差し伸べられるは悪魔の指先

 やっぱり来たか。


 参謀部より出撃命令が出た時には、イスランシオたちはすでに出撃準備を完了していた。発令のその三十秒後には、一機目が飛び立っていたほどだ。ボレアス飛行隊の洋上基地でもある強襲航空母艦<べロス>は、作戦実行エリアの北西五十キロの位置にまで移動してきていた。<べロス>の周囲には一ダースばかりの対潜哨戒ヘリが飛び回っており、高高度には不意打ちに対応できるようにと一個飛行中隊が待機している。


 現時点で最も恐れるべき敵はあの巨大クラゲナイアーラトテップであるが、わざわざボレアスの母艦一隻のために差し向けてくるとは到底思えないし、隠蔽された洋上の艦一隻など、捕捉すら難しいはずだ。それにイスランシオは理解している。自分を殺すのであれば、空でやらなければ意味がないのだと。の場所で気を付けるべきなのは、アーシュオンの暗殺者などではなく、ヤーグベルテの政治屋たちのコロコロと変わる政治活動の方針ポリシーの方であった。


「やはり罠……か?」


 イスランシオは専用機F108+ISパエトーンプラス・インターセプタ・シュライバーを操りながら、呟く。


 アーシュオンが大規模に動いたのは実に半年ぶりである。だが、その第一歩となる作戦が、ヤーグベルテとの間で領有権を巡って小競り合いを続けている島嶼とうしょへの侵攻作戦だというところが解せなかった。これら島嶼については、従来より戦略とはほぼ無縁な占領行為が度々実施されてきていた。だが、それらはほとんどが過激な市民活動の延長上の物に過ぎず、ヤーグベルテはもちろん、アーシュオン政府にしても迷惑以外の何物でもなかったはずだ。だが、今回のは違う。明らかにアーシュオンの政府の意志で以て、大規模な占領作戦が実施されていた。


 状況をかんがみて、イスランシオは通常の倍の戦力での出撃を選択した。イスランシオのF108+ISの後ろには、二十機ものF108パエトーンが続いていた。


 ところが、戦闘はあっさりと片がついた。それもそのはずである。ボレアス飛行隊に匹敵するほどの練度を誇っているのは、あの率いるマーナガルム飛行隊くらいだからだ。アーシュオンにはアウズ教導飛行大隊とナグルファリ飛行連隊というトップエースたちの飛行隊も存在しているが、彼らは滅多に前線に出てこない。


「ボレアス各機、敵潜水艦隊を駆逐する。続け」


 イスランシオは淡々とレーダーを確認して指示を出す。潜水艦は全部で五隻、どれも大型だ。


デコイの可能性もある。油断するな」


 さて、何が出る――?


 空域を薙ぎ払うような対空砲火が上がってくる。おおよそ潜水艦とは思えないほどの対空火器が備え付けられているようで、さすがのボレアス飛行隊たちも三々五々に上空に一度避退する。今の所、被害はない。ボレアス飛行隊の練度を考えれば当然のことだ。


『隊長、敵機四! 海中から! 潜水空母からと思われます!』

「やはり上にいた連中は囮か!」


 海面を叩き割るようにして、四機の小型戦闘機が現れた。


「速いぞ! 各機警戒!」


 イスランシオが怒鳴ると同時に、ロックオンアラートがけたたましく鳴り響いた。イスランシオの真後ろに、四機がぴたりとつけていた。どうやら他の機体は眼中にないらしい。


 速い――。セプテントリオの時の随伴機よりも速度も機動性も上だ。


 イスランシオは舌打ちをして、可能な限り距離を開けようとオーグメンタを点火する。だが、追ってくる戦闘機はそれすらせずに平然と距離を近付けては機関砲を乱射してくる。ボレアスの仲間が追撃を仕掛けているが、どういった手品なのか、三十ミリの機関砲も対空ミサイルも、まるで通用しているようには見えなかった。それどころかイスランシオの真骨頂でもある敵機システムへの侵入破壊攻撃クラッキングでさえまるで効果を発揮しない。


「ダメだ、俺の攻撃コードを受け付けない」


 何度目かの試行の末、イスランシオは諦めて仮想キーボードを引っ込めた。逃げ回ることに全力を注ぐ。すでに並の飛行士パイロットであれば、七、八回は死んでいるだけの攻撃を受けている。無被弾で逃げ回るイスランシオの技量は、やはり神業である。


 だが、その追いかけっこが十分を経過する頃には、イスランシオの身体が悲鳴を上げ始めていた。イスランシオの視界はほのかに赤く染まり、呼吸も苦しい。全身の骨という骨、筋肉という筋肉が、軋み、硬直し始めている。危機感、そして焦燥が、イスランシオの強靭な精神力をも侵していく。


「はやく、第六課に! 第六課に指揮を引き継げ、クソったれどもが!」


 イスランシオは一向に追加指示を出してこない参謀部に苛立っていた。今指揮を執っているのは第二課か? 四課か? ともかく、彼らは混乱しているのだろう。今までは、四風飛行隊を投入しさえすればそれでミッションコンプリートだったからだ。四風飛行隊が苦戦するようなシナリオなど、想定しているはずもないのだ。今この状況をわずかでも好転させられる者がいるとしたら、それは第六課のエディット・ルフェーブルだけだ。


「くそっ、俺ももう持たんぞ!」


 ――参謀部はダンマリだ。


 急上昇からの反転。脳の血液が後頭部に一気に集まり、視界がまた一層赤く染まった。ロックオンアラートがうるさい。集中が掻き乱される。ようやく一機の真後ろにつけることに成功した。躊躇わず機関砲のトリガーを引く。命中、命中、命中……! 百発以上のタングステン合金の高速徹甲弾が敵機に直撃する。


 だが、敵機は煙さえ上げなかった。翼などもぎ取られていてもおかしくないだけの被弾をしたのに、傷さえついていない。そんなことはありえなかった。対ショックアブソーバを使っているにしても、この至近距離での高速徹甲弾の直撃である。到底威力を殺せるものではない。


 そう考えながらも、イスランシオは急降下を選ぶ。それまでイスランシオがいた空域を、後ろにつけていた三機が薙ぎ払っていた。一瞬でも判断が遅れていれば、爆発四散させられているところだった。


 イスランシオは海面スレスレのところまで降下し、海水で煙幕を張った。一瞬の目くらましにでもなればと思ったが、それは儚い願いだった。敵機は迷うことなく海水の壁を貫いて、イスランシオを追いかけてくる。


「バケモノめ!」


 吐き捨てる。ロックオンアラートがついにミサイルアラートに変じた。レーダーに視線を走らせると、そこには無数のミサイルが映っていた。イスランシオの機体制御システムに、敵機が何らかの手段で侵入したのだ。つまり、電子的なをやられたということだ。


 海面を叩くように右の翼を下げ、発生した衝撃波で大きく進路を右に変える。脳の血流が著しく偏り、意識が一瞬遠ざかる。パイロットスーツが全身を締め上げて、血液を押し戻す。肋骨が軋む。軋み過ぎて呼吸が苦しい程に、痛む。


 視界の隅に潜水艦が見えた。ぼんやりと佇んでいる所から判断して、戦闘の状況を記録しているに違いない。


「見世物じゃ、ないぞ!」


 イスランシオは吼えた。渦を巻くようにして潜水艦との距離を詰める。潜水艦がようやく対空射撃を開始する。だが、イスランシオの機体に対空機関砲ごときが命中弾を送り込めるはずもなかった。イスランシオはトリガーを引き絞り、潜水艦目がけて機関砲を掃射する。対空機銃が幾つも吹き飛んだ。


 イスランシオは追撃をかわしながら急上昇を行い、そのまま機首を捻って急降下に移る。身体的にはもはや限界を超える機動だった。意識も何もかもがどこか遠くに感じられていたが、それでもターゲットは完全に捉えていた。


 沈め――!


 イスランシオがトリガーを引こうとしたその瞬間。


 イスランシオは見た。潜水艦の甲板に、女が立っているのを。銀の髪をした美しい女だった。女はイスランシオを見上げ、微笑んでいた。


「!?」


 その一瞬の隙を突かれた。後ろに回っていた敵戦闘機四機が放った機関砲が、F108+ISの尾翼をまとめて吹き飛ばしていた。機体が激しく振動を始め、錐揉みを始めようとする。イスランシオは歯を食いしばってこらえる。が、その努力も虚しく、右の翼が半ばから折れて、空の彼方へと飛んで行った。


「くそっ!」


 エンジン出力が下がり、左の翼の装甲が泡のように剥がされていく。前後左右上下から被弾する。もはや自由落下か爆散か。電気系統がやられてしまっていて、脱出ベイルアウトもできそうにない。海面と潜水艦の甲板がコマ送りのように近付いてくる。銀の髪の女の顔が意識の中で拡大される。


 潜水艦に残された数少ない対空機銃が放った弾丸が、キャノピーを貫通した。血液が飛び散った。骨が砕け、内臓がえぐられた。被弾の衝撃で右腕がもげた。もげた腕は血液を振り乱しながらコックピット内を跳ねまわった。


「提案があるの」


 その声と共に、イスランシオの時間が止まった。


 潜水艦から上がっていた弾幕も止まっていた。百分の数秒の後にイスランシオの身体を打ち砕くであろう弾丸の群れが、目の前で止まっていた。キャノピーを粉砕して辿り着いた弾頭たちは、めいめいにひしゃげていた。こんなものが数発も当たれば、人間など原型を留めないに違いない、と、イスランシオは至極冷静に考えた。


「私と一緒に来てみない?」


 銀の髪の女は目の前にいた。目の前に浮かんでいた。うるさげに歪んだ弾頭を払い落とし、自分の場所を確保すると、女は微笑んだ。蠱惑的にも程がある、そう、悪魔の微笑を浮かべながら。


「エイドゥル・イスランシオ。イエスかノーか。選ぶ権利はあなたにあるわ」

「一緒に行って、何がある」


 イスランシオの問いを受け、女は口角をきゅっと上げた。そして右手でイスランシオの頬に触れる。


「虚数の世界があるわ」

「虚数?」

「そう、虚数」


 冷たい手でイスランシオの頬を撫で回す。


もそこにある。そして」

「記憶?」


 ああ。あの違和感のことか。


 俺は誰にコーヒーを入れてもらっていたのか――。


 イスランシオは首を振る。女はややがっかりしたような表情を見せた。


「そう、なら、死になさい」

「待て」


 イスランシオは残った左腕でヘルメットを取って投げ捨てた。そして、不意に声を立てて嗤い始めた。


「ゴーストナイト! そういうことか!」


 なるほど。こうやって勧誘していたんだな。


 イスランシオは得心した。そして一層おかしくなる。


 そんなイスランシオの唇を、女の唇が塞いだ。その唇と舌は、イスランシオの内側を貪り、吸った。意識や認識といったものがぼんやりと境界線を失い始める。それはとても甘美な誘惑であり、今まさに死のうという精神にとっては、この上ない救済だった。


 はたと気が付けば、イスランシオの目の前には銀の髪の女ではなく、黒髪に藍色の瞳をした女がいた。その切なげな表情を見た瞬間に、イスランシオは思い出した。


 ヘレーネ……! そうだ、ヘレーネ・アルゼンライヒ……!


 思い出した途端、ヘレーネの顔はまた銀の髪の女の妖艶なものに戻った。女は艶美に微笑みながら問う。


「ふふふ、悪魔の口付け。味はいかが?」

「……悪くはないな」


 イスランシオは再生していく自分の身体を見下ろしながら、唇の右端を吊り上げた。振り返れば、戦闘機に座ったままの自分の身体は、粉微塵に打ち砕かれていた。その光景にはとても違和感を覚えはしたものの、今のイスランシオにはそれ以上のものにはならなかった。


幽霊騎士団ゴーストナイトとは、よく言ったものだよ」

「名付けたのは私じゃないわ」


 女はイスランシオを両腕で抱きしめた。


「私は女。されど産み手には、にはなれない。だから私はヴァルキリーのように、ゴーストを集めて回ることしかできないのよ」


 眼下では潜水艦が真っ二つに折れて燃え上がっていた。イスランシオの機体が直撃したのだ。


 そうだ。死んだのだ。俺は。


 イスランシオは、銀の揺らぎに包まれながら、そう認識した。

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