冷たい身体

 それから一月半程して、ついに恐れていた事態が起きた。十二月の半ばのことである。いつもなら誰かが帰宅したら、「頭を撫でろ」と言わんばかりに起き上がるのだが。今日はエディットが帰ってきて電気を点けても、横になったまま苦し気に呼吸をしているだけだった。


「クレフ……」


 ウサギはいよいよな状態になるまでは、苦しいことを決して表に出さないのだという。どれだけ苦しくともジッと耐える。耐えて耐えて、いよいよ限界が来た時にぱたりと死ぬ。それが草食動物なのだと、あの獣医も、ペットショップの店員――ハーディの従妹――も、ネットでも、そう言っていた。


 ハーディは軍服を脱ぐこともせずに、クレフの小さな身体を抱き上げ、ソファに座った。もはや動くこともままならない。苦し気な、弱々しい呼吸を繰り返すのみだ。開いた眼はハーディを見ているのか。もう何も見えていないのか。


 医者の言葉が蘇る。


 ――生き物を飼うという行為には、その最期の瞬間まで自分自身と向き合い続ける勇気が必要なんですよ。


 勇気の有無を問わず。看取るその瞬間が近付いてくる。いつこの呼吸が止まってしまうのか。エディットは祈る。あの二人が帰ってくるまでは、と。


「見送りが私だけなんて、寂しいものね」


 クレフの目が半分閉じている。微睡まどろみの中にいるかのように、次第に呼吸が落ち着いてくる。静かに。緩やかに。


 撫で続ける以外に、何もできない。病院に行くこともできないだろう。命のタイムリミットはもうすぐそこに迫っている。


 その時、玄関、そしてリビングの扉が開いた。


「クレフは!?」


 ヴェーラは空になったケージを見て、エディットに尋ねた。そしてその膝の上で小さくなっているクレフを発見する。ヴェーラに続いてレベッカもリビングに入ってきて、コートを脱ぐ間も惜しんで、二人でエディットの前に駆け寄った。


「よかった、まだ……」


 ヴェーラは深く息を吐いた。二人は何らかの直感によって、クレフの命が危機的状況にあることを察知したのだ。


「わたし、後悔してる」


 ヴェーラはクレフの柔らかな毛並みを撫でながら呟いた。


「わたしがクレフに苦しみを強要したんだ。チャンスはたくさんあった。決めるチャンスはいくつでもあった」

「そんなこと――」


 レベッカが涙を拭いながら言いかける。が、ヴェーラは首を振った。


「ううん。ベッキーはさ、時々それを決めようとしていたよね。でも、私が絶対にノーだって。私はノーと言い張った。ベッキーには決める勇気があったんだ。でも、わたしには、なかった」


 だから、一緒にいたいという理由で。その方が良いに決まってるっていう思い込みで。ノーと言い通した。


 ヴェーラはエディットからクレフを受け取り、頬をそっとその小さな背中に押し当てた。少しひんやりとしていて、もう長くないんだなと……嫌でもわかる。


「そんなことないんだよ、ヴェーラ。私は卑怯なだけだよ。あなたがノーってから、絶対に安楽死なんて選ばないって知ってたから。だから、私はその道を示したりした。卑怯なだけなの、私は」


 レベッカは震える声でそう告白した。ヴェーラは無表情にクレフを撫で続ける。エディットの機械の両目は完全に乾いていた。


 クレフは目を閉じ――。


 呼吸が止まった。


 それは実に突然で、あまりにもあっけなかった。

 

 その瞬間、ヴェーラは震え泣き始め、レベッカは落涙しながらその肩を抱いた。エディットはソファに座ったまま、じっと二人と一匹を見つめた。


「勇気も覚悟も、わたしにはどっちも、なかった」


 ヴェーラがとぎれとぎれにそう言った。しかし、エディットは明確にそれを否定する。


「いいえ、ヴェーラ。ノーと言い張れたのはあなたの覚悟の現れよ」

「……そうなの、かな」

「そうよ。あなたは立派にこの子の世話をしたわ。幸せだったと思う。だから今も、あなたのことを待っていたんだと思う」

「……だったら、いいな」


 ヴェーラはクレフの亡骸を膝に抱き、消えて行く体温を少しでも留め置こうと、その掌で温め続ける。


「明日、サヨナラしようね、クレフ」


 ヴェーラは上ずった声で、そう告げた。






 

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