第28話 医療訴訟 その4ー命の値段
私は長年医者をやっていて、どうしても解けない問題があります。それは、「命の値段は一体いくらなのか」という命題です。手術代が300万円でも、もし失敗して訴えられた場合、その賠償額は時に1億円ほどにもなります。命を助けて3百万円、失敗したら1億円というこの大きな開きが、どう考えても私には納得できないのです。
私の知る限りの資料を提供いたします。少々面倒でしょうが、「命の値段」をいっしょに考えてみましょう。
資料その1
「人命は地球より重い」という言葉があります。文字通り解釈すれば、世界人口全ての命を保障するには、地球が70億個必要になります。これは「人命は大変尊い」ということを抽象的に表現した言葉で、決して実理的なものではないことは明白です。
資料その2
皆様ご存じの故・手塚治虫氏のマンガ作品に登場する、黒いマント姿にツギハギ顔のブラック・ジャック医師(彼は無免許医師で保険診療はできません)は、法外な料金を代償に、様ざまな怪我や難病を治療しています。法外な料金は時には100億円にも及びます。
資料その3
10年ほど前にある生命保険会社が、「命の値段」4000万円という試算を出しています。
資料その4
リスク分析による命の計算方法が次のサイトに載っています。
http://www2.ucatv.ne.jp/~risuku.a.sea/inoti.html
国税庁によると、2005年度の45才男性の年収は658万円となっています。それを基本に前記サイトで計算してみますと、妻と子ども1人の45才男性で、「命の値段」は5756万円と出ます。
資料その5
アメリカでは、現時点では高齢者や低所得者のための公的保険以外には私的保険しかありませんから、医療費はきわめて高額です。
アメリカで入院した場合は室料だけで1日約2000ドル(16万円)から3000ドル(24万円)程度の請求を受け、例えば、急性虫垂炎で入院、手術(1日入院)を受けた場合は、1万ドル(80万円)以上が請求されています。しかも地域差、病院差が大きく、ニューヨークでは243万円となっています(1ドル80円で換算)。(ちなみに日本での虫垂切除術の手術代は6万4200円、最高基準の病院の1日の入院費は1万2000円程度。4-5日の入院で計30万円ほどです)
アメリカで医療費が高いのは、公的保険がないことに加えて、人件費、施設費が極めて高く、しかも医療訴訟対策のために保険会社に支払う保険料が莫大だという事情があるからです。
例えば日本では一般病院のベッド100床に対して医師数は13人、看護師は44人以上が施設基準ですが、アメリカでは医師は72人、看護師は221人にもなり、日本の5.5倍の医師と、5倍の看護師がいます(1998年OECD統計)。
またアメリカでは、1970年代の初め、医療訴訟の急増により、保険会社は大幅な保険料の増額を行い、それまで年4万ドルだったものが,年20万ドルを超すことになった例もまれではないようです。
資料その6
日本ではどうでしょう。現在の日本の医療保険制度では、例えば胃癌の手術の場合、大ざっぱに見積もって、保険診療なら1月目は高々200万円の治療費です(1年目の治療費は総計233万円です*1)。しかも、高額療養費といって、病院などの窓口で支払う医療費を一定額以下にとどめる制度があり、いくら高額でも医療費の自己負担分が月約8万円(年齢、所得により異なる)を越える分は、後に返還されます(日本の医療費はアメリカの5分の1から10分の1です)。
長々と書きつらねました。ご苦労さまでした。資料をご覧になり、皆さんは「命の値段」をいくらと推算されましたか。
資料から類推すれば、「命の値段」は300万円から100億円となります。これでは変動幅が大き過ぎますので、両極端を除いてみると、およそ5000万円くらいになります。医療過誤により死亡した場合、訴訟での賠償額が5000万円から1億円になるのは、これからするとおおむね妥当なものといえましょう。
「命の値段」が5000万円であるとしたら、それを救命した場合、5000万円の報酬をもらえていいはずだと私は思うのですが、実際のところ日本では心臓移植でさえ、167万6000円の報酬なのです(海外で受ける場合は、待機中、移植前後、外来の費用を含めて5000万円から1億4000万円かかります)。日本の医療保険で見積もられる「命の値段」は、大変安いことがお分かりかと思います。
このために、命を助けて3百万円、失敗したら5000万円という大きな開きが出てしまい、「納得できない!」と、私が愚痴をこぼすのです。
日本では、5000万円の命を300万円で救命してもらえます。保険制度によってこんなにも安く医療を受けられるありがたさを、もう一度再確認したいものです。
参照 *1 がん治療費.com
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