容器いっぱいに浸された鈍色の液体に顔を沈めるように、

 視界が白い蒸気で覆われていく。

 吐き出した呼気は、あたまをしびれさせながら後退していき、

 血なまぐさい邸内の惨状が遅れて瞳に飛びこんでくる。

 

 横に長い大テーブル。

 

 宗教画のかけられた、大聖堂の食卓。

 散乱する食事と引き倒されたテーブルクロス。

 絨毯に転がる死体。

 

 それは、夢ではなかった。

 

 だが、悪夢でもない。

 自分で選んだ未来だ。

 だが、これが未来などと呼べるのか?

 

 そんなとりとめのないことを漠然と意識に浮かべながら、

 足元に転がっていたピストルを拾い、口に含んでみる。

 仮死状態から解毒剤で目覚めた、恋愛映画のヒロインの姿が浮かぶ。

 いまの自分を、その名前のわからない悲劇的な物語になぞらえるのは、感傷的に過ぎるだろうか。

 

『ロミオ&ジュリエット』

 そんな外国映画のタイトルが、浮かんでいた。

 悲しい、映画だった。

 二人は、結ばれるはずだった。

 いったんは、離ればなれになりながらも――

 最終的には約束の場所で落ち合う手はずになっていた。

 しかし、誤解が生じた。

 許嫁との結婚を強要された両家の娘であるジュリエットは、

 神父の進めで、一度死ぬことにした。

 24時間、仮死状態になる薬を飲み、死んだと見せかけて――

 教会で、蘇る。

 そうして、「家」の呪縛から逃れ、

 晴れて自由の身となって、ロミオと再会する――。

 だがその「約束」は、果たされることはなかった。

 ロミオは、彼女が、本当に死んでしまったと、誤解した。

 渡されるはずだった神父からの手紙が、届かなかった。

 壮麗な装飾の中心で。

 絶望したロミオは、ピストルであたまを打ち抜いて、死ぬ。

 目覚めたジュリエットも、ロミオの後を追って、死ぬ。

 

 それを永遠の愛、と呼べるのだろうか。

 

 わからない。

 自分には、わからない。

 愛すること。愛されること。

 あたたかさを感じること。肌のぬくもりを感じること。

 

 自分は、それを、知らない。

 

 知らなくて、当然だと、思っていた。

 

 知るべきではないとも、思っていた。

 知ってはいけないものだと、思っていた。

 

 ――自分は他人に愛されていい存在ではない。

 

 そうして、のどに、手を押しあてた。

 

 自分は、バケモノだった。

 

 だがそのバケモノじみたチカラを、どのように表現すればいいのだろう?

 最初から与えられた宿命を、客観的にとらえることは、難しい。

 

『口にした言葉を、現実化する神話の兵器』一番目の父は言った。

『悪意を集め、外部に排出することによって、世界と異世界の揺らぎバランスを調停する虐殺器官パンドラの箱』二番目の父は言った。

『無数の災禍と、無数の不安と、無数の殺戮。そのすべての根源』三番目の父は言った。

『それを伝達するのが自分たちの努めである』何番目かの父親は言った。

 

 よく、わからなかった。

 自分は、理解力に、乏しかった。

『――人間の声の仕組みは、医学的にもまだ完全には解明されていない』

 そんな風に、父親の誰かが話すのを、聞いたことがる。

 そんな具合だから、無知な自分が、

 どうしてこんなにも不思議な力をもつのか、知る由もない。

 

 ただ一つ、主観的に分かっているのは、自分が地下の牢獄に幽閉されている、という事実だった。

 ただひとつ、直観的に分かっているのは、悲しみや苦しみやあえぎや不安といったものを無意識のうちに吐き出す「声」を持っている、という事象だった。

 

 だから、終わらせたかった。

 いや、終わらせたいと考えるように、なっていた。

 

 眠りの狭間から流れこむ夢が――からだの奥底を、疼かせた。

 

 光が、見たかった。

 

 地上に、出たかった。

 地上の光を、浴びたかった。

 一瞬で身を滅ぼされても、構わなかった。

 たった一度だけでいいから、世界を見てみたかった。

 

 知りたかった。

 

 知ることができれば、変われる気がした。

 

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