ホール

 少年は学校にいた。

 学校で茶色が待っている。そんな気がしていた。

 茶色の姿はなかった。他の部屋も見た。学校の中には誰もいない。

 落胆していた。どれだけ会いたかったか、自分でもわかっていなかった。学校に来てそれがよくわかった。ひとりの学校に長くいるのは耐えられない。

 学校を出た少年は迷わず瓦礫の隙間に潜り込んだ。ひとりでここに降りたのは初めてだ。天井の明かりを点けてもそこには誰もいない。暗い通路が伸びているだけだ。

 配給所の方向に向かって歩き出す。空っぽの通路に足音が響く。二人で通ったのはついこの前のはずだ。それが遥か昔のことに思える。

 後悔していた。一緒に音の壁を越えようとしたこと。おじさんとの秘密を破ってしまったこと。どれだけ後悔しても取り返しがつかないことは分かっていた。薄汚れてしまった自分の気持ちとまともに向き合う覚悟も無かった。

 茶色と初めて笛を吹いたのはこのあたりだ。

 立ち止まってあたりを見回す。茶色がどこかから現れて来るんじゃないか。僅かな期待を込めて待つ。

 裏切られることが分かっている期待は虚しい。

 唇を噛んだ。配給所に向かっておじさんと過ごす。それだけだ。

 少年は足を止めた。

 音だ。確かに音が聞こえる。聞いたことの無い音、いや、単に音というより、おじさんが歌ったあの歌のような、声のない音だけの歌、歌の無い歌。笛の音とも似ている。どこかから、微かに聞こえてくる。

 息を止め目を閉じ耳をすませた。音の聞こえてくる方向を確かめる。

 目を開けた。間違いなくこっちだ。確信があった。

 歩を進めるに連れ音が、歌が、強くなる。足取りに力がこもる。

 地下通路は崩れた瓦礫によってあちこちで行き止まりになっている。その一箇所、塞がれた一角にたどりついた。

 この向こうからだ。

 積み上がった瓦礫の上に、茶色なら抜けられそうな隙間を見つけた。迷わずそこをめざした。茶色の身軽さを思い出していた。茶色の動きと比べると少年の動きはあまりに鈍かった。

 穴だらけの天井のあちこちから漏れてくるほのかな地上の光を頼りに進む。照明のスイッチは見当たらなかった。足元が瓦礫とほこりだらけの薄暗い通路の先を見通そうと目を凝らす。さらに地下に向かって降りる大きな階段がぼんやりと見えてくる。

 少年は壁伝いに、足元を確かめながら、それでも最大限に急いで階段を下りていった。大きな踊り場をいくつか越えた。地上からの明かりはもう届いていない。暗がりを、歌だけを頼りに進んでいく。

 行き止まりの壁の隙間が光っていた。暗闇に慣れた目には、それが大きな扉だということがよく見えた。扉を両手で押した。鍵はかかっていない。少しずつ広がる隙間から漏れてくる光の量が一気に増えていく。同時に、すぐそこから歌が聞こえてくる。

 少年は予感と期待とに胸を膨らませていた。自然と扉を押す手に力が込められた。

 明るく広い空間は、おじさんと訪れる「ホール」を思わせる。それよりは狭い。かなり狭い。天井も低い。見上げるような高さではない。ぶら下がった照明は小さく暗く、本物の「ホール」のものほどきらびやかでもなければまぶしくもない。床も壁も柔らかく艶やかな焦茶色ではなく煤けた灰色で薄汚れている。壁の一部は剥がれ落ち、ばらばらになったかけらが床に無様に転がっている。

 けれど、茶色がいた。

 椅子に座り楽器を抱えた茶色が、歌の無い歌を奏でていた。

 茶色はとっくに少年に気づいていた。

 長い髪を背中におろし、生き生きと輝く瞳を嬉しそうに細め、茶色は少年をまっすぐ見つめていた。

 楽器を動かす手を休め、照れたように、それでいて少しだけ自慢げに、鼻をかいた。

「よう」

 再び楽器に手を添えると、つま先で床を叩き始めた。

 そして、また、あの、歌の無い歌を響かせる。

 おじさんの歌のように流れるようなものではない。ところどころ引っかかるように、つまづくように、途切れながら、それでも茶色は楽器で歌う。

「音楽」

 茶色がそう言った。

 少年は茶色が音楽と出会ったことを知った。

 最高の気分だった。

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