前提条件

 ミツザキが何処かへと帰っていった頃には、午後八時を回っていた。辺りはすっかり暗くなり、マーナガルム飛行隊の隊員たちもすでに宿舎なりベッドタウンなりに引き上げた後だった。


 ヴァルターとシルビアは、なんとなくトレーニングルームの方へと足を運び、誰もいないその広大な部屋の片隅で缶コーヒーを開けていた。


「遅くなってしまったな」

「ですね」


 シルビアはタンクトップにショートパンツという出で立ちに着替えていた。これからトレーニングをしてから宿舎に帰るのだという。


「隊長もどうですか。一汗かきませんか」

「いや、俺は」

「そうですか」


 シルビアはコーヒーの缶をゴミ箱に巧みに投げ入れ、立ち上がった。すらりと伸びた足がヴァルターの眼前に惜しげもなく晒される。ヴァルターはサッと目を逸らし、冷たいコーヒーの缶を両手で握り締めた。


 シルビアはランニングマシーンの方へ移動して、慣れた手つきで設定を入力していく。そしてゆっくりと走り出す。ヴァルターはそのすぐそばのベンチに移動して、走るシルビアの姿をぼんやりと眺めつつ、先ほどミツザキから言われた会話について口に出す。


、俺に倒せると思うか?」

「隊長以外に倒せる飛行士アビエイターがいるとは思えません」


 シルビアは言葉を選びながら言う。その間も彼女は走り続けている。汗が少しずつ浮いてくる。


「我々は全部で十二機。エウロスは五十を超えます。が、同数なら可能性はあるでしょう」

「そうだろうか」


 ヴァルターは懐疑的だ。エウロス飛行隊は一機一機がとにかく異常に強いのだ。「常軌を逸している」という表現がこれほどしっくりくる戦闘集団もない。


「公式発表のキルレシオが48:1、でしたか」

「そうだ。正確には48.4:1だ」


 つまり、エウロス一機を落とすのに五十機近い犠牲が必要、と言い換えることもできる。とにかく相手にするにはハイリスク過ぎる部隊であり、アーシュオンの飛行士たちには「の姿が見えたら逃げろ」という命令が出されることすら間々あるのだ。


 だが、ミツザキの持ち出してきた作戦案は、よりによってその隊長である暗黒空域ことカレヴィ・シベリウス大佐をすることが前提となっていた。正気の沙汰ではない――シルビアが思わずミツザキにそう言ったほどである。


 ミツザキは冷笑を浮かべ、こう答えた。


「最大限の御膳おぜん立てはする。どれほどの犠牲を出しても構わんから、何としても奴を撃墜しろ」――と。


 思い出して渋面になったヴァルターを見やりながら、シルビアはマシンのスピードを上げる。


「隊長は、私たちの事を考えているのですか」

「当たり前だ。君たちを犠牲にするような作戦には賛同できない」

「しかし――」


 シルビアはマシンを止めて、ヴァルターの前にやってきた。額には玉の汗が浮いている。


「シルビア?」

「暗黒空域を撃墜できれば、いえ、彼を殺すことができれば、それ以後、我々の仲間の犠牲は格段に小さくなるでしょう。肉を斬らせて骨を断つ、もはや状況はそのフェイズに至ったということです」

「猶予もなし、か」

「ええ」


 シルビアは頷き、自前のタオルで汗を拭いた。


「ミツザキ大佐も仰っていましたが、あれだけの超兵器を擁しているにも関わらず、軍の上層部は焦っている。これはつまり――」

「いつあの兵器群たちを上回る何かが、ヤーグベルテに出てきてもおかしくない」


 ヴァルターは二本目の缶コーヒーを飲んでいた。シルビアはタオルを首にかけながら、自販機でスポーツドリンクを購入する。ヴァルターはその後姿を何とはなしに見つめている。


「対セイレネス能力……オルペウスと言っていましたか」


 ペットボトルの蓋を開けながらシルビアが首を振る。髪の毛がふわりと揺れる。


「確かに私も、特にナイアーラトテップが前線に出たあの戦いの時は、おかしな感覚を覚えました」

「おかしな感覚?」

「ええ。歌……のような。頭の中に直接何か違和感が紛れ込んだような」


 その言葉を受けて、ヴァルターは思わずシルビアの横顔を見つめた。シルビアはペットボトルに口を付け、美味そうに喉を鳴らして内容物を飲み込んでいく。シルビアは横目でそんなヴァルターを見て目を細め、ヴァルターはばつが悪そうに目を逸らした。


「見ているだけなら浮気にならないのでは?」

「いや……」


 そうじゃないよ、とヴァルターは思うが言葉にならない。


「隊長は優しいから」

「意気地がないとも言うよ」


 ヴァルターは溜息を吐く。シルビアは上半身を前に出して、ヴァルターを覗き込む。その姿勢にまたもドキっとするヴァルターの様子を見て、シルビアは喉の奥で笑った。


「まったく、よしてくれ」


 ヴァルターは露骨に視線を宙に彷徨わせて抗議する。


「何をですか、隊長。大事なところが見えているわけでもないのに。まさか、背中や谷間だけでも罪悪感が湧くとか仰いますか? まさかと思いますが童貞ですか?」

「き、君には関係ないだろう」

「奇遇ですね。私も処――」

「いいって」


 ああもう、と、ヴァルターは立ち上がる。その白皙の顔がはっきりと見て取れるほどに紅く染まっていた。


 かわいいんだ。


 シルビアは心の中で呟いた。


「それはそうとさっきの」

「……の件ですか?」

「そうだ」


 ヴァルターはシルビアの方を極力見ないようにして頷いた。


「おそらくあの場違いなが聞こえた飛行士アビエイターが、対セイレネス……オルペウスの能力を持っているということなんでしょうね」

「信じがたい話だし、第一ってなんだよって思う」

「私もフォアサイトも同じような事を訊きました、大佐やあの技術本部長に」

「それで?」


 自分たちはそこまで突っ込んだことを訊かなかったな――ヴァルターは思った。


「あれのことをアイスキュロス重工の内部では『セイレーンの歌』と呼んでいるそうです」

「セイレーンの歌……」


 セイレネスというのはセイレーンの複数形だ。


「それはヤーグベルテで進められていると聞く歌姫計画セイレネスシーケンスと関連していることなのか」

「十中八九……いえ、確実に」


 シルビアとフォアサイトは相当に突っ込んだ話をしてきたようだ。


「ナイアーラトテップに使われた技術は、ヤーグベルテから持ち込まれたものだと聞きました。その試作段階で作られたのがISMTインスマウスであり、ロイガーであると」


 シルビアはアーマイアから聞いた情報をそのままヴァルターに伝えた。


「ヤーグベルテから……しかしそんなことをしたら。いや、そんなことを


 ――幾つもの都市が蒸発して、何百万もの死傷者が出ることになったんじゃないか。


「政治の都合なのかもしれませんね」


 シルビアは嘆息する。このころには、汗はすっかり引いていた。


「冗談じゃない」


 ヴァルターは手にしたままだった缶コーヒーを一気に空にし、吐き捨てた。シルビアは座ったまま、フッと笑う。


「こんなこと、日常茶飯事ですよ、隊長」

「しかし……!」

「隊長は――」


 シルビアは音もなく立ち上がった。


「そのまま、変わらずにいてください。私はそんな隊長の事が好きです」

「シルビア、俺には」

「隊長に好きになってくれなんて言っていません。私の想いは、私の自由です」


 シルビアは寂しげに微笑み、ヴァルターの二の腕に触れる。


「正直に言いましょう、隊長」

「……?」

「私のこの気持ちすら、私には私自身のものなのかどうかわかりません。ですが、信じていたいのです。私は」

「待ってくれ、シルビア」


 ヴァルターはそっとシルビアの手を掴み、距離を取った。


「一年も一緒にいたのに、どうして今?」

「後悔、したくないからです」


 シルビアはその黒褐色の瞳でまっすぐにヴァルターを見つめた。天井の寒々しく白い明かりを受けて、その瞳は揺らいで見えた。


「後悔……?」

「はい」


 シルビアは頷いた。


ISMTインスマウス投下作戦。あれを目の当たりにして、私は……怖くなりました。我々の行為おこないが、怖くなったのです」


 その黒褐色の瞳に捉えられ、ヴァルターは目を伏せることすらできなくなっていた。


「ただで済むはずがないと。我々は必ずその報いを受けることになると、私は強く思ったのです」

「それでこの前の……」

「そうです」


 シルビアとのドライブ。ドライブという名の、逢瀬。無論、ヴァルターにはそんな気はなかったが、結果としてはそうなった。シルビアの想いを告げられ、抱え込むことになったのだから。


「そしてさっきのミツザキ大佐とローゼンストック氏の話です」

「セイレネス……?」

「肯定です」


 シルビアはぼそりと肯定し、その手にあるペットボトルに視線を移した。それにより、ようやくヴァルターの拘束が解ける。


「私は一生あなたの隣にいたいのです」

「でも俺にはエルザが……」

「構いません。あなたに振り向いてもらえなくても構わない。ただ、あなたの三番機であり続けたい。それだけです」


 シルビアはヴァルターの胸板に額を押し付けた。ヴァルターはしばらく躊躇っていたが、やがてその背中に手を回す。


「私は死ぬことを恐れています。死にたくないのです」

「そんなの、当然じゃないか」

「そして、隊長を、あなたを失いたくない。絶対に」


 シルビアはヴァルターの背中に手を回した。二人は抱き合う格好になる。シルビアはかすれるほどに小さな声で言った。


「私は死にたくないなんて、思ったことはなかった。あなたに出会うまでは」

「シルビア――」

「あなたは私の命のようなもの。だから」

「君の命は君のものだ」


 ヴァルターはシルビアを力強く一度抱きしめ、そして身体を離した。


「俺は君の想いに応じることはできない」

「それでもいい」

「君にはもっと相応しい男がいるはずだ」

「いないから」


 シルビアは首を振る。


「私には、あなた以外を好きになる権利がない」

「権利……? 何を言ってるんだ?」


 そこまで言って、ヴァルターはシルビアの瞳に涙を見た。これ以上は語れない、そういう目だった。


「そういう、ことか」

「……そういう、ことです」


 ――そのキーワードがヴァルターの中で激しく揺れ動く。


「でも隊長、信じてください、これだけは」

「わかってる」


 ヴァルターは即答した。シルビアの目から涙がポロリと落ちた。


「ありがとうござ……い、ま……す」


 シルビアは泣いた。子どものように、声を上げて、泣いた。ヴァルターはそんなシルビアを可能な限り優しく、抱きしめた。




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