コーヒーを飲みながら

 その時、エディットが帰宅した。


「何を大騒ぎしているの。外まで聞こえたわよ」


 ブラウスの襟を緩めながら、エディットはソファに腰を下ろした。立ったままの二人を見上げ、そしてヴェーラの左の頬が真っ赤になっているのを見て状況を悟る。


「何があったのか、順を追って話してみて。整理しながら話せば、心も落ち着くわ」


 そこでテーブルに置かれたままになっている冷めた紅茶に気が付いて立ち上がる。


「温かい飲み物も必要ね。コーヒーで良い? ヴェーラ、ベッキー」

「……うん」


 ヴェーラは頬を押さえながら頷いた。レベッカは、じっと下を見たまま硬直していた。その様子を見て、エディットはキッチンから声を掛ける。


「ベッキーの沈黙は肯定と捉えるけど、いいわね?」

「……はい」


 レベッカは力なく答えて、ソファに腰を下ろした。それを見て、ヴェーラもレベッカの隣に、寄り添うようにして座った。


「二人とも、聞いてね」


 お湯を沸かしながら、エディットが言った。その声は、二人が今まで聞いた中で最も優しいものだった。


「私の経歴は覚えてるよね? 陸軍から海兵隊、そして参謀部。さて、質問。私はこの期間でそれぞれ何人殺したでしょうか」


 そんな質問に、答えられるはずもない。ヴェーラは唇を噛み、レベッカは膝の上で拳を握り締める。


「私もね、わからないのよ。陸軍時代は多分数十人。海兵時代も同じくらい。参謀になってからは数千いや、数万人ね」


 柔らかい声音で語られる事実は、ヴェーラとレベッカの胸の奥に突き刺さる。


「顔も名前も知らない敵。そして、味方。参謀部になってからは特にね、何人殺して、何人死んだかとか、ただの数値。覚えてもいないわ。表示されている数値が正しいものかどうかすら分からない。そのうち、何人だなんて言い出したものよ。命が減っていくのを大雑把に数えるようになっていたわ」

「でも」


 ヴェーラが口を挟んだ。


「でもね、エディットのおかげで助かる味方だって大勢いるじゃない」

「そうです。って呼ばれるほど信頼されてるじゃないですか」

「ふふ、そうね。でも、参謀ってね、そんな簡単な仕事じゃないのよ?」


 エディットはお湯が沸いたのを確認して、ポットを持ち上げる。そして注ぎながら言った。


「百人を救うために十人を生贄にするなんてことは、よくあること。桁が増えることだって間々あるわ。酷い時には、試作戦車一両を守るために、数十人を犠牲にしたことだってあったわ。次の作戦を有利に進めるつもりなら、一個艦隊を犠牲にすることもある」


 コーヒーがドリップされるのを待ちながら、エディットは「ほぅ」と息を吐く。


「あなたたちは味方を守ることができる。それも少なくない数を、確実にね。でも、私たち参謀は、味方をどうやったら効率的に消耗させられるのかを考える」

「効率的に、消耗……?」

「そうよ、ヴェーラ。私たちの仕事は、味方に対して、これこれこういう理由だから死んでくれって。そういうお願いをすることなのよ」


 エディットの両目が乾き、機械のそれと化す。レベッカは何も言えずに下を向く。


「さて、できた。濃い目よ。我慢して飲んでね」


 エディットはキッチンとリビングを二往復して、それぞれの前にカップを置いた。


「私はね、今まで二十年近い従軍生活の中で、顔も名前も知ってる味方を何人も失ってきた。いやもうざっくばらんに言ってしまえば、私が殺したようなものね」

「エディットは、平気……だったの?」

「そんなわけないじゃない」


 ヴェーラの問いにそっけなく答えて、カップを口に運んだ。エスプレッソのように濃いコーヒーが、頭をより明晰にしていくような感覚があった。


「参謀になってからは特に、ややしばらくの間は自己嫌悪に悩まされた。ちょうど今のヴェーラ、あなたのようにね」


 エディットはカップを持って黒い水面を見つめているヴェーラを見た。ヴェーラはちらりと視線を上げたが、またすぐにコーヒーに視線を戻した。代わりにレベッカが口を開く。


「あの、どうやって克服したんですか」

「克服、ねぇ」


 エディットは天井を見上げる。


「克服したのかと言うと、ちっともしてないわよ。お酒だってそのせいだし。今でも毎日夢に見るわ。作戦指揮失敗の夢なんて、もうバリエーションも含めて見飽きたわよ」

「でも」


 ヴェーラが顔を上げた。


「エディットはどうやってそこまで強くなったの?」

「うーん。困ったな、これは」


 エディットは左手の人差し指で、右手の甲のケロイドを引っ掻きながら思案する。

 

「やりたいことを、やりたいだけやる。悩む。苦しむ。泣き喚く。やれること全部やったらスッキリする。納得……いや、諦めかな。もうどうしようもないんだって、そんな風に思えるようになるわ」

「味方を殺すようなことでも、ですか?」

「そうね、ベッキー。人間の慣れってのは非情なものよ。天秤にかける段になると、驚くほど冷たくなれるのよ」

「でも――」

「まぁ待って、ベッキー」


 エディットはコーヒーカップを置いて、二人の歌姫に視線を送る。二人はそれぞれのコーヒーを静かに見つめていた。


「私の話を続ける前に。あなたたちがさっきまで何で喧嘩していたのか、サマライズしてくれる? 大人の話はそれからでもいいでしょ?」


 エディットは努めて優しい声を出した。そしてゆっくりとカップを持ち上げ、苦いコーヒーを口中に流し入れた。


 二人はぽろぽろと涙をこぼしながら、さっきまでの言い争いの内容をエディットに伝えた。二人とも記憶力は抜群に良かったので、ほとんど一字一句違わずに再現したのだった。


「言いたいことはわかったわ。どっちも正しいと私は思う」

「でもエディット! それじゃヴェーラは……!」

「ベッキーの心配もわかる。私だって、ヴェーラに壊れて欲しいだなんて思ってない。でもね、ヴェーラがそう思ってしまった以上、私たちにはそれを止めることはできないの。だけどね、人の心ってよくできてる。このカップみたいにね」


 エディットは空になったカップを持ち上げた。


「受け止めきれない分はね、こぼれていってしまう」

「そんなことはないと思います」

「どうして?」


 エディットはレベッカを見る。


「ベッキー、あなたは私がそこまでキャパの大きな人だとでも思ってるわけ? 何千何万の命の責任を負い、その哀しさや苦しさを全て背負えるような人間だとでも」

「……いいえ」

「それとも、人の死に責任を感じないような人間だとでも思ってる?」

「……いいえ」


 レベッカは俯いた。その手にしたカップの中身は、もうすでにすっかり冷めていることだろう。


「そういうことなのよ、ベッキー」


 エディットはカップを置いて、「よいしょ」と二人に膝を向けた。


「責任を感じないから、責任を負わないとか。責任を負えないから、責任を感じないとか。そういうことは別にゼロイチじゃなくても良いと思う。感じられる責任を感じ、感じられる苦痛や哀しみに共感する。それで良いと思う。私だってそうやって割り切ってやって、それでなんとかやってきた。それ以上のことはね、それこそ心を壊してしまったって、出来やしないの。だからね、出来ることをしましょう? 少しずつでも、無力感を覚えながらでも、なんでもいい。心を殺さなければ、ちゃんと前に進めてるって信じてみない?」


 エディットのその語り掛けに対して、二人の歌姫は密着して座ったまま、じっと沈黙を守る。


「ヴェーラ、レベッカ。食事にでも出掛けましょ」


 エディットはそう言うなり、問答無用で行きつけのレストランの席を確保したのだった。

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