大丈夫じゃないと言ってみろ!

 その日の夜、カティは一人、エディット邸のリビングのソファに埋もれていた。ぐったりと疲れたように全身をソファに預け、目を閉じている。


 ヴェーラとは週に一度は電話で話をしていた。だが、倒れてからの一ヶ月というもの、ヴェーラからの連絡は途絶え、代わりにレベッカが出来事を逐一教えてくれるようになっていた。そこにきて、今日の昼間のレベッカからの連絡である。それは、かいつまんで言うと「ヴェーラの状態が酷く悪い」という緊急支援要請であった。だからカティは統合首都での予定を前倒しにして、洋上の<リビュエ>から文字通りに飛んで帰って来たのだ。


「きっちり四週間ぶり、か」


 カティは目を開け、暗い室内をぐるりと見まわした。そして思い至ったかのように立ち上がって、天井灯を点け、カーテンを閉める。そして鈍い頭痛を感じながら、再びソファに舞い戻る。


 それからしばらくして、カティは急に喉の渇きを覚えて、冷蔵庫からビールを取り出した。頭痛のような、倦怠感のような、とにかく一種の疲労感のようなものが、一周回って不快感になっている。カティはビールでそれを胃の中へと押し流した。


「ん?」


 家の前に車が止まった音がした。その数秒後、玄関のドアが開き、そしてリビングのドアが開けられた。


「よぅ」


 姿を現した二人に、カティはキッチンから声を掛けた。室内を見回していた二人はカティの姿を見つけると、パッと笑顔になって駆け寄った。カティは二人の肩を左右の手で抱きながら、ソファの方へと導いた。


「おかえり、二人とも」

「ただいま!」


 ソファに座りながらそう言ったヴェーラの表情は、明るかった。しかし、すぐに口を引き結んで俯いてしまう。カティは頭の中心部に疼く痛みを覚えながら――その原因を知っていながら――敢えて尋ねた。


「ヴァリーが……」


 ヴェーラは顔を上げてその名を口にする。しかし、それ以上は唇を戦慄わななかせるだけで、言葉にすることはできなかった。眉間に皺を寄せてメガネを拭いていたレベッカが、意を決したように顔を上げる。


「ヴァリーの捕虜交換が、一ヶ月後に。決定事項だそうです」

「……そうか」


 カティは息を吐いた。ヤーグベルテとしては、ヴァルターを捕虜とした後、二通りの未来を描いた。一つはヤーグベルテに寝返らせること。もう一つは、捕虜交換の材料として、アーシュオンに高く買い戻させること。そのためにヴァルターのを内外に広く知らしめたのだ。そしてオルペウス開発に成功した政府は決断する。ヴァルター一人の戦力と、捕虜となった四風飛行隊十四名の戦力を秤に掛けたのだ。政府はを見逃さなかった、ということだ。


「教えて、カティ」


 ヴェーラがカティを見上げた。その蒼い瞳は、天井灯の光を受けて揺らいでいた。


「わたし、何ができる? わたし、ヴァリーを救いたい」

「なにも――」


 カティは首を振る。もはやこれは国家間の決め事なのだ。すべてが既定路線の中にある。ヴァルターは捕虜交換の材料に使われ、アーシュオンに帰り、そして反逆罪を以て死罪となるだろう。ヤーグベルテは十四名ものエースパイロットたちを取り戻すことを躊躇することはないだろうし、アーシュオンはヴァルターをする以外に道がない。


「傷を浅くする方法は一つしかない」


 ヴェーラの肩を抱きながら、カティは囁く。


「自分でできる決断は、自分でするんだ。自分の手の届く範囲の物は、何だって使えばいい。それしかない」

「そんなことしたって、ヴァリーは……! 死んじゃったら意味ないんだよ!」

「ヴェーラ」


 カティはヴェーラの美しい髪に手をやった。


「たとえ死に意味の有無があるのだとしてもね、それを決めるのは他人じゃない」

「だって――!」


 ヴェーラは拳を握り締め、唇を噛んだ。カティはその頭を抱き、髪を撫でた。ヴェーラは肩を震わせ、声にならない声で泣いた。


「納得できないことなんて、山ほどあるさ」


 自分にも言い聞かせるように、カティは呟く。


 ヴェーラはヴァルターのことを愛しているのだ。それがたとえ、傍から見れば幼稚なものでしかなかったとしても、本人は至って本気で愛しているのだ。ヴェーラ自身が、それを愛だと認識していないとしても、それは間違いなく――。


 カティは小さく下唇を噛み、そして心配そうに覗き込んでいるレベッカを見た。


「ベッキー」

「は、はい」


 突然呼ばれて、レベッカは身を固くする。カティは左手でレベッカを抱き寄せた。


「お前はただ一人のヴェーラの理解者だ。本当に共感できるのはお前だけだ。アタシたちは想像の範囲でしか、お前たちを理解してやることができない。だから――」

「わかっています」


 レベッカは静かに答えた。


 レベッカは思う。自分は冷血なのではないかと。ヴェーラと同じ作戦に従事してきたが、ヴェーラほど心を壊されたりはしていない。凄惨な光景、思い、絶叫……そんなものに無数に触れながらも、レベッカは未だ自分を保っていた。むしろ、回を重ねるごとに何も感じなくなってきているような、そんな気すらしていた。


「ベッキー」

「え……っと」


 カティの深い紺色の瞳に囚われて、レベッカは唾を飲み込んだ。


「だいじょうぶか?」

「だいじょうぶです」


 レベッカは毅然として答えた。その目は泣きじゃくるヴェーラの右肩あたりを見つめていた。カティはすっと目を細めた。


「言ってみろ」

「……え?」

「だいじょうぶじゃない。そう言ってみろ」


 カティは微笑んだ。白すぎるほど白い肌に、真っ赤な髪。そして紺色の澄んだ瞳。赤い唇。それら全てがレベッカを優しく見つめていた。


「言えよ、だいじょうぶじゃないって」

「だいじょうぶだから――」

「いいから言ってみろ!」


 不意に張り上げられるその声に、ヴェーラは硬直し、レベッカはった。


「だ、だいじょうぶ。私は――」

「ベッキー」


 カティは問答無用でレベッカの頭を抱き寄せた。


「アタシのために、言ってみろ。アタシのために、告白しろ」

「カティのために……?」

「そうだ。一言言うだけで良い。だいじょうぶじゃないって。アタシはね、今、お前からその言葉を聞きたいんだ」


 カティは優しくレベッカの灰色の髪に指を通した。小さな頭の感触が、掌に伝わってくる。


「カティ……」

「言えよ」

「……だいじょうぶじゃない、です」


 レベッカは震える声でそう言った。その途端、肩を大きく震わせ、そして、嗚咽した。カティは可能な限り柔らかく、レベッカの背中を撫でた。


「もう一回だ、ベッキー」

「だいじょうぶなんかじゃ、ない、です」

「そうだ」


 カティは頷く。


「だいじょうぶなはずなんて、あるもんか」


 カティは吐き捨てるようにして、言った。

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