縮まらない距離
電話を切ったヴェーラは、キッチンの隅で大きく息を吐いた。灯りのついていないキッチンは、薄暗くて、仄寒い。カティとの話中に飲んでいた紅茶も、すっかり冷めてしまっていた。
シンクの向こうはリビングになっていて、ソファとテレビがよく見える。そのソファにはエディットが座っていて、目まぐるしく色彩を変えるテレビ番組を眺めているようだった。だが、エディットはきっとテレビの内容になんて関心はないに違いないと、ヴェーラは見て取っていた。なぜなら、斜め後ろから少しだけ見えるエディットの表情は、娯楽番組を見ている人の顔ではなかったからだ。
ヴェーラは携帯端末をワークトップの上に置いて、手にした紅茶を飲み干した。そして手際よく洗って水気を拭き取り、ソーサーと共に然るべき場所へと片付けた。食洗機ももちろんあるのだが、ここのところはほとんど働いていない。ヴェーラが考え事をする際にしばしば食器を洗っていたからだ。その頻度に比例するように、ヴェーラの手肌は少し荒れ始めていた。あかぎれすらしている箇所もある。
顔を顰めながら手を拭いたヴェーラは、意を決したようにエディットに声を掛けた。
「カティがよろしくって」
エディットは数秒置いてから、キッチンの中にいるヴェーラの方を振り返った。表情の読み取れない、硬質な顔だった。影になっている火傷の痕が、エディットの感情を覆い隠してしまう。
「……元気、だった?」
「メールで話はしてるって聞いたけど?」
「そうじゃなく――」
憂鬱そうに呟いて、エディットはテレビの方へ向き直った。ヴェーラは黙ってリビングのドアを音を立てないようにして開けた。そしてドアの方を向いたまま、付け加えた。
「声もいつもどおりだったよ」
「そう――」
テーブルの上にあるブランデーの注がれたグラスを持ち上げながら、言った。
「よかったわ」
その疲れたような声を聞いて、ヴェーラは胸に痛みを覚える。ここ一年近く、エディットは家に帰るとずっとこんな調子だった。その原因の大なるところが自分にあることくらい、ヴェーラにはわかっている。だが、ぎくしゃくした二人の関係は、早々簡単には修復できそうにないということも、当人たちは十分に理解していた。
「ベッキー見てくる」
そう言ったヴェーラはエディットの反応を待たず、ドアを閉めて、階段を上がった。
レベッカは今日も訓練中に意識を失って、今も自室のベッドで横になっている。今回も医学的には何の異常もないということだったし、多分明日の朝にはいつも通りにケロっとして目を覚ます事だろう。今日の所は、うなされていないかの確認だけして、わたしももう寝てしまおう――ヴェーラはもっともらしく頷きながら、そう計画した。
「あれれ?」
レベッカの部屋のドアの隙間から、ほんのりと光が漏れ出ていることに気が付いた。さっき出てくる時には電気は消してきたはずだ。
「ベッキー?」
ヴェーラは軽くノックをしてからそっとドアを押し開けた。部屋の明かりがふわりとヴェーラの顔を照らし上げる。
レベッカはベッドに横になったまま、何かの本を読んでいた。珍しく眼鏡は掛けていない。レベッカはヴェーラの方に顔を向け、少し表情を緩めた。
「ベッキー、起きてて平気?」
「なんか目が覚めちゃった。私、また真昼間から気を失っていたんでしょ? 寝すぎちゃったみたいで」
「そっか」
ヴェーラは部屋に入るとドアを閉め、レベッカが横になっているベッドの端に腰を下ろした。レベッカは本を開いたまま、よいしょと身体を起こす。
「今ね、カティと電話してたんだよ。心配してた」
「余計な心配かけたくないのに」
レベッカは口を尖らせる。
「今日だって私が寝てる間に出撃あったんでしょう? ネットニュースで見たわ」
「うん。大変みたいだよ」
「そうよね……」
レベッカは布団の上で両手を握り締める。ヴェーラはその握りこぶしの上に、少し荒れた掌を重ねた。
「わたしたちが戦えるようになったら助かるんだけどって」
ヴェーラの言葉に、レベッカは黙って頷いた。ヴェーラはレベッカが横に置いた本を手に取った。それは墜落した先の砂漠で、飛行士が小さな少年と出会って語り合う――そんな物語だったはずだ。確か、カティの部屋にも置いてあった。
ヴェーラはしばらくその本をぱらぱらとめくっていたが、やがてぽつりと言った。
「わたし、はやくカティを助けたい」
「私もよ、ヴェーラ」
レベッカは灰色の髪を後ろに流しつつ、頷いた。その時、ヴェーラが開いていたページには、ガラスのドームに覆われた一輪の薔薇の花が描かれていた。
「ねぇ、ヴェーラ」
レベッカはその本からヴェーラの顔に視線を移動させた。ヴェーラは目を上げて、何度か瞬きをする。
「マリア……って知ってる?」
「マリア? 聖母マリア?」
「ううん」
レベッカは首を振った。
「黒い髪の、私たちと同じくらいの年齢の子」
「知らないなぁ」
ヴェーラは念のため、記憶の中を検索する。だが、そもそも二人には同年代の知り合いが極端に少ない。どこをどう探しても「マリア」なる人物は見当たらなかった。
ベッキーはどうしたんだろう?
レベッカの新緑の瞳が曇っているのを見て、ヴェーラは俄かに不安を覚えた。気を失った後でおかしなことを口にするのは初めてではなかったが、そういう時のレベッカが放つ得体の知れない雰囲気は、ヴェーラを動揺させるには十分だった。
「マリアって子、私が気を失う時にいつも出てくる」
「そうだったの?」
「うん。なんか夢でも見てたみたいにぼんやりしているんだけど、でも今日はハッキリ覚えてた。マリアだって名乗ったわ」
そして、自分たちの事を「お姉さま」と呼んでいた……気がする。そう、シミュレータの中で気絶するたびに見る少女の姿は、回を重ねるごとに記憶に鮮明に残るようになってきていた。もしレベッカに絵心があったとすれば、その細部に至るまで描けるのではないかというくらい、その容姿は記憶に焼き付いていた。
「私、その子が、マリアが怖い」
「こわい?」
「その子が言うことを理解するのが怖い。とても怖い」
レベッカはヴェーラの目を直視した。ヴェーラは小さく声を上げて慌てて目を逸らす。本能的に、危険な状況であることを察知したからである。だが、それはわずかに間に合わなかった。
「ベッキー!」
ヴェーラの頭に血が上り、思わずレベッカの両肩を力任せに掴んでいた。レベッカは震える声で謝罪の言葉を口にしたが、ヴェーラの怒りは収まらなかった。
「二度と! 二度とわたしの中に入ってこないで! わたしの中を見るのは構わない。でも、入り込まないで!」
ヴェーラは初めてレベッカを本気で睨み付けた。レベッカは目を見開いて、喉を鳴らした。レベッカはただ目を見つめなくてはいけない気がして、そうしただけだった。だが、その瞬間に、レベッカも何が起きたのかを悟った。レベッカが持っていたマリアに関連する記憶を、ヴェーラに転送してしまったのだ。二人が度々発動させてしまう「他人の記憶を覗き見るスキル」の反転版といったところだろうか。
ヴェーラは立ち上がると室内をぐるぐると三回ほど回った。そして顎に手を当てて、鋭い表情でレベッカを見据えた。
「それで……この子がマリア?」
レベッカは曖昧に頷いた。
「その子には、マリアには何度も会った」
「プログラム? 仮想人格モジュールとか?」
「わからない」
レベッカは首を振る。
「でも、実在の人物だとしたら、論理回線を抜けてこなきゃいけない。そんなの、不可能だわ」
「そう、だね」
ヴェーラも同意する。量子コンピュータで統御されている論理回線をハックする技術など、聞いたことがない。
「妄想かもしれない、私の」
その可能性が一番しっくりくる。
だが、そうだとしたらこんなに明確な記憶になるだろうか。そして、自分たちの過去がこうまで曖昧な理由はどうやって説明をつけるべきなのだろうか。
「ねぇ、ヴェーラ」
「うん?」
「私たち、何から生まれてきたの?」
「えっ……!?」
ヴェーラは目を丸くして、レベッカが何を言わんとしているのかを考えた。だが、レベッカのその白い顔からは何の情報も読み取れない。
「私たち、カティに出会うまで、どうやってすごしてた?」
「ベッキー、どうしたの?」
「どうもしてない」
その冷たく硬い口調に、ヴェーラは狼狽した。掌が汗で湿る。額ももしかしたら濡れ始めているかも知れない。
「覚えていない?」
「そんなはずなくて!」
ヴェーラはベッドの上に投げ出されている自分の携帯端末を見つめた。アレが今、カティと繋がれる唯一の手段で――。
「何か覚えているの? それは確か? 本物?」
「だって、そうじゃなかったら――」
「なかったら?」
畳みかけられ、ヴェーラは絶句してしまう。思考が詰まってしまって、発話できない。レベッカは容赦なく質問を続けてくる。
「私たちが出会ったのはいつ?」
「えっと、その」
八歳? いや、六歳? もっと後か?
ヴェーラの心臓が冷たい音を立て始める。
「出会ったのはどこ? 初めて出会った時、私たちはどんな話をした? どんな服を着ていた? 覚えているはずよね、私たちなら」
「えと、わたしは……」
嘘……。
ヴェーラはがらんとした心の中で呟いた。
わたしの記憶は、何一つ明瞭ではない――。
「ねぇ、ヴェーラ」
レベッカはヴェーラを座らせ、その肩を捕まえた。
「私たちは、なんなの?」
空虚な微笑を浮かべるレベッカ。ヴェーラは呆然と、その美貌を眺める。目が合った瞬間、ヴェーラは激しい悪寒を覚える。冷たい手が身体中を撫で回していってでもいるかのような、そんな怖気が緩やかに全身を包む。
「わたしは……」
にんげん、なの?
ヴェーラの蒼い瞳がふわりと輝きを失った。
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