山羊女

 少年は口を開けたまま固まっていた。すぐには起き上がれそうにもなかった。

「誰?」

 山羊女は明るい笑顔だった。

 うまく答が出てこない少年は、それでもなんとか立ち上がった。

「背が高いのね」

 山羊女は、今度は少年を見上げていた。

 山羊女が自分より遥かに小さいこと、腕も足も身体も華奢なこと、着ている服には派手な飾りがついていないこと。望遠鏡の小さな円の中で凝視した時の圧倒的な迫力ではなく、身近で、それでいて近寄りがたくて、後ずさりしたくはなくて。

 すべてが驚きだった。

「居住区から来たの?」

 本当に素朴にそう聞いていることはよく分かった。。

 うまく返事を返せなかった。

「話せない?」

 ほんの少しだけ眉が寄った。何かを心配しているのだろうか。

「あ、え、いや……、話せる」

「そう」

 表情がまた明るくなった。目が、何度か瞬きしてから、大きく開かれた。

「ごめんね。図書館にヒトがいるの、本当に久しぶりだから。ワタシもちょっと驚いちゃった」

 子どものような声だと思ったのは違った。子どもとは全然違う。男たちのともまったく違う。嫌じゃなかった。嫌なところがなかった。

「邪魔しちゃった?」

 色々聞かれても、どうしてもうまく答えられなかった。なんと答えたらいいのか、少年は頭が回らなくなった気がしていた。

 匂いに気がついた。嗅いだことのない匂いがする。嫌な匂いではなかった。それなのに、不安は感じていないのに落ち着かないような、胸のあたりが身体の内側から押されるような、かき乱される。何かが。

「このあたりの区画はワタシも久しぶりかなあ。広いからね、図書館」

 さっきから「図書館」と言っていることに少年は気付いていた。読めるのだろうか、聞いてみたい気もした。

「読めるの?」

 少年は思い切って聞いてみた。

「あら、読めるわよ。山羊女って言われてるぐらいじゃない。食べるぐらいの勢いで読むわよ」

 山羊女が自分のことを山羊女と言ったことに少年は驚いていた。

 どういうことなのか。

 少年は混乱していた。

「もう随分読んだわ。この区画はだいぶ前。図書館の本は保存用だから、わざわざ来なくてもいいんだけど」

 山羊女の言っていることが分からなかった。

「それにしても、ここでヒトと会うのは久しぶり。なんだかちょっと嬉しい。もう誰もここには来ないのかと思ってた」

 聞かなければいけないことが沢山あるはずだった。どれから聞けばいいのか。

「キミは、誰?」

 少年が尋ねた。

「あら、それはワタシが先に聞いたのよ」

 山羊女は笑っていた。

「あなたは誰?」

 山羊女はもう一度少年に問いかけた。

「ボクは……」

 何を答えたらいいのだろうか。

 山羊女は少年を見つめ、答を待っていた。

「ボクは……」

 考えてみたこともなかった。自分は誰なのか。

 名前はまだ無い。

 鋭い目と茶色が死んでから、他の男たちやガキどもに名前を与えてきた。

 それなのに自分の名前は無い。

「思い出せない?」

 山羊女が恐る恐るといった感じで言った。

 思い出す? 何を?

 上目遣いに見上げる山羊女の瞳を真っ直ぐ見返すことができなくなった。目を逸らす。

 自分が誰かが分からない。

 山羊女は何を知っているのか。

「思い出せないのね」

 山羊女の口調は落ち着いていた。ついさっきまでの驚いたような、どこか弾んだ口調では無かった。

「ここは思い出せたヒトが来るところなの。もう随分長いこと誰も来てない。何かの手違い? そういうことなのかもね。ワタシに会いに来たわけじゃなさそう。そうよね?」

 落胆しているのだろうか。でも、何に?

「でも、それならどうやってここまで来れたのかしら。思い出さないと、ここまで来れないはずよね。昔はね、いたの、たまに。思い出して来るヒト。居住区がさびれる前よね。このね、この世界の仕組みのひとつなの。どう? それは思い出した?」

 少年は首を振った。

「そう。残念。本当に思い出せないのね。そうよね、思い出すんだったら、回路が邪魔するからもっと苦しいはずよね」

 回路?

「あなた、何か覚えてる?」

 山羊女がもう一度、期待を込めた目で少年を見上げた。

「いや」

 少年は小さく答えた。それ以上は言えなかった。

「残念」

 山羊女は目を伏せた。

 悲しませてしまったように思えた。期待に応えられなかったことだけは分かった。

「戻れる?」

「え?」

「あなたのいた場所」

「ボクの?」

「そう。そこに」

「多分」

「なら、よかった」

 山羊女が笑顔になった。

「あなたの場所はここじゃないわね。帰ったほうがいいのかも。分かる?」

 拒絶してるのではなく、そう勧めている。そういうことだった。

「あーあ、ちょっと期待しちゃった。あ、ごめんね、あなたが悪いんじゃないの。あなたは全然悪くない。ワタシが、もう退屈しちゃって。でも、よかった。会えて。ちょっとだけ嬉しかった。ありがとう」

 屈託のない表情だった。

「じゃ、ワタシも戻るから。あなたもちゃんと帰ってね。何か思い出したら言って」

 すぐに再会しそうな、そんな口調だった。

「ん、そうか、思い出さないかも。それならどうしてここに来れたのかっていうのは不思議だけど、見てると思い出してないよね。よく分からないけど」

 ずっと近くにいた気がする。

「想定されていない事態ってこと? どこかからそういうことになるってことだったけど、そろそろなの? ああ、あなたに聞いてもしょうがないわね」

 本当に、何気ない会話だった。

「じゃ、さよなら」

 山羊女は笑顔で手を振ると、弾むような足取りで本棚の谷間を進んでいった。

 匂いだけが残っている。

 一歩も動けなかった。

 山羊女の姿が本棚の向こうに消えた。

 ようやく足を床から離すことができた。

 まだ歩けない。

 匂いはまだ残っている。

 胸をかきむしられるような後悔が沸き起こる。

 必死で身体を動かした。

 突然、全身に力をみなぎらせながら、少年は山羊女を追った。

 とっくに見失っていた。

 一瞬、遥か彼方を歩く姿を見つけた気がした。

 この機会を逃せば、もう二度と会えない。

 闇雲に走った。

 どれぐらい走っただろう。

 白い壁の前に立つ山羊女の後ろ姿を視線の片隅に捉えただけで息が止まりそうになった。

 急速に山羊女の姿に近づいていく。

 もう少し。もう少しで声がかけられる。

 山羊女の前の白い壁が消えた。

 その向こうの薄暗い空間に見たことない巨大な装置が並んでいた。

 山羊女がその空間に足を踏み入れた。

 あっという間に白い壁が戻った。

 山羊女の姿は壁の向こうに消えた。

 完全に消えた。

 少年は途方に暮れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る