一ヶ月後の運命

 それから約一ヶ月が経過した。ヴェーラは度々戦線離脱をしなければならないほどの心労を重ねており、医師から精神安定剤の類を大量に処方されていた。気分が落ち着いている日の方が少ないくらいで、普段はほとんど部屋に引きこもっているような状態が続いていた。実験や実戦の際には文句も言わずに参加するのだが、途中で強制離脱させられるようなことが非常に多くなった。


 その日は、予定されていたオルペウス改良試験が行われる予定になっていたが、ヴェーラの調子があまりにもよくないということで延期されることが決定した。


「じゃぁ、俺はお役御免だな」


 ヴァルターは午前十時十五分を指している時計を見ながら、ブルクハルトに向かってそう言った。ブルクハルトは制御室からヴァルターを見下ろして、手だけで「ちょっと待て」と合図をしてくる。どうやら室内で電話でもしているようだ。


「なんだ?」


 そういえばエディットの姿を今朝から見ていない。最近、ヴァルターを迎えに来るのは六課のレーマン大尉という偉丈夫であるから、それ自体は別に不自然でもないのだが。


 その時、シミュレーションルームのドアが開いて、ヴェーラが息を切らせて飛び込んで来た。レベッカがその後ろを走って追いかけてくる。


「どうしたんだ、そんなに慌てて。それに調子が良くないんじゃなかったか?」

「だいじょうぶかと言われると、そりゃ難しいよ」


 ヴェーラは長い髪を苛々と弄びながら、つかつかとヴァルターの前まで歩いてきた。その視線は落ち着きなく彷徨っている。


「薬をたっぷり飲んでやっとこれだもん。実験には参加できる状態じゃないってドクターストップがかかっちゃった。でも、ヴァリーに会いたくて、無理矢理来たの」

「そうなのか、ベッキー」

「ええ。会わせなかったら薬飲まないって言い張って」

「えへへ」


 ヴェーラは後ろで手を組んで笑った。その笑顔には以前のような輝きはない。病的に落ちくぼんだ目に、痩せた頬、筋の浮き出た首……ヴェーラがどれほど追い詰められているのか、ヴァルターにでさえ察するのは難しくなかった。


「それで、ヴェーラ。俺になんの用があって?」

「会いたかっただけだよ」


 ヴェーラは近くの戦闘機用の筐体に背中を預けて立った。ヴァルターとの距離はほんの二メートルほどである。ヴェーラは髪の毛の先を震える手先でいじりながら、虚ろな目でヴァルターを見ていた。レベッカはそんなヴェーラを痛々しそうに見つめて立ち尽くしている


「ヴェーラ、お前が自分を責める必要はないと思う。敵を倒し、味方を助ける。そのこと自体、別に罪なことではないだろう?」

「慰めてくれてる?」

「見てられないからな」


 ヴァルターが言うと、ヴェーラは荒んだ微笑を浮かべる。


「でも、見えちゃう。聞こえちゃう。になる瞬間を強制的に見せつけられる。わたしたちは目を逸らす事さえ許されない。今はベッキーが大半やってくれてるから、わたしは随分楽させてもらっちゃってるけれどね」

「私はいいのよ、ヴェーラ。私はもう割り切ってる」

「そういう問題じゃないと思うよ、ベッキー」


 ヴェーラは息を吐く。その憂いの表情に、ヴァルターは思わずシルビアの姿を重ねてしまう。どこか擦れたその雰囲気は、確かにシルビアの持つ退廃的な雰囲気によく似ていた。


「わたしたちは、どこまで行っちゃうんだろうって思うんだ」

「どこまで……?」


 レベッカが問い返す。ヴェーラは肩を竦める。


「そして、どこまで、どんなふうにまで使われちゃうんだろうって。そう考えると、もうわたしは本当に……」

「ヴェーラ……」


 すっかり雰囲気の変わってしまったヴェーラに、レベッカは戸惑いを隠せない。そして、ヴェーラがここまで喋ったのは、実に一ヶ月ぶりだった。


「ねぇ、ベッキー。わたしたちはね、道具なんだよ。ただの、道具。国にとって都合の良い、道具。そういうふうに創られた、ただの道具」


 何もかも曖昧な昔の記憶。確証の持てない情報。蜃気楼を追いかけているのじゃないかと思うような、過去の思い出。気が付けば、自分はそんなもので構成されていた――ヴェーラは首を振る。


「だからね、ベッキー。たとえわたしが変わってしまったとしてもね、道具としてのわたしの役割は変わらないし、変えられない」


 たとえ自分の人格が粉々になろうとも、国家は気にしたりはしないだろう――ヴェーラはそう続ける。ヴェーラたちが何を思おうが、何を感じようが、国家が求めるのは、セイレネスの発動アトラクトであって、それ以上でもそれ以下でもない。それに、そのために歌姫セイレーンのだ。


「うふふふ、そんな未来が辛くて、なんか辛くて。でも、ただそれだけだから、安心していいよ、ベッキー。わたしは、だいじょうぶだから」


 ちっとも大丈夫じゃないじゃない!


 レベッカは叫びたかった。だが、理性のような何かがそれを阻害する。


「ベッキー、次の作戦は、私が一人でやる」

「なに馬鹿な事言ってるの、ヴェーラ! 今のあなたに一人でできるわけ――」

「やるんだ!」


 ヴェーラは語気鋭く言い放った。


「わたしはあのシステムを超えなきゃならない。わたしはそう認識した」


 そしてヴァルターの方を見て、ニコリと奈落の笑みを浮かべた。ヴァルターは心の奥まで見透かそうとするようなその蒼い瞳を見、そしてレベッカの方を見た。


「その考えは案外正しいかも知れないな。俺の立場からは、遠慮して欲しいところだが。だが、ヴェーラ」


 ヴァルターはヴェーラに視線を戻す。ヴェーラはその無感情な目でヴァルターを見据え続けていたようだ。


「逃げたって良いんじゃないか、ヴェーラ。お前にはいつだってベッキーがいる。もっと頼ったって良いんじゃないか。ルフェーブル大佐だってお前の味方だろう? 信じているんだろう?」

「ベッキーにばかりあんなことはさせられない」


 ヴェーラは苛立ちを隠そうともせずにそう応じる。


「そんな事したら、私の中の絶望はますます深くなるよ」

「今はお前の回復が最優先じゃないのか」

「回復? 回復したらまた同じ目に遭わされるのに、回復なんてできると思う?」


 ヴェーラの揶揄するような声に、ヴァルターは眉根を寄せる。


「それでもだ、ヴェーラ」

「殴られるために立ち上がるとか、とんだ被虐思考だよね」


 ヴェーラは「あははは」と空虚に笑う。


「どんなにそれっぽく取り繕ったとしても、わたしたちの内側は壊れていくんだ。壊されていくんだ。誰にも止められない。誰にも」

「たとえそうであったとしても、今はお前は休むべき時だ。……と、言いたいところだが」


 ヴァルターは少し思案して言葉を続ける。


「ショック療法なんてものも案外有効かもしれないな」

「ヴァリーさん!」


 思わずレベッカが悲鳴のような声を上げる。


「まぁ、だとしても、それは今々いまいまの話じゃない」


 ヴァルターが腕を組みかけたその時、ドアが開いた。現れたのはエディットの腹心であるハーディ少佐だ。


「参謀本部長から文書が出た」


 ハーディは歩きながらそう言った。ヴァルターたちの顔に緊張が走る。


「ヴァルター・フォイエルバッハ少佐は、捕虜交換の対象となった。フォイエルバッハ少佐と交換に、我々ヤーグベルテは四風飛行隊の捕虜十四名を取り戻す」

「十四名!? そりゃまた高い買い物だ!」


 ヴァルターは思わず大きな声を上げた。ハーディはメガネの位置を軽く直した。


「呑気なことを言ってもいられない。捕虜交換は一ヶ月後だ。時間はあまりない」

「そんな、ハーディ。一ヶ月とか……」


 ヴェーラが虚ろな目でハーディを見た。ハーディは機械的に頷く。


「アーシュオンはフォイエルバッハ少佐を生かしておくつもりはないでしょう」

「そんな!」


 ヴェーラは思わずハーディの方へ足を踏み出した。レベッカがヴェーラの肩を掴んで、それ以上の接近を止める。そして、前からぎゅっと抱きしめた。


「ヴァリーが死刑になるっていうの……!?」

「まぁ、そうなるだろうな」


 ヴァルターは努めて明るく言い放つ。


「オルペウス開発の片棒を担いだのは紛れもない事実だし。擁護派の連中だって、この事実の前には何もできやしないだろうさ。アーシュオンには、俺の居場所はないだろうな」

「そんな……!」


 ヴェーラはレベッカの背中に爪を立てる。レベッカはそれでもヴェーラを離さなかった。


「一緒にいようよ。そんな国になら帰らなくてもいいじゃない。ね、ハーディ」

「そういうわけにはいきません。これは国家間での合意事項ですから」

「でもハーディ! 殺されちゃうんだよ、ヴァリーは! 帰ったら、死刑台に送られるんでしょ!? そうとわかってて帰すの!?」


 ヴェーラの絶叫のような訴えは、しかし、ハーディの表情を変えさせることもできない。


「ね、ヴァリーを四風飛行隊に入れちゃうとかしたらどうなの? すごい強いじゃない。戦力になるよ!? 実験だって――」

「ヴェーラ、聞きなさい」


 ハーディは鋭い視線でヴェーラを撃ち抜いた。


「言ったでしょう。これは国家間の決め事なのです。今さら覆ることなんて――」

「わたしたちの、ヴァリーの、気持ちとか立場とか!」

「些末な事柄です。個人の都合で戦争は出来ません」

「くそくらえだ!」


 ヴェーラはレベッカを振り払い、ハーディに駆け寄り、その襟首を掴んだ。ハーディは冷然とした瞳でヴェーラを見つめる。ヴェーラはその燃える瞳でハーディを焼き殺さんとするがごとくに睨んだ。


「わたし、死ぬよ。死んだって良いんだよ。わたしの命。そんなものでヴァリーが救われるなら、首だって吊る。舌だって嚙み切る」

「バカを言うな!」


 誰より先に怒鳴ったのはヴァルターだった。ハーディは冷えた鉄のような態度を変えず、レベッカはメガネを外して袖口で涙を拭いていた。ヴェーラはハーディの襟を掴んだまま、驚いて固まっている。


「俺だって死にたいわけじゃない。でもな、誰かの命のおかげで生き延びるなんてことを考えると、吐き気がする。本来なら、俺はお前に殺されていてもおかしくなかった。それがどうしたわけか生き延びて、どうしたわけか、今こうしている。この時点で奇跡みたいなもんだ」

「奇跡……?」

「エルザの仇。俺はそれを恨まないことを決めた。その瞬間に、俺はもう救われた」

「い、意味がわからないよ、ヴァリー」


 戸惑うヴェーラに、ヴァルターは柔らかな笑みを見せる。


「俺からなけなしのプライドまで奪わないで欲しいんだ、ヴェーラ」

「わかんないよ! そんなの、わかんない!」


 ヴェーラはハーディから手を離し、ヴァルターに向き直った。


「どうして! 死ぬのは、命を失うのは、何よりも……!」

「ヴェーラ」


 ヴァルターはヴェーラに一歩近付いた。二人の間の距離は二メートルを切る。その時、ハーディがおもむろに拳銃を抜いた。


「止まりなさい、フォイエルバッハ少佐。現時刻を以て、それ以上の接近を禁じます」

「……俺がトチ狂ってヴェーラの首でも絞めると?」

「そういうことです」


 ハーディは銃口をヴァルターに向けて、頷いた。


「ハーディ! そんなことしたら、わたしは!」

「どうしますか。私に噛み付きでもしますか」


 ハーディは左手で眼鏡をはずし、胸ポケットに入れた。レンズの奥にあった冷たい眼光が、ダイレクトにヴェーラを射る。ヴェーラは唇を噛んだ。


「撃つなら」


 ヴェーラはハーディを睨む。そして、ヴァルターの前に移動して両手を広げた。


「わたしごと撃ちなさい、ハーディ」

「バカを言うなよ、ヴェーラ」


 ヴァルターはそのヴェーラを押しのけた。ハーディの右眉がピクッと動く。


「どうやら」


 ハーディは拳銃をホルスターに収めた。


「それがあなたたちの覚悟の距離感というわけですね。良いでしょう」


 呆れたようにそう言って、ハーディは背中を向けた。


「残り一ヶ月。正味三週間といったところでしょう。その間、好きなだけ相互理解とやらに励むと良いでしょう。それでヴェーラ、あなたが成長できるのだとすれば、安い投資です」


 ハーディはそう言い残すと、足音の一つも立てずに部屋から出て行った。


「怖い人だ」


 ハーディが部屋から出て行くなり、ヴァルターはそう言って溜息を吐いた。ヴェーラも小さく頷いた。その二人を見て、レベッカが拳を震わせる。


「もう! なにやってんのよ! 二人とも自分の命をなんだと思ってるの!」


 レベッカはメガネを左手に持ち、右手の裾で必死に目の周りを拭っていた。


「ヴェーラは私の大切な人なんだよ!? それなのに、そんなに傷付いて! 私の心がいたんでないとでも思った!? 私だって傷だらけだよ。でも、ヴェーラのことをひたすら考えて、それでなんとか自分を守ってる。やっとで何とか立ってるようなありさまなのよ!」


 レベッカの血を吐くような言葉が、ヴェーラに突き刺さる。


「ヴァリーさんもヴァリーさんです。ヴェーラの想いを知っていて、なんでそんなこと!」


 その想いには応えられないからだよ、ベッキー――。


 レベッカの心の中に、ヴァルターの声がハッキリと届いた。


 ヴァルター本人は目を伏せて沈黙していたが、今のは間違いなくヴァルターの心の声だとレベッカは確信した。


「すまんな、ヴェーラ」


 ヴァルターは少し腰をかがめ、ヴェーラと視線の高さを合わせた。今にもキスできそうなほどの近さ。だが、そこには無限の距離があった。


 ヴェーラは黙ってヴァルターの胸に縋りついた。ヴァルターは驚いた風もなく、その背中を抱きしめる。二人は無表情なまま、しばらくそのまま抱き合っていた。


 そしてそれが、二人に出来る唯一の想いの表現方法だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます