夜の中で

 胸糞の悪くなるようなニュースが一段落したのを見届けて、ヴァルターはエルザと共にベランダに出た。さっきまで月が出ていたのだが、今はすっかり雲の向こうに隠れてしまっていた。星の姿もまるで見えない。地上からの照り返しを受けて、雲の底面がぼんやりと輝いて見えた。きっとあの雲の中はさぞかし飛びにくいことだろう、などと、ヴァルターは考えていた。


 だが、その向こうへ、雲の上に出れば、そこには満天の星空が広がっている。あの美しさを独占できるのは戦闘機の中だけだ。地上との電子的な繋がりを維持してさえいれば、誰にも文句を言われることはなく、ただ漂っていられる。敵がいるとかそんなことは、空を飛ぶヴァルターにとっては些末な事柄に過ぎなかった。


「ヴァリー?」


 囁き声に導かれて、ヴァルターの意識が地上に戻ってくる。すぐ傍らには大きめのTシャツにジーンズという軽装のエルザが、ジンジャーエールのペットボトルを持って立っている。


 地上も悪くないか――。


 ヴァルターは苦笑してエルザの濃灰色の髪を一度撫でた。エルザはそっと身を寄せてきて、ヴァルターの胸に頬を当てる。


 庭のあちらこちらで虫が鳴いていた。長らく続いている戦争状態に慣れ切ってしまった生活が、このトゥブルクにもあった。こと、トゥブルクはその地政学的に、安全が保障されていると言っても過言ではない。航空機や弾道ミサイルが飛んできたとしても、その途中でどうやっても要塞都市ジェスターの防空圏内を通過する。ジェスターの防空能力といえば、アーシュオン随一とも言われている。最前線の基地であるゆえに、技術も練度も危機管理能力も、他の基地とは格が違う。ましてやジェスターには最強の艦隊である第四艦隊マヘスが常駐している。万が一にもヤーグベルテに抜かれることはない。もしそのような事態が起きたとしても、ジェスターが一週間や二週間で陥落することは有り得ない。逃げ出す時間は十二分に確保できるはずだった。下手な内陸部の都市よりも、緊急時の安全性ははるかに高い。


 それゆえ、トゥブルクはどこかのんびりとしていて、軍務でピリピリとしている軍人たちの心のオアシスのような都市だった。ヴァルターにしても、このようにしてその恩恵にあずかっている。


「ヴァリー? ヴァリー君?」

「えっ」

「えっ……じゃないわよ。考え事?」


 ヴァルターはジンジャーエールのペットボトルを受け取って、一口飲んだ。


「いつものことだろ」

「まーね」


 エルザはふと笑う。そして自分のペットボトルに口を付けた。


「エースさんは大変ね。お疲れ様、ヴァリー」

「ありがとう、エルザ」


 二人は乾杯のようにペットボトルを掲げ合い、そして何に対してだか曖昧なままに小さく笑い合った。


「ねぇ、ヴァリー君」

「ん?」


 エルザが君付けするときは、大抵何か折り入った話があるときだ。


「しばらく休暇って、取れない? そろそろ結婚式のこと、考えたいんだけど」

「うーん」


 ヴァルターはジンジャーエールを一口喉に流し込んで唸った。


「警戒態勢が解かれていないんだ、まだ」

「でもヤーグベルテとはもう三ヶ月近く……」

「大きな作戦行動はないけど、ジェスター近海での小競り合いは日常茶飯事なんだよ、エルザ」

「そうなんだ」


 幾分気落ちした様子のエルザに、ヴァルターはなんだか申し訳ない気持ちを抱く。


「入籍だけでもしてしまおうか?」

「それは最後の手段よ、ヴァリー」


 エルザは大袈裟に肩を竦めて、ヴァルターを見上げる。


「でも、そうよね。私たち、ヤーグベルテにしたんだもの」


 あんなこと――。


 言うまでもなく、それはISMTインスマウスや核攻撃の事を指している。


「殺されたヤーグベルテの人たちの亡霊に、軍部は怯えているのね」

「そうとも言えるのかもな。現に上層部はヤーグベルテからの反撃を極端に警戒している節もある」


 ヴァルターは詳細をぼかしてそんな風に言った。具体的にはおそらく、歌姫計画に関連するを恐れているのだ。


「私たちだけが幸せになるわけにもいかない、か」

「そんなことは君には関係ない。君にだって幸せになる権利はあるさ」

「君に、じゃなくて、俺たちに、でしょ?」


 エルザは空を見上げる。雲の隙間から僅かに月の姿が見えた。


「ねぇ、ヴァリー」

「なんだ?」

「もしここにがあったら、あなたはどうしてくれる?」

「不可能だ」

「ちがう」


 エルザは力を込めて否定し、首を振る。


「そうじゃなくて、もしもよ。あなたがどこかで戦っている時にこの街が燃えてしまって、私も父さんも母さんも殺されてしまったとしたら、あなたはどうしてくれる?」

「どうって……」

「泣く? 怒ってくれる? それとも何とかして諦める?」


 エルザの毅然たる表情を見るに、回答拒否というのは認められていないようだった。ヴァルターの思考は、まるで片翼を失った戦闘機のようにフラフラと頼りないものになっていた。


「怒るだろうけど」

「誰に対して?」

「ええと……」

「ヤーグベルテの兵隊に対して? それとも、国民を守れなかったアーシュオンに対して?」


 その詰問に、ヴァルターは月を見上げてしばしの間、考えた。


「きっと、攻撃をしてきた奴らに対して、だろうな」

「そう」


 エルザはヴァルターから一歩離れ、そしてもう一歩距離を置いた。まるで決闘でも始めようとするかのような、ピリリとした緊張感が二人の間をはしった。


それをしたのか分かったとしたら。私を殺した人がにいたとしたら。あなたはどうする? どうしてくれる?」


 エルザ?


 ヴァルターは目を細めてエルザを見た。快活そうな表情はいつもと特に違いはない。だが、その翡翠色の瞳が、窓からの明かりを受けてゆらゆらと揺らめいているように見えた。


 ああ、そうか――。


 ヴァルターは不意に納得した。


 エルザはあの攻撃を、ISMTインスマウスによる未曽有の被害を与えたあの攻撃を見て、絶対の安全圏などないということを知ったのだろう。


「ねぇ、教えて。あなたの言葉を聞きたいの」

「俺は……」


 なんて答えるのが正解なんだろう。ヴァルターは言葉に迷う。


「俺は目の前の敵を倒す。それだけだ」


 だが結局出てきたのは、そんな程度の言葉だった。エルザは目を伏せ、月を見上げ、そしてジンジャーエールを一気に半分ほど飲み干した。


「機械みたいね、それじゃ」

「……軍人だからな」


 ヴァルターは気の利いた言葉を言えもしない自分にほとほと幻滅していた。こんな時、クリスならもっと上手いことを言えるんだろうな、とも思う。


「もしね、私が殺されてしまったら。その人が目の前にいたら。あなたは仇を取ってくれる?」

「仇……」

「そう、仇。私は死にたくないもの。なのに殺されたとしたら、私はその人を恨むわ。だからの、本音を言えばね。でも、あなたはどうする? 何ができる?」


 ヴァルターは闇に沈んだ庭の芝生を眺めやった。


「……そうならないために、俺は戦っている。君が殺される前提の話なんてしたくない」

「……そう」


 エルザは少しだけ眉尻を下げ、口角を上げた。そこにあったのは泣きそうな微笑、そんな表情だった。


「ところでさ、ヴァリー君」


 一転、明るいトーンでエルザは言い、そしてヴァルターの左腕に自分の右腕を絡めてきた。


「さっきのシルビアさん、だっけ? なんでもないんだよね?」

「え?」


 やっと重苦しい話題から解放されたと心の中で喜んだのも束の間、思いもかけない話題を持ってこられて、ヴァルターは明らかに動揺した。エルザは表情を曇らせる。


「あの人、あなたのこと好きよ?」

「そんなはずないじゃないか。あいつは君の事も知ってる」

「関係ないのよ。好きな人に好きな人がいようが、それでも好きになってしまうことだってあるんだよ」

「あいつは大事な部下で同僚だが、そういう関係なんかじゃない」


 ヴァルターは静かな声を発することに努める。後ろ暗い所はないにしても、どうしても呼吸が浅くなる。エルザは「でもあなたの服」と、ヴァルターの鳩尾あたりを指で突いた。


「タバコの臭いがする」

「そ、それは」


 あいつの車で来たからであって――ごにょごにょ言うヴァルターに、エルザは不意に抱き付いた。


「わかってるわ。こんな風に抱いたでしょ」


 エルザの言う通りだった。しかしそれはシルビアが不意に抱き付いてきたからであって――。


「でもいいわ」


 エルザはヴァルターから身体を離した。


「私はあなたを信じてるから。ヴァリー、あなたは私を裏切らない。私は知ってるからね」


 その言葉には「わかってるんだろうな?」という凶器のような重さが含まれていた。女性の心の機微に疎いヴァルターにでも、そのくらいは容易に察知できた。


「誓って君を泣かせるようなことはしないし。そもそも今回だって何もしていない。する気もなかった」

「母さんも怖い?」

「お義父さんもだ」


 ヴァルターは家の中をちらりと窺いつつそう答えた。エルザは破顔する。


「オーケー。じゃぁ、今回の事は不問に処す」

「……今度何かプレゼントを贈るよ」

「物で釣られるなんて思わないでよね」


 エルザはほとんど空になったペットボトルを軽く持ち上げる。ヴァルターも同じようにして見せた。何度目かの乾杯である。


「さ、家に入りましょ。虫に刺されちゃうわ」


 そう言っていち早く家の中に入ってしまったエルザを見送り、そしてまた月を見た。ぼんやりと夜闇を照らしていた月は、今まさに雲に覆い隠されていっているところだった。

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