帰路
「こんなの本当に効くのかよ」
太めはアルコールでの消毒に不満たらたらだった。
「怪我したあと放っておいて死んじゃう奴、見たことあるよね」
少年は真剣だった。
散々文句を言いながらも、太めは少年がアルコールで傷口を消毒することを渋々了解した。心配するガキどもが、なるべくきれいな服を細かく裂き長い布を用意していた。
どんな怪我をしても布を巻くぐらいしか打つ手は無い。消毒は怪我を治すのではなく、より悪くなるのを食い止めるだけだとおじさんには言われていた。それでも何もやらないよりましだ。
勝手に持ち出したアルコールを少年は惜しげもなく使った。太めは激痛に顔をしかめ、のたうち回り、口汚く罵った挙句の果てに疲れ果てて眠った。いつも周りで面倒を見ているガキどもが苦しげに眠る太めの額の汗を拭い、腹を冷やしてしまわないよう、そっと布をかけた。
騒ぎの興奮は冷め切ってはいなかったはずだ。だというのにガキどもの誰一人騒いではいない。誰も彼もが静かに配給所での出来事を省みていた。
茶色は本棚のある部屋で椅子に座り膝の上に本を乗せていた。遠慮したのだろうか、同じ部屋には他に誰の姿もなかった。
後ろ姿に声をかけるのがためらわれた。宮殿への行き方を教えなかったこと、おじさんとの秘密を優先させてしまったこと、少年は心の底から悔やんでいた。
肩が規則正しく上下している。茶色は静かに寝息を立てていた。
それに気づいた少年は、起こさないように部屋から出て行こうとした。
「ん、待てよ」
目を覚ました茶色が少年を呼び止めた。
「起こした?」
少年の声は小さかった。
「いや、起きた起きた。座れよ」
茶色は伸びを打った。目には徐々に生気が戻ってくる。すぐそばの机に置かれた皿には食べかけのパンと肉が乗っていた。
「腹減ってたはずなんだけどな。あんまり食えない」
茶色は肩ぐらいまで伸びた髪をかきあげた。
どこに行っていたか、聞けなかった。
近くで見ると茶色の首のあたりが年寄りのように皺だらけになっていた。腕も随分と細くなっている。足首も骨だけだ。
「あいつら、ガキどもをあちこち走らせて、配給所が大変だって言いふらさせて、それで男たちを全部かき集めようとしたらしい。そういうとこだけ知恵が回るっていうか、なんだかな」
騒動のことを言っていた。
「伝言は聞いた?」
「伝言?」
「崖を降りるのは奴を見て思いついたんじゃない。鉄格子の窓を見つけた時から考えていた。もっと下にもこんなのあるんじゃないかって」
「ああ」
崖の下に伸びた紐の記憶が甦る。
「あれは驚いたよ」
「紐は全然足りなかった。最後は飛び降りた。そのまま落ちてもかまわないって思ってさ」
茶色が虚空に飛び出したその一歩を想像して少年の胸が締め付けられた。
「ごめん」
少年は小さな声で言った。
「崖の下のほうには鉄格子の入っていない穴がけっこうあったんだ。そこにうまいこと飛び込めた。上からだと見えないからさ」
「ごめん」
少年の声は消え入りそうだった。
「でもなあ、地下に入るとすぐに行き止まりなんだ」
少年は異変に気がついていた。茶色は少年の声に反応せずに一方的に喋っている。
「許してくれる?」
少し大きめの声で、思いきってそう言った。
「それでも見つけたよ、深く通じてる通路を」
やはりそうだ。茶色は少年の言葉を聞いていない。
少年は茶色の肩をつかんだ。
「ん、ああ、どうした?」
茶色が話を止めて少年を見た。
「聞こえる?」
茶色の目を見て大きな声でゆっくりと尋ねた。
茶色は怪訝そうな、複雑な表情をしてみせた。
「少し、聞こえる……。いや、本当はあんまり聞こえない」
茶色は言いにくそうに、言いたくなさそうに、そう答えた。
少年は部屋の床に転がっていた文字板の上にしゃがみこんだ。
茶色は少年の動きを見守っている。
耳が聞こえない、少年は指で書いた。
茶色はうなずいた。
いつからと少年は続けた。
「地下で迷ったんだ」
茶色はそう言ってから顔を上に向け、何かを思い出すかのように目を閉じた。
「崖から入った通路で迷った。食べ物は持っていった。長くなるだろうと思ってたから」
茶色が話し続ける。
少年は茶色のそばの椅子に座った。
「暗くてもほんのわずかな明かりがあればいい、そう思ってた。でも、地下はすごいな。明るいところもあった。まあ、とにかく、どっちに進んだらいいかぜんぜん分からない」
少年は茶色の話を聞きながらかすかな声でまた、ごめんと言った。聞いてもらえなくてもかまわなかった。話をちゃんと聞いたら、何とかして謝ろう。
「一旦帰るつもりだった。でも、戻れなかった。迷ってもどうってことないつもりだけど、途中からどっちに向かってるのかも分からなくなって。とにかく上に登る階段を見つけて登った。でさ、下を水が流れてる通路に出たんだ。そこはそれまでと違ってほぼ真っ暗で、手探りじゃないと進めないんだ」
自分が宮殿への行き方を教えなかったせいでひどい目に遇ってしまった。罪の意識が少年を襲っていた。
「どれぐらい経ったのかも分からなくなって、食べ物は少しずつ取るようにしたよ。そのうち食べきった。すぐ下を水が流れているのに水が飲めないのがきつかった。たまに手が濡れるんだ。水が壁伝って流れてた。壁に手を押しつけて溜めて飲んだよ、まずかったけど。食わないとダメだね。ふらふらだよ」
いつもより言葉数が多かった。
「もうダメかと思ったところで見つけたよ」
茶色は何かを思い出したかのように小さく笑った。
「前に言ってたよな、楽器の沢山ある部屋」
「え?」
少年は驚きのあまり口を開けた。
茶色はポケットから金色に光るものを取り出した。
「それは……」
見覚えがあった。金色に光る楽器、その一部に間違いない。
「いっぱいあったよ、見たこともない楽器。でもなあ、触ってみる元気なくてさ。ここまで来たら帰れるって、そればっかり思って。これだけ持ってきて次に行った」
「ホールに行ったの?」
茶色は聞きにくそうに顔をしかめ頭を傾けた。
「ああ、ホールっていうのか、あそこ。天井の高い、柔らかい床の」
「そう、ホールだよ」
「それから、あそこに行った。扉を開けた瞬間に分かった。あの、すごい音のところだって。ここを通れば帰れるって。それでも迷ったよ。死にそうだし。実際、死ぬところだった。手でこうやって耳ふさいで走った。走ったよ。走った」
茶色は両手で頭を抱えたまま急にうつろな表情に変わった。
「頭おかしくなりそうで、途中で何度も吐いた。でも、ここさえ通れば帰れるんだって、そう思ってさ」
少年は茶色の手の平を上から押さえた。
茶色は生気を取り戻した目で少年を見た。
「帰ってきた」
その目から涙が零れ落ちた。
少年は何も言わず、茶色を抱きしめた。茶色の肩は細かった。背中は痩せ衰え骨ばかりになっていた。
少年の胸に顔を押し付けた茶色は声を押さえ静かに泣いた。
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