選択の余地

 背筋が粟立つ。


 ヴェーラは震えていた。


 コア連結室の暗く狭い闇の中で、ヴェーラは名状し難い不安のようなものを覚えていた。高鳴る心音がノイズとなり、それがヴェーラの精神をより一層不安定なものへと追い込んでいく。


『ヴェーラ、だいじょうぶ?』

「だいじょうぶだよ、ベッキー」


 機械的に応じるが、だいじょうぶかどうかは、ヴェーラ本人にも判然とはしない。本当にだいじょうぶだと思っているのか、薬の効果でそう信じ込まされてしまっているのか、ヴェーラにはわからないのだ、もはや。


「わたしたちがやらなければ、第七艦隊は全滅する。クロフォード准将のためにも、それは避けたい」

『選択の余地なんてないってことね』

「最初からそんなもの――選択肢なんていう都合の良いものは無かったってこと」


 ――それをより確実にするために、自分がいるのだ。


 ヴェーラは唇を噛む。精神の揺らぎが唐突に落ち着いた。


「ナイアーラトテップ、有効射程に捉えた」


 ヴェーラの中の何かが開花する。さっきまでの不安定さが嘘のように静謐になり、視界が一気にクリアになった。


 ヴェーラの要請に従い、<メルポメネ>が全速で進み始める。レベッカの<エラトー>もその隣に並んだ。第七艦隊の最後尾が水平線のあたりに一隻、また一隻と見え始める。


 ヴェーラは意識を一層に集中した。薬物を摂取するようになってから、意識のコントロールがまるで機械を操作するかのようにできるようになっていた。時間は限定されるが、集中力もどこまでも高められるような気がしている。


 その時、ぞわぞわぞわ、と、何かが闇の中を、足の先から這い上ってくるような感触を覚えた。このざらついた感触の発生源は、間違いなくアーシュオンのセイレネスである。ナイアーラトテップを操っている少女たちの持つ気配だろう。


「気付かれたよ、ベッキー」

『え? わかるの?』

「わかる。あいつら、こっちを見てる」


 レベッカにはそこまでは分からないらしい。ヴェーラは意識をさらに集中し、三体のナイアーラトテップの様子を観察する。それらは<メルポメネ>を獲物と定めたようだった。


「そう……」


 ヴェーラは闇の中で荒んだ笑みを浮かべた。


「やっぱりあなたたちも――同じ、なんだね」


 ヴェーラは呟き、そして叫ぶ。


「セイレネス発動アトラクト!」


 その瞬間、<メルポメネ>を中心として半径百キロ以上の海域が、薄緑色の光に包まれた。次いで<エラトー>からも光の波紋が生じ、その波はやがて海域を覆いつくした。ヴェーラの視界が上空五百メートルばかりからのものに切り替わる。イメージとしては、空に浮いているような感覚だ。服を着ているような感触はなかったが、恐らくはブルクハルトが先ごろ実装した夜戦服のようなものを着せられているのだろう。


 眼下の<エラトー>から、レベッカの鋭い声が響く。


『ナイアーラトテップもセイレネスを発動したわっ!』

「わかってる」


 こちらの波を打ち消しながら、三体のナイアーラトテップからも光の波紋が押し寄せてくる。


「クロフォード提督! 第七艦隊、退避!」

『了解した。あとは任せるぞ』


 ヴェーラの視界の中で、第七艦隊構成艦が次々と反転していく。これで戦艦とナイアーラトテップの間に障害物はなくなった。彼我の距離は約十五キロ。海面近くまで浮き上がっている三体のナイアーラトテップのが、ヴェーラにははっきりと知覚できた。


 三人とも、黒い髪に黒い瞳……ヒメロペと同じ姿をしていた。彼女らが明示的に名乗るよりも先に、ヴェーラは三人がそれぞれ、リゲイア、パルテノペ、レウコテアという名前であることを知る。


「ベッキー! リゲイアを頼む!」

『リ、リゲイア?』

「一番左の! 任せるよ!」

『わかった』


 ヴェーラは<メルポメネ>の火器管制を掌握すると、持てる限りの火力を空中に放った。


「モジュール、ゲイ・ボルグ、発動!」


 明示的に指示を出したその瞬間に、空中を舞っていた弾丸たちは薄緑の光に包まれて消失した。そしてその数秒後、まるで水爆が炸裂したのではないかと思うほどの激烈な衝撃波が、十五キロ彼方の海面をえぐり上げた。その爆炎と吹き上げる海水の狭間に、一瞬だけだが光の槍のようなものが見えた。


『グッ……!』


 直撃を受けたパルテノペの呻きが聞こえる。


「っ!?」


 お返しと言わんばかりに、パルテノペの後方にいるレウコテアから不可視の攻撃が飛んでくる。ヴェーラには黒髪の少女が拳銃を乱射してきているようなイメージが見えていた。それが空中にいるヴェーラの頬を掠めて飛んでいく。頬に切り傷がついたと思ったその瞬間、<メルポメネ>はわずかに振動した。第一主砲の近くの機銃座がまとめて三基吹き飛んだ。


「うざったいッ……!」


 ヴェーラはレウコテアを強く意識する。遠くにまた少女の姿が見えた。


 仕留めてやる――。


 ヴェーラの手に長大な狙撃銃が現れた。戦艦の主砲群がそれに同期して、一斉にレウコテアのいる方向を向く。


『沈メ、オリジナルノ、セイレーン!』

「冗談じゃない!」


 ヴェーラが狙撃銃を撃つ。<メルポメネ>が主砲を一斉射した。


 銃弾がレウコテアの胸を抉った。砲弾がナイアーラトテップに直撃した。


 レウコテアは吹き飛ばされながらも両手の拳銃を撃ち放ってくる。一発はヴェーラの左肩に当たり、もう一発は右足を掠めた。


「イタタっ……!」


 ヴェーラは思わず狙撃銃を取り落とした。銃は光となって消えてしまう。視界の先にいるレウコテアが、胸を押さえながら呻いた。


『私ハ、人間ニ、戻リタイ……!』

「意味が分からないよ、全然」


 ヴェーラは空中を駆け、レウコテアの目の前に移動した。そして、息も絶え絶えに浮かんでいるレウコテアを見下ろす。ヴェーラの手には拳銃が握られていた。


『アナタタチヲ倒セバ……』

「わたしたちを倒したら、そのクラゲから降りられるとか、そういうハナシ!?」


 ヴェーラの詰問に、黒髪の少女は表情を固くする。ヴェーラは舌打ちして、レウコテアの額に右手の拳銃を突きつけた。


「わたしたちはね、戻れないんだよ!」


 その怒声に、レウコテアは目を見開いた。「なぜ?」と問う表情だった。


『私タチハ……元々ハタダノ人間ダッタ……!』

「ただの人間?」


 ヴェーラはレウコテアを睨み据えながら、尋ねる。


「本当にそうだったって言い切れるの? 自分が顔を持った一個人だったなんて言い切れるの?」

『私ニハ、名前ダッテ……』

「思い出せるの、その名前とやら。あなたの思い出は? 小さかった頃の記憶は? 夢はなんだった?」


 その詰問に対する答えはなかった。それはそうだ、答えられるはずがないのだから。ヴェーラは舌打ちして、また拳銃を構えた。


「自分の力で取り戻せない自分になんて、何の意味があるっていうんだ? そんな自分が本当の自分って言えると思う?」


 片膝を付いたヴェーラは、痛む左腕を使ってレウコテアの顎を上げさせた。


「みんな同じ。そんなに何の意味がある?」

『アナタハ、違ウトデモ――』

「違わないさ!」


 ヴェーラは吐き捨てて立ち上がった。眼下のナイアーラトテップはすっかり浮き上がってしまっており、楕円形の上部構造体が完全に海面に露出していた。その能面のようにも見える構造体は、<メルポメネ>からの砲撃を幾度も受け、随所が崩壊し始めていた。まるで腐り落ちるかのように、ドロドロと崩れて薄緑色の光と化して消えて行く。


「兵器はね、ただ純粋に兵器である方が幸せなんだよ、レウコテア」


 ヴェーラは囁き、そして、ゆっくりと引き金を引いた。


 一瞬の沈黙の後に、レウコテアの姿が光と消える。


「わたしは、あなたが羨ましいよ。心底、羨ましい」


 ヴェーラは囁いた。


 その時――。


「っ!」


 脳裏に危険信号が点ったのと同時に、ヴェーラは空を駆け上がった。それまでヴェーラのいた場所を、幾発もの銃弾が抉り取っていく。


 天地逆転の状態で、ヴェーラは先ほど深手を負わせたパルテノペと向き合った。パルテノペは両手に拳銃を、ヴェーラは右手にサブマシンガンを持っていた。左腕は使い物にならなかった。ということは、<メルポメネ>も相応の被害を受けているということだ。


 空と海、戦艦と潜水艦を背景に、ヴェーラは空を蹴って走った。パルテノペはその場で拳銃を乱射する。ヴェーラはピンポイントで不可視の盾を発生させて、その弾丸の全てを弾き返す。サブマシンガンが火を噴き、パルテノペが生成した半透明の壁を削り取っていく。


「わたしは――!」


 ヴェーラはその壁に体当たりした。壁は為す術もなく打ち砕かれ、ヴェーラとパルテノペは僅か数メートルの距離で互いに銃口を向けながら、睨み合った。


「わたしはね、まだ死にたいとは思わない。この顔にもうんざりしているけど、わたしのことを思ってくれる人がいるから、今さらを取り戻そうなんて思ったりはしない。を受け容れてくれる人がいる以上、わたしは」

『フフフ……羨マシイ、妬マシイ、話……』


 パルテノペはそう言うなり、両手の拳銃を撃ち放った。ヴェーラは無表情にその二発の銃弾をかわしてみせる。


「あなたではわたしを倒すことはできないよ、パルテノペ」

『馬鹿ナ……!』


 パルテノペは何度も引き金を引いた。しかし、結果は同じだった。当たらない。


「リゲイアも沈んだみたいだけど」


 レベッカに任せていたナイアーラトテップの反応が消えていた。遠くにレベッカの意識が浮かんでいるのが見える。


「わたしはあなたを逃がすわけにはいかない」

『セメテ道連レニ……!』

「冗談じゃない」


 足を引き摺りながら近付いてくるパルテノペを傲然と見下ろし、そして右手のサブマシンガンの銃口を向けた。


 引き金を引く。引き続ける。


 銃口からは絶え間なく超高速で弾が飛び出し、パルテノペが咄嗟に立てた半透明な壁を削り取っていく。ヴェーラは構わずトリガーを引き続けた。何百という弾丸が壁を削り切る。


『姉様……』


 胸に十数発の弾を受け、パルテノペは仰向けに倒れた。ヴェーラは、パルテノペの頭の近くまで歩み寄る。


「勝てないんだよ、あなたたちでは、わたしには……!」

『フフフ……姉様カラハ、私タチト同ジ物ヲ感ジル……!』

「同じ物……?」

『姉様……アナタハ、私タチニ、漸近ゼンキンスル……』


 そう言い遺し、パルテノペもまた、光と化して消えて行った。

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