闇の中のマリア

 お姉さま――。


「え?」


 レベッカは何も縋るもののない闇の中で、きょろきょろと周囲を見回した。不思議なことに自分の身体だけははっきり見ることのできる闇の中、だがしかし見えるのはひたすらに暗黒だ。


 お姉さま――。


 少女の声が、直接脳の中に響き渡る。


「お姉さま」


 今度はすぐ後ろから聞こえてきた。レベッカは慌てて振り返り、硬直する。耳に息がかかるのではないかというくらいの至近距離に、自分と同じくらいの年齢に見える黒髪黒瞳の少女が立っていた。風もないのに、少女はその腰まである長い髪を揺蕩たゆたわせている。


「あ、あなたは……」

「マリア」


 問いかけとほぼ同時に回答があった。少女はその深い黒色の瞳を細めた。どうやら微笑んだようだった。


「マリアと、呼ばれています」


 少女は再び名乗った。常識的な語彙では説明し得ない何かを目の当たりにして、レベッカの心臓はきゅっと委縮した。その委縮を検知した意識が、今度は全身にぞろりぞろりと鳥肌を生じさせる。


 悲鳴を上げて逃げ出したい――レベッカの意識はそう叫んでいたが、レベッカの身体の方はなぜか極めて冷静だった。


「私はレベッカ」

「知っています」


 名乗りと同時にマリアと名乗った少女は頷いた。レベッカの中にわずかに残った冷静な部分が、この黒髪の少女を観察する。少女は似ていた。ヴェーラによく似ていた。顔立ちはもしかしたらそれほど似ていないのかも知れなかったが、それでもよく似ていた。まるで姉妹のように。そして何より、その瞳だ。深淵な知性を感じさせるその瞳は、ヴェーラが時折見せる冷めた表情とまるで同じベクトルを持っていた。


 それになにより、にいるのだ。自分たちと無関係な人物であるとは考えにくい。レベッカはだいぶ落ち着いてきた頭で、冷静に情報を整理し始めた。


「マリア……?」

「はい、お姉さま」

「あなたはどうやってここに?」

「侵入してきただけです。現在いまのお姉さまに一目お会いしたくて」

「……どういうこと? 意味がさっぱりわからないわ」


 レベッカはマリアの内側を覗き見ようとした。だが、そこにあるのは、奈落のような、深淵だ。何も見えない。ただ、吸い込まれそうなほどの闇が広がっているだけだ。思わず頭を振ってその闇を意識から追い出したレベッカを、マリアはニコニコしながら見ていた。そのギャップに、レベッカはまた動揺する。


「セイレネスという檻、囚われた魂、創発した意識――オーシュ」

「オーシュ……?」

創造主デーミアールジュは、響応統合構造体と説明してくださいましたけれど、それがつまり何であるかまでは、私も存じません。でも、自分が何であるかを知っている人なんて、ほんの一握り。だからそれで良いと思いませんか?」


 この子はいったい何を言っているんだろう。


 レベッカは心の中で首を傾げる。少女は、マリアはまだニコニコと無垢な笑みをレベッカに向けている。


「釈然としない?」

「え、ええ。わからないことが多すぎて――」

「ねえ、お姉さま――」


 ずい、と、笑顔のままマリアは迫って来た。レベッカは一歩さがったが、マリアはそれ以上に距離を詰めてきた。そして、レベッカの背中に手を回し、強く抱き寄せる。互いの息が耳にかかりあい、そのたびにレベッカの頬が熱くなった。静かな呼吸音がレベッカの鼓膜を犯し、レベッカはたちまち高熱にでも侵されているのではないかというほどの意識の混濁を覚えた。


「お姉さまは、両親の事を記憶してる?」

「えと、孤児だって聞いてるから――」

「だったらその頃の記憶、何かある? どこで育った? ともだちは?」

「えっと……」


 畳みかけられて、レベッカは激しく混乱した。八歳くらいまでは孤児院にいて、そこから先はずっと教育機関に預けられて、それで――。


「具体的に、何か?」


 詰問。


 レベッカは焦る。焦燥に心拍と呼吸数が上がる。


 そんな筈はなくて。今はこの異常な空間と空気と、そしてこのマリアという子の気配に飲まれてるだけ。なんてことない。だいじょうぶ。だって――。


「お姉さま」

「お、覚えてるわよ」


 レベッカは虚勢を張った。だが、マリアはニコニコしたまま、緩やかに首を振った。


「ほんとうは、自分の年齢だってご存じないでしょう?」

「えっ……」


 問い掛けられ、レベッカは答えられないことに気が付いた。誕生日が思い出せない。そもそも私は、何歳……?


 遠く霞んでいく。記憶のようなものが逃げていく。


「何をしたの、マリア、あなたは」

「なにも」


 マリアはさらにレベッカを強く抱きしめ、その耳たぶを甘噛みした。レベッカは未知の感覚に驚き、全身を硬直させる。マリアは今度はレベッカの耳にそっと息を吹きかける。


「私は何もしていません、お姉さま。お姉さまを包んでいるものの内側は、最初からこうなっている。それだけ」


 マリアはようやくレベッカから身体を離し、そしてまた屈託のない笑顔を見せた。だがレベッカには、マリアの言葉の意味が分からない。マリアはクスクスと笑う。


「お姉さまがだって信じているお姉さま。でもその姿は本物だと思う? 皆が思い込んでいる姿を映しているだけじゃなくて? 皆が思うお姉さまの姿に、お姉さま自身がそうなりたいと思っているだけなのではなくて?」

「期待に応えようとするのは、当然じゃない」

「……お姉さま、あなたは何処にいるのですか?」

「えっ?」

「有象無象からの期待や、ご自分で描いている自分自身の理想像を取り払ったら、お姉さまは残りますか? 何が残りますか? 何を遺せますか?」


 マリアはまた顔を近づけ、おでこをくっつけてきた。鼻の頭がギリギリ触れ合うか否かの距離で、マリアは平坦な声で囁いた。


「何一つもオリジナルを持たない、贋作がんさくにも等しい被造物」

「贋作……」

「ただ在ることに意味があるだけの、隙間スキマを埋めるためだけの物」


 マリアの唇がレベッカの唇に触れた。レベッカは抵抗しようとしたが、力が入らない。


「ふふ……お姉さま。オーシュは皆……純粋なのです。痛みさえ知らない身体、精神、瞳、吐息、そして与えられた名前と――」

「マリア、あなたはいったい、何なの? お姉さまっていったい……」

「お姉さまは、お姉さま。私より先に生まれた、歌姫セイレーンのオリジナル。あっ、ヴェーラ姉さまもそうですけどね」


 マリアはふふふっと笑い、「ねぇ」とレベッカからパッと離れた。


「お姉さまは、自分自身を傷つけることができて?」


 自分自身を傷つける――?


 その突拍子もない問いに、レベッカは答えられない。


 マリアの動脈血色の唇が、形よく微笑みを描く。


「ねぇ、お姉さま」


 そしてマリアは何か言おうとした。が、その途中で首を振る。マリアの姿が闇の中に溶け込み始めていた。


「時間切れ。ごきげんよう、お姉さま。また会いましょう」

「待って、マリア!」

「最後に一つだけ」


 マリアはまた微笑み、半透明になった手でレベッカの頬に触れた。その瞬間に、温かな感触がレベッカの全身に行き渡る。


「私は何があってもお姉さまの味方。誰がどんな目的で私を造ったのかなんて、私にはどうでもよくて――」


 マリアの姿が完全に消えた。闇の中、レベッカは独り取り残される。


「私は……なんなの?」


 誰も答えない。闇はその声すら吸収してしまう。


 途方に暮れたレベッカの上に、『はね』と声が降って来た。見回せど闇。誰の姿もない。闇の中できょろきょろしているレベッカに、その若い男の声は続ける。


『喩えるなら光。君たちの存在が、新たな世界を創るだろう』

「だれ……?」

『謂うならば、君たちの創造主デーミアールジュさ』

「まさか――」

『僕が誰であるかなんて、些細な問題さ。君は歌姫セイレーンにして、ディーヴァ。その事実だけがあればいいのさ』


 声は淡々と告げる。


はまだ遠い。君はしっかりとヴェーラの安全装置フェイルセイフとしての役割を全うするといい』

「私たちはいったい、なんなのです」

『光のようなものだと言っただろう? 僕は闇の世界でこう呟いたんだ。、とね。そうしたら君たちが生まれた。そう、新たなる創世ゲネシスは君たちから始まったんだ』


 声は別に気取った様子もなくそう言った。


『さぁ、ヴェーラが痺れを切らしている頃合だ。帰るが良い』

「待って、ジョルジュ・ベルリオーズ!」

『ほぅ?』


 その呼びかけに、声は興味深げに反応した。


「あなたなのでしょう、ジョルジュ・ベルリオーズ。こんなことができるのは、ジークフリートのうちでこんなことができるのは」

『そうかもしれないね。でも、君たちが知る必要もないことだ』


 その声は無表情に平坦なトーンでそう言うと、まるで電灯のスイッチを切るくらいの手軽さで、レベッカの意識を元の世界――狭く暗い筐体の中へと押し戻した。


「私は……いったい、何を見たの……?」


 見慣れた計器類を見上げながら、レベッカは呆然と呟いたのだった。

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