パラシュート

 山羊女の言っていたことの意味がようやく分かり始めていた。

 窓の外では、くすみ汚れた世界が黒い煙に覆われつつある。

 この世界は記録に残しておく価値が無い、山羊女はそう言った。

 図書館にある本に書かれているのが地上の世界のことだけだという理由が分かった。そもそも、この世界の成り立ちの最初から記録に残すつもりが無かったということだ。

 でも、誰が?

 誰にとって?

 山羊女が受け継ぎ引き継ごうとしているのは地上の世界だ。地下のこの世界ではない。

 少年は遠くの居住区で燃え上がる火の手に飲み込まれつつある建物を見つめた。

 あそこで生きていたことが、遠い昔のことのように思える。

 別世界だ。

 何もかもが違う世界。間違った、偽物の世界。

 山羊女とふたりで地上に行くのだ。

 夢のような話だ。信じられない。

 信じられなくても、それが現実だ。

 少年はさらに窓に近づいた。崖にかかった巨大な金網が見えた。その下、堀の水面からは積み上げられた瓦礫が顔を出していた。

 そうか、赤い堀は成し遂げたんだな。

 背中から少年を呼ぶ山羊女の声が聞こえた。

 振り返らなかった。

「ボクは長いこと寝てたのかな」

 少年は独り言のようにつぶやいた。。

 静かな二人だけの空間では大声を出す必要も無かった。

 背中から、一年ぐらいという山羊女の声が聞こえた。

 一年というのがどれぐらいの長さなのかが分からない。

 少年は苦笑した。

 長い時間みたいだ。でも、なんでそんなに長く眠ってたのかな。あの装置とやらのせいだろうか。

 窓に近づき、下を覗く。衛兵たちの区画でも火の手が上がっていた。煙が渦巻きながら上ってくるのが見える。

 炎や片手のやったことか。

 片手の野望は結局よく分からなかった。何か強い意志を持って行動していた。炎は地上へ行くという少年の言葉をそのまま信じていたのかもしれない。

 あれで意外と真面目だから。

 少年は炎の顔を思い浮かべた。

 何もかも懐かしい。

 太めはガキどもを率いているのだろうか。ガキどもと一緒に学校でのんびり過ごしているだろうか。

 この騒動じゃそういうわけにもいかないか。

 配給所はどうなったんだろう。

 どうしてこんなにこの世界のことが気になるのか、少年にも理由は分からなかった。

 終わると言われてから見るこの世界はどうしようもないほど愛おしかった。

 おじさんのことも思い出していた。

 おじさんはこんな騒動になってもいつものように部屋でぶつぶつと言いながら本を読んでいるのだろうか。それともひょっとしたら図書館に、すぐ近くにいたりするのだろうか。それなら会えないだろうか。

 世界が滅亡したのかどうか、少年の中ではまだ結論は出ていなかった。

 おじさんと話をしたかった。

 震える手で大きな窓に触った。

 ひんやりとした触感だった。

 山羊女の声がまた聞こえた。どうするのと言っている。

 どうするんだろう、ボクは。

 少年は首から下げた笛に触れた。

 茶色。

 茶色のことを忘れたことはない。

 茶色ならどうするだろうか。

 茶色なら、山羊女に恋焦がれていた茶色なら、ふたりで先の見えない地上へと旅立つことに迷いはなかったのだろうか。

「違う」

 言葉が口をついて出た。

「何が?」

 山羊女の声が怯えていた。

 少年は振り向いた。

 心細さで今にも震えだしそうな山羊女を見た。

 いや、既に震えていた。

 目には涙が溜まっていた。

 山羊女は泣いていた。

 山羊女も怖いのだ。この世界が滅びてしまうことが。

「行きなよ」

 少年は言った。

「ひとりで?」

 山羊女が聞いた。

「ああ、そうだよ。だって、ずっとひとりだっただろ?」

 少年は優しく言った。

「これからもひとりなの?」

 山羊女は大粒の涙をこぼした。

「さあ、それは分からない」

「アナタはどうするの?」

「ボクは……」

 少年は抱えていたカバンを背負い、マントを羽織った。

 初めて宮殿に来た日、今となっては遠い昔のようで、それでいて数日前のことのようにも思える。まだ小さかった少年に、おじさんはカバンの使い方を教えてくれた。

 緊急の時に使うとおじさんは言った。

 どんな時と少年は尋ねた。

 さあなと言っておじさんは笑った。

 高いところからだと言った。

 そんなところが一体どこにあるのか不思議だった。

 今なら分かる。

 カバンをいつどこで使うのか、やっと分かった。

「開けてくれないか」

 少年は後ろで聞いているだろう山羊女にそう言った。

 山羊女は何かを操作した。

 巨大な窓ガラスの一部がゆっくりと開いていく。

 山羊女ならこのぐらいのことはできるはずだ。少年には分かっていた。

 少年は背負ったカバンから下がった紐を掴んだ。

 おじさんが飛んだら引けと言っていた紐だ。

 茶色を思い出す。茶色は何を守ろうとしたのか。

 この世界が、この世界だけが、ボクらが守るべきたったひとつの世界だ。ボクらの記憶はこの世界にしかない。

 茶色が守ろうとしたこの世界をボクも守ろう。

 開いた窓から、焦げた、目と鼻をつく匂いが吹き込んできた。

「ひとりで行ってくれ。ボクはこの世界に残る」

 少年は世界を見下ろした。

 ようやく飛べる。

 少年は虚空に向かって初めての、最後の、一歩を踏み出した。

 茶色、ボクは生きている。生きてるぞ。ボクは世界を救うんだ。

 少年の背中のカバンから大きな布が飛び出した。

 丸く広がった。

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