彷徨う二人

 撃墜を確信したその瞬間。レベッカは強い浮揚感を覚えた。まるでどこまでも落ちていくかのような、不安と不快が入り混じった感覚だった。


 背中にいつものシートの感触はなく、自分がいったいぜんたいどんな姿勢をとっているのかすらわからない。何も見えない。何も聞こえない。ただ、落ちていく。


「何してたんだっけ……」


 呟く声も、反響すら許されずに周囲を包むの中に消えて行く。無限に広がる闇の中で、レベッカは思わず最も頼りにしている人物を探した。探しながら、どこまでも落ち続けた。気が遠くなるほどの時間、レベッカは闇の中でひたすら呼びかけた。


「ヴェーラ! ヴェーラ! どこにいるの!」


 返事はない。何にも触れず、誰も見えない。ただ、落ちる――。


 夢……?


 セイレネスが暴走して、それで気を失っているだけなのかしら。


 そう思い込もうとすると、少しだけ不安が薄れた。理由を付けたことで、レベッカは自分が少しだけ冷静になれた気がしていた。


 そう、夢だ。これはセイレネスが見せている夢――。


 ところが夢は一向に醒めない。ただ闇があり、闇はレベッカの全てを見透かしていた。何も語らず、何も見せず、何も聞かせないことで、闇は雄弁な沈黙を見せつけているのだ。


 レベッカは唇を噛んだ。


 痛い……。


 夢、じゃない? 現実、なの? このが……?


 終わらないその闇に屈してしまいそうになった頃、不意にレベッカは右腕を引っ張られた。そのまま抱きすくめられるようにレベッカは引き寄せられ、そしてその時ようやく闇の中に自分以外の姿を見た。


「ヴェーラ……?」


 ヴェーラ以外ありえない。なのに、そこにいたのはヴェーラよりももっと背が高くて、明らかにもっと大人だった。だが、顔が見えない。顔はあるのに、どうしても意識に入ってこない。


「どうしたの、ベッキー」

「えっ……?」


 いつものヴェーラがレベッカを抱きしめていた。レベッカは思わず眼鏡を掛け直してもう一度ヴェーラを凝視する。


「どうしたの? 変だよ?」

「ヴェーラ、なの?」

「それ以外誰がいるってのさー」


 ヴェーラはレベッカから身体を離して、レベッカの額に自分の右手を当てた。


「熱……はないなぁ」

「大丈夫よ、たぶん」


 レベッカはヴェーラと手を繋ぐ。いつの間にかが存在していた。目を上げればそこには無限に広がる床があった。ある意味で何もない。ただ、仄かに明るいだけだ。現実ではありえない光景である。


 それを三百六十度見まわして、「何もないね」とヴェーラが呟いた。レベッカは頷く。


「ヴェーラ、ここは、どこ? っていうより、なに?」

「わかるわけないし」


 レベッカの質問と同時に回答するヴェーラ。おそらくレベッカの心を読んでの先回りだ。レベッカは苦笑した。表情を動かせる程度には、動揺から立ち直ったようだ。


「あの戦闘機」


 ヴェーラはその美しい白金の髪プラチナブロンドに手をやりながら、言った。


「あれはシミュレータ用のオブジェクトじゃない」

「ブルクハルト大尉もそうおっしゃってたわね」

「となると、侵入?」

「まさか」


 レベッカは首を振った。


「特A級の防壁のあるシステムよ、セイレネスは。それにプロトタイプに過ぎないじゃない、まだ」

「でも、ある程度の実効性は士官学校のアレの時に証明されたよね。それにあの数値……人々に何らかの影響がでるほどの何かがあることも間違いない」

「そう、だけど」


 ヴェーラは無限の床を数歩歩いた。レベッカも慌ててそれについていく。


「前にさ、わたし言ったよね。セイレネスはゲートウェイみたいなものじゃないかって」

「ええ。ジークフリートが私たちにアクセスするための……だったっけ?」

「うん」


 ヴェーラは肯く。


「異なる世界の、異なるプロトコルを連結するための機構システム。それがセイレネスなんじゃないかって。案外、それ、合ってるのかもしれないね」


 無限の床を背景に、ヴェーラはレベッカを振り返った。白金の髪がゆらりと揺れた。


の先にある、これこそ、セイレネスが繋いでいる異世界なんじゃないかって。いや、もしかすると、こっちこそがリアルな世界なんじゃないかって」

「……何を言ってるの?」

「そういうこと。そういうところ」


 ヴェーラの目に影が落ちる。口元は笑っているのに、その眼光はレベッカを刺し貫いていた。その表情は、この二ヶ月で度々見せつけられたものと同じだった。冷徹で昏い。そしてあらゆる物事を睥睨へいげいしているかのような――。


 背筋が粟立ったレベッカは、本能的にヴェーラから一歩離れた。だが、ヴェーラはそんなレベッカに勢いよく二歩近付き、その肩を両手でがっしりと捕まえた。レベッカの呼吸が止まる。ヴェーラの冷めたかおがレベッカのすぐ前にある。まるでこれからキスでもするかのように、近すぎる距離感。レベッカは事ここに至って、初めてヴェーラを本気でと感じた。何もかもを見通す蒼い瞳に見据えられ、レベッカは唇を戦慄わななかせた。


 レベッカの覚えた恐怖の本質を知ってか知らずか、ヴェーラは殊更にゆっくりと宣言する。


「ここからは逃げられない。あっちからも、逃げられない。どちらのプロトコルのうちにあっても、わたしたちは単なる一つの道具としてしか、存在することはできない」

「ヴェーラ、どうしちゃったの……?」


 レベッカがかすれた声で呟くと、ヴェーラは「ねぇ……」と、その美しい造作に似合わない壮絶な微笑を浮かべた。


「君はわたしがおかしくなっちゃったと思ってる? 違うよ? おかしいのは、君だよ、ベッキー。知っているのに目を逸らしている。わかってるのにわからないふりをしている。本能は、君の神髄はそこに辿り着いているというのに、君の中にある名状し難い常識論ロジックを振りかざして否定しようとしている」

「ヴェ、ヴェーラ……?」


 狼狽えるレベッカの肩から手を離さぬまま、ヴェーラはますます顔を近づける。唇がほとんど接触してしまいそうなほどの距離まで近付いて、ヴェーラは目を細めた。


「現実はこうして斯くのように存在しているのに、君はそれを見ようとしない。一方で、私はそれを認めている」


 ねぇ、どっちがおかしい?


 君はどうして目を伏せる?


 どうして?


「ねぇ――」


 ヴェーラはレベッカの耳元に唇を寄せた。レベッカはようやく呼吸を思い出す。肺の中に溜まった二酸化炭素に満ちた呼気を無理矢理に吐き出しはしたものの、レベッカの中の緊張は一向に解けない。


「君の――」


 レベッカの心臓が急速に冷えた。そんな錯覚さえある。


「意志は――」


 ヴェーラの声は凍てついていた。触れられた肩、吐息のかかる耳、それらすべてが血の気を失っていくのが分かる。


「どこ――?」


 ふと、身体が軽くなった。驚いて目を見開くと、レベッカの前でヴェーラが光に飲まれ始めていた。その身体が光に溶けていく。


「ほら……」


 ヴェーラは楽し気に言った。光になっていく自分の両手や両足を見て、彼女は無邪気に笑っていた。


ってのは、自分に不都合な事象が出てくると、すぐにこういうことをするんだ。まったく狡猾だよね」

「ヴェーラ、待って!」


 消えゆくヴェーラに手を伸ばすレベッカ。だが、ヴェーラは首を振った。


「それはわたしの意志でどうにかできることじゃないよ?」


 微笑んだヴェーラは、完全に姿を消した。


 それと同時に、無限に広がっていた床は姿を消し、レベッカの周囲は再び闇に包まれた。

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