名前
身体を引きずるように近づいてきた茶色が、動かなくなった鋭い目の身体を抱き起こした。大きく見開かれたままの目を手で覆い、そのまぶたをそっと閉じる。血まみれの頭を両手で胸に抱きかかえ、埃にまみれたごわごわの黒髪に頬をすり寄せた。
茶色は少年を見ていた。
茶色がどんな目で自分を見ているか、その時になって初めて少年は気がついた。
深い悲しみだけが茶色の目に浮かんでいた。
「こいつはオレに勝てるだなんて思ってなかった。悪いのは簡単に負けたオレなんだ」
茶色の声はかすれていた。
「なあ、どうして誰も彼も簡単に死ぬんだ。オレたちはなんで生きてるんだ?」
茶色はまだ温かみの残る鋭い目に目を落とした。皆が髪の毛を切る中、ひとりだけ切るのを拒み続けた髪の毛は、腰のあたりまで長く伸びていた。
「どうすればいいか教えてくれたよな」
茶色が少年に言った。
「何のこと?」
少年の声は震えていた。自分の中で弾けた何かが胸の中で暴れ続けていた。
「名前の話、覚えてるか。名前があればオレたちは忘れない」
茶色は何かを思い出すかのように遠くを見た。
「名前……」
少年は貯水池の中の小屋を思い出した。
あそこで名前の話をした。
あそこで、この道具、銃を見つけた。
「誰かが付けるんだろ? なら、付けてやってくれよ、こいつに名前を」
茶色はまた優しく胸に抱えた血塗れの顔に目を落とした。
「ボクが……」
少年は茶色の頼みに心の底から驚いていた。
殺した。なのに、名前を付ける。
「分かってるよ。分かってる。でも、じゃあ、誰が名前を付けられる?」
茶色は何度もうなずいた。そしてまっすぐに少年を見つめた。その目に、ほんの少しだけ、かつての力が戻っていた。
その目を見たら、もう断れない。
少年は自分の手がまだ銃を握り締めていることにやっと気がついた。握った手が白く固まっていた。別の手で、指を一本ずつ、ゆっくりと外していく。銃の匂いが取れなかった。手に、腕に、身体に、銃から放たれた鼻をつく匂いがまとわりついて消えない。
少年は手を見た。どうしようもないほど震えていた。
少年は自分が殺した若者を見た。
まだ若く幼く優しげな長い黒髪の若者だった。ついさっきまで怒りに満ちていたはずなのに、今は怒りの欠片も無い。閉ざされた目が開かれることはない。彼の考えていたことは永遠に失われてしまった。言葉にできなかった思いが誰かに伝えられることはもうない。
自分がどれほど取り返しのつかないことをしてしまったか、少年はまだそれを受け入れられなかった。
収まりかけていた胸の中の何かがまた激しく暴れだす。熱い衝動が震えとなって身体を突き動かす。
少年は再び周りのガキどもを見渡した。
どの顔も薄汚れて、幼かった。
ひざまずいたままの太めは、気の弱そうな丸顔の男の子だった。
血に塗れた鋭い目を抱きかかえる茶色を見た。
茶色も、まだ幼く、痩せ細った、どこまでも優しげな瞳を持つ子どもだった。
自分も変わりはない。自分もまた、ここにいる他の子どもたちと同じように、まだヒゲも生えていない子どもだ。
自分を殴ったあの子どものことを、また忘れていた。もう顔も思い出せない。
茶色は覚えているだろうか。
「名前……」
茶色が言った。
その言葉で少年は我に返った。
少年はもう一度、自分が殺した若者を見た。
「鋭い目」
少年が言った。
「なに?」
茶色が問い返した。
少年は床に転がる割れた文字板の上に土を撒き、鋭い目、と書いた。
「奴の?」
茶色が聞いた。
「名前」
少年が答えた。
茶色は安心したかのように大きく息を吐いた。そして、抱えた遺体の耳に唇を寄せ、鋭い目、と告げた。
「忘れない」
茶色は、鋭い目と名付けられた若者の汚れた黒髪をもう一度優しく撫でた。
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