第76話 患者もいろいろ-ホスピスの日々-点滴1本に3日間

 ホスピスには、「生きてきたように死んでいく」という金言があります。


 「余命あと1カ月」となっても、人は急に生き方を変えることはできないのです。


 患者さんは76歳男性で、胃がんの末期にありました。


 細身で、見るからに、頑固そうな顔立ちでした。


 入院時から尊厳死を希望しておられ、


「何もやってくれるな」


 いつもそういっていたのです。


 ホスピス(緩和ケア)病棟には畳の部屋がありました。


 布団に埋もれるように横たわる患者さんの傍に正座して、私はいつも語りかけていました。


 口からはわずかしか取れませんので、当然のこと身体は日ごとに衰弱していきます。


 まさに枯れるように弱っていくのです。


 医療者としては、 ただ傍観しているのみというのは、いたたまれない気持ちでした。「点滴したら楽になるのに」と思って見ていたのです。


 緩和ケアの三原則は、1 人間の尊厳を守ること 2 症状コントロール 3 QOL(クウォリティ・オブ・ライフの略で、生活の質の意味)の重視 と私は考えています。(⇒豆知識)


 点滴による水分補給も、症状コントロールの1つと考えられます。


 脱水状態は、口渇や倦怠感をまねき、大変辛いものですが、少しでも水分が入れば、それは和らぐのです。


 このまま餓死していく様を見るにしのびなく、


「点滴したら楽になりますよ」


 患者さんに語りかけます。


 この人は生来すこぶる頑固な性格で、


「やりたくない。わしゃ、尊厳死がいいのだ」


 そう言い張ります。


 回診する度に、私は患者さんに点滴をすすめました。


 3日間続けました。


 するとやっとのこと、私に降参するように了解してくれたのです。


 ホスピスの基本ルールは、本人の意思を尊重するというものです。つまり、本人が了解しないことは、決してしないのです。


 一般病棟では、ドクターの指示が出ればそくざにやります。点滴するのに3日もかけていたら手遅れになって、患者は死亡してしまいます。


 私は1本の点滴をするのに、3日間本人と話し合ったのです。


 やっとのことで、いざ点滴を始めてみると、


「なるほど身体が楽になったよ、こりゃいいわ」


 笑顔が出ました。


 点滴をすると脱水状態が改善されて、身体が楽になることが本人にも分かったのです。


 それを実感して、患者さんは点滴を気に入りました。


 それからというもの、毎日1本、点滴を続けたのです。


 すると食欲も少しずつ出てきて、食べられるようになり、身体を起こすことができるようになったのです。


 車椅子に乗って、デイルームにも出られるようになりました。


 しかし残念ながらそれも長くは続きませんでした。末期の胃がんですので徐々に食欲も落ちて、全身の衰弱をきたしたのです。


 それからは本人の意思を尊重して、無理な延命は一切せずに、自然にお看取りをしたのでした。


*豆知識


1 尊厳を守る


 人間には、いかなる状態にあっても、人間であるという尊厳があります。尊厳を守ることは、ホスピスケアの基本原則です。


2 症状コントロール


 症状コントロールとは、がんに伴う痛みなどの症状を、モルヒネ投与などの適切な処置によって緩和することをいいます。


3 QOLの重視


 QOLは、Quality of Life の略で、生活の質をいいます。QOLの重視とは、延命という量的なものより、生活の質を大切にしようというものです。


〈つづく〉


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