投げる男

 少年はひとりで赤い堀の崖に来ていた。

 山羊女の宮殿が見える。

 茶色と一緒に鉄格子から見た宮殿を思い出していた。鉄格子からは夜伽の儀式が行われるテラスが、ほとんど同じ高さに見えた気がする。そして、ここから見る宮殿のテラスもほとんど同じ高さだ。少なくとも少年にはそう見える。ということは、つまり、鉄格子と崖の上と宮殿のテラスは、どれも皆ほぼ同じ高さなのではないか。

 居住区は外側、世界の果ての側で高くなり、内側、赤い堀の崖の側で低くなっている。おじさんの言うホールと茶色が見つけた「ホール」にたどりつくまでの階段の段数は全然違うけれど、その位置する深さは、居住区の構造を考えると、ふたつのホールの深さは、実は同じぐらいなのかもしれない。

 それを確かめるためにここにひとりでやってきた。

 崖から身を乗り出そうとすると足がすくむ。下から上がってくる風に身体が煽られる。よろけでもしたら、そう考えると、ますます足はすくむ。膝が曲がる。足の付け根が冷たくなり、その冷気が背中を駆け上がり、首のあたりをブルッと震わせる。髪の毛が逆立った。目が回りそうだった。

 崖の途中にあるはずの鉄格子を探す。

 ほとんど真上からしか見えない崖は、途中に鉄格子があったとしても見つけられそうにもない。水が流れ出ているのならともかく、鉄格子のはまった箇所を単なる崖と区別するのは無理な話でしかない。

 腹ばいになり、掴みどころの無い地面をなんとか押さえようと身体に密着させた両手を腰の辺りでひじから曲げ、崖の外に身体を首まで、もう少し、胸まで、乗り出した。

 鉄格子は壁の途中から流れ落ちる水より上か下か、それだけでも知りたい。腰から下が溶けて無くなるような恐怖をこらえながら崖の下を覗いた。

 しばらく目だけで壁を追う。思っていたのよりずっと近く、覗きこんでいる場所から斜め下の方向に、灰色の崖とは明らかに違う黒く切り取られたような箇所を見つけた。

 足のつま先をつかってもう少し、ほんの少しだけ崖の外に身を乗り出した。

 あっと思った瞬間、身体が傾き始めた。頭が、崖の下に向かってじわじわと下がっていく。

 地面を押さようと両手を必死で動かした。手で地面を押せば押すほど身体は不安定に傾く。見開いた目で真下の赤い堀を凝視しながら、少年は指の力で体を押し戻そうと必死で力を込めた。

 このままでは頭から落ちていく。

 震えながら足の方向に向かって伸ばした手が、食料を詰め込んだ鞄に当たった。掴む。掴んで引き寄せる。身体が少しだけ壁から後ずさりする。傾きが止まった、気がした。つま先を地面に食い込ませようと立てる。わけも分からず動かした大きく動かした手から鞄が離れる。鞄を動かした反動で身体がほんの少しだけ斜めに回転した。横に倒した頭を、フード越しに耳を地面にこすりつけながら、崖から離す。

 崖の外に肩が突き出ていた。

 激しく息をした。胸が大きく波打っていた。地面に押しつけた口と鼻から居住区の乾いた土を思い切り吸い込んだ。首が強張っていた。

 目をつぶった。

 そのまましばらく動けなかった。

 目を開けてもまだ動けない。

 首の強張りを徐々にほぐしながら、慎重に、ゆっくりと、崖から離れる向きに片方の手の指と両足のつま先だけで身体を移動させる。

 崖の外に出ていた肩がようやく地面の上に乗った。

 両手で地面を押し、身体を転がした。

 仰向けになって世界の天井を見上げる。息はまだ整わない。顔は土埃にまみれている。口と鼻の周りについた土を飲み込み、むせた。苦しくなって目を閉じた。

 近くで物音がした。

 慌てて目を開けた。起き上がろうとしても身体が言うことを聞かない。顔だけを音の聞こえた先に向けた。

 片手に大きな瓦礫を持った男が、にやついた笑いを浮かべながら立っていた。

 少年は自分のフードが外れ髪の毛が見えてしまっていることを気にしていた。男は髪型を笑っているのだろうか。

 男は顔に笑いを貼り付けたまま無言で近づいてくる。

 ようやくほぐれていた身体がまた一斉に緊張し出した。けれど、腰から下に力は入らない。声を出そうにもうまく出て来ない。

 すぐそばまでやってきた男は、片手の瓦礫を別の手に持ち替えた。

 少年は急いで目を閉じた。自然と、動かなかったはずの手足が縮まり、身体が丸くなった。

「何してる」

 縮こまる少年に向かって男が言った。

 少年は目を開けた。

 男はもう笑っていなかった。

「ぇあっ……」

 返事が声にならない。

「飛び込もうとしてたのか?」

 少年は小さく首を振った。

「そうか」

 男は身体の向きを変え、崖に向かった。

 男は腕をむき出しにしていた。その腕は闘技場で闘う剣士達に負けないほど太く鍛え上げられ、それでいて、まったく無駄を感じさせない滑らかな動きで、かなり大きな瓦礫をいとも容易く空に放った。

 瓦礫は一度高く上がり、それからゆっくりと落ち始め、やがて崖の下に消えた。

 少年は身動きもせず、男が投げる姿を見ていた。

 男は最初の場所に戻ると、そのあたりに転がっている瓦礫を拾い、投げた。

「そっちは……、何をしてる?」

 少年の声は小さかった。が、男は聞き逃さなかった。

「オレはここを埋める」

「ここって……」

「堀だ。赤い堀だ」

 男は満足げな表情でそう言うと、居住区のほう、すぐ傍らの崩れ落ちた建物を指差した。

「そこのはオレが壊した。もうだいぶ放り込んだ」

 男が何を言っているのか、少年にはよくわからなかった。

 男が自分に危害を加える気が無いこと、何かを成し遂げようとしていること、それだけ分かれば充分だった。

 少年はがくがくと震える膝を押さえながら何とか立ち上がり、放り投げた鞄を探した。後ろから、男がまた瓦礫を拾い上げる音が聞こえた。

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