グラスに映ったその顔は……

 届けられた寿司を食べつくした四人――もっともその半分以上はヴェーラの胃袋に収まったが――は、めいめいにソファで休んでいた。テレビは相変わらず無音状態で、エディットは四本目のビールの缶を開けていた。


「ヴェーラ、ベッキー、お風呂は? 入れるわよ?」

「あ、入る入る!」


 ようやく満腹状態が落ち着いたのか、ヴェーラは立ち上がって応じた。レベッカはお茶を啜りつつ、ヴェーラにやや呆れた視線を送る。


「あなたのその身体のどこに、あれだけ入るわけ?」

「わたしの胃袋は異次元なのですぅ」


 ヴェーラはその場でくるりと回ってから、レベッカを立ち上がらせた。レベッカは「仕方ないなぁ」と言った表情を浮かべつつ生真面目に訊いた。


「超ひも理論的な意味で?」

「対称性の破れ的な意味でだよ」


 エディットやカティには二人の交わしたジョークの意味はさっぱりわからなかったが、敢えてそこには触れなかった。理論セオリーの講釈をされたところで余計に混乱するだけだと知っているからだ。


「まぁ、いいわ。それじゃエディットさん、お風呂行ってきますね」

「さん付け禁止」

「嫌です」


 レベッカにしては頑固な反応に、エディットはわざとらしく肩を竦めた。カティも自然と苦笑が浮かんでしまう。


「良いね、その表情」


 エディットはそう言って目を細める。言われたカティは、その瞬間にまた無表情に戻ってしまった。カティとて「笑いたくない」とかそう言うわけではない。ただ、笑えないのだ。思ったように表情を変えられないのだ。


「ま、少しずつリハビリしましょ」


 エディットはテーブルの上にあった赤ワインをグラスに注いだ。カティはやんわりと断り、もうだいぶ冷めてしまったコーヒーに口を付けた。


「カティ」

「……はい?」

「私じゃぁ、あなたの家族にはなれないかしら?」

「酔っているんですか?」

「素面、ではないわね」


 エディットはカラカラと笑った。ワインの仄かな香りがカティの鼻腔をくすぐった。


「で、どう? 私は家族失格?」


 どう答えればいい? どう答えたら、エディットは喜んでくれる?


 ――カティは懸命に最高の答えを探そうとした。


「ふふ」


 エディットは小さく笑い、そして左手で自分のこめかみをトントンと叩いた。


「あなた、答えを考えてる?」


 その穏やかだが有無を言わせぬ口調を受けて、カティは下を向いた。が、エディットはそのカティの頬に右手で触れる。


「私を見なさい、カティ・メラルティン」


 命令され、カティはおずおずとエディットを見た。エディットはカティの紺色の瞳をがっちりと見据え、矢継ぎ早に尋ねる。


「私を喜ばせたい? 傷つけたくない? 嫌われたくない? ……どれ?」

「全部――」


 カティは瞬間的にそう答え、そして「だと思います」と付け加えた。その正直な答えに、エディットは微笑んで頷いた。


 その顔には見覚えがあった。


 いや、忘れようもなかった。


 ヨーンが度々見せた、あの少し困ったような微笑み――まるでそれだったからだ。カティは心拍と呼吸が少し早くなった自分を意識する。


「自分、えと、アタシは、どうしたら良いのか全然わからなくて――」

「好きにすれば?」


 エディットはグラスを一息で空にした。グラスをテーブルの上に置き、そして今度はそのグラスの縁に視線を固定する。


「いい、カティ」

「え、はい」

「良い子ね。じゃぁ、聞いて」


 エディットはワインを再びグラスに注いだ。


「私はね、あなたの言葉なんかで傷ついたりしないわ。あなたが何をしようが、何を言おうが、私はあなた程度の女の子に傷付けられるようなヤワな女じゃないわ。だって、今のあなたはそんなに大層な人間じゃないもの」


 正面切って言われたその言葉に、カティは絶句する。エディットはカティの目を義眼で捉えたまま、なおも言い募った。


「それにね、あなたが私のためにってわざわざ選んだ言葉。そんなもので私を騙せるとは思わないこと。残念だけど、あなたにはそこまでの頭脳はないわ」


 カティは固い唾を飲み込み、瞬きすら忘れてエディットを見つめている。厳しい表情をしていたエディットだったが、不意にまた微笑んだ。


「だからね、安心なさい。私の前では、あなたは自分を作る必要なんてないのよ。私がこの汚い顔を晒しているのと同じくらい、あなたは堂々と自分の姿を、気持ちを晒しなさいな」


 カティは頷いた。本当は「はい」と言いたかったのだが、その鬼気迫る言葉を受けて、息が抜けてしまっていたのだ。


「ねぇ、カティ」


 エディットはカティの方にわずかに近付いた。


「私のこの顔をどう思う? 気持ち悪い? 怖い? 汚い? 醜い?」

「そうは、思いません」

「どうして?」

「それは……」


 カティはもっともらしい理由を探そうと、飾り気のない天井灯を眺めた。


「わかりません。でも、そんな風に思ったことはないです」


 触れられる事だって、全くイヤではない。


 カティのその言葉に、「私がね」と、エディットは静かに頷いた。


「私が自分の顔を嫌って、隠したり閉じこもったりしている女だったとしたら、きっとあなたはこの顔を少なからず気持ち悪いと感じているはずよ。この両目だってそうよ、簡単に取り外せる目玉が、気持ち悪くないはずなんてないわ」


 エディットはすぅと立ち上がり、テレビに近付いた。そしてテレビ台の引き出しを開けて、何かを引っ張り出した。そしてそれをカティに手渡す。


「写真……?」


 バリバリに破れた痕跡があるテープまみれのくしゃくしゃな紙には、何人かの海兵隊員が映っていた。


「見て」


 エディットはカティの隣に座り、その写真の中央付近を指差した。


「この美人は、十年以上昔の私。容姿にはすごく自信あったのよ」


 そこにはふわりとしたボリュームのある金髪の持ち主がいた。透き通るような肌に、健康的に赤い唇、軍服から覗くスマートな首筋。どこをとってもまるで女優のようなきらびやかさだった。


 エディットはテーブルの上のグラスにまたもワインを注ぎ、一口飲んだ。


「この顔になった時はね、正直何回も死のうと思った。皮膚は再生できるとわかっていたけど、それでもね。今のこのお酒もその時の名残。あの時は溺れたわ、いろんなものに」


 カティはエディットを盗み見た。エディットの表情はどこか柔らかい。その口調もゆっくりと、そして、穏やかだった。


「でもね、アンディに言われた。君は一生そのままなのかって。失ったことを嘆いて恨んで終わるつもりかって。それは誰のためなんだって」


 エディットはカティの方に顔を向け、そしてワイングラスを小さく掲げた。


「一口、付き合ってくれない?」


 そう言った時には、エディットはもう立ち上がっていた。カティは何とも返事をできず、そのエディットの姿を目で追った。


 誰のため――。


 カティはエディットがワイングラスを用意するのを見ながら、その言葉を反芻する。


「さ、どうぞ」


 ぼんやりと考えているうちに、エディットは戻ってきていた。そして少しだけグラスにワインを注ぎ、カティに手渡し、二人で小さく乾杯した。カティはワインに口をつけたが、味はよく分からなかった。少なくとも安酒ではないから、きっと美味い部類に属するのだろうが、カティは酒に関しては造詣は深くない。


「私はね」


 エディットは右手でカティの肩を抱いた。まるで恋人同士のように。


「私はね、あなたがいつか、私くらいには強くなれるって確信がある。だから、私は焦らない。あなたも焦らなくて良いの。今のあなたは本当に弱い。びっくりするくらいに脆い。でも、絶対に強くなる。強くなれる。それにさっきも言った気がするけど」


 エディットはまたワインを飲む。カティは空になった自分のグラスをじっと見つめていた。


「自分を偽っちゃいけない。あなたを信じてる人の前ではね。あなたがありのままの自分を見せて、その結果、もしその人があなたに背を向けたりなんかしたら、あなたはそいつの背中を蹴飛ばしてやりなさい。追いかける必要なんてこれっぽっちもないんだから」

「……はい」


 かすれた声だったが、ようやくカティは声を出すことができた。エディットは嫣然と微笑んでワインを口にした。唇が少し赤みを増し、美しい左頬はほんのりと朱色になっていた。溶けて固まった右の頬は微動だにしなかったが、やはりそれを見ても、カティはネガティヴな印象を持たなかった。


「カティ」

「はい」

「あなた、私を信じられる?」


 え、と……。


 カティは口ごもる。エディットはワイングラスを揺らしながら、黙って答えを待った。一分か二分が経過してようやく、カティは呟くようにして言った。


「信じたいと思います」

「そうね」


 エディットはカティのグラスにワインを注ぐ。今度は少し多目だった。そしてもう一度「そうね」と言い、カティの肩を抱く、ひび割れた右手に力を込めた。カティはエディットにもたれかかり、二人の手にしたグラスの中で、ワインがゆらゆらと揺れた。


「それでいいのよ、カティ」

「――はい」


 涙声だった。エディットの手がカティの赤毛をそっと撫でつける。


「ここにいる時はね、あなたは甘えて良いのよ、精一杯。それもまたあなたには必要なことなんだから」

「……はい」


 カティは小さく頷き、エディットはワイングラスに口を付け、ほんのわずかに笑みを浮かべた。


 私も所詮は、大人。あなたたちを利用する大人。大人だから。


 グラスに映る自分の顔を見て、エディットは「なんて醜いんだろう」と心の中で呟いたのだった。

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