アルコール

 おじさんが設置した奇妙な装置からは、コポコポと絶えず音が響いていた。目の周りや唇のあたりを紫色に腫らした少年は、奇妙な装置を熱心に見つめていた。ポットの注ぎ口につながれた細いパイプは水を張った鍋の真ん中に置かれたコップに導かれている。パイプからは透明な液体が時折ポタリと滴り落ちる。匂いが強烈だった。鼻を突くような、目を刺すような、それでいてどこか甘さを感じさせるような、そんな匂いがキッチンに満ちている。目が回りそうだと思ったのは最初のうちだけで、すっかりその匂いにも慣れた。食べかけのままテーブルの上に長いこと置きっ放しにしてしまったパンを口の中でふやかしていく時の匂い、それと似ている。

 最初はどこかから持って来たもっとひどい匂いのするどろどろの何かだった。それを装置にかける。コップに透明な液体がほんの少しだけ溜まる。ポットの中身を何度か足し、液体の溜まったコップも何度か取り替え、そうしてコップ数杯分の透明な液体を集めると、今度はそれをよく洗ったポットに戻して同じことを繰り返す。半日ほどかけて出来上がったのは、コップ一杯分に満たないほどのきれいに透き通った液体だった。

 おじさんはまだ袖を通していないシャツをはさみで細く切り、出来上がったばかりの液体を少しだけかけた。匂いは装置の前で嗅いでた時よりも強烈だった。おさまったはずの吐き気がこみあげてくる。

 椅子に座らせた少年の頬にその布をそっと当てる。

 布の思いがけないひんやりとした感触と、ますます強烈に感じられる匂いと、両方を避けようとして思わず後ろに体をよじる。

「動くな。腫れてるだけじゃなく切れてるところがある。ちゃんと消毒しておかないとひどくなる」

「でも、匂いが」

 少年の目に涙が浮かんでいた。

「我慢しろ」

 何度も拭いてから、おじさんはようやく少年を解放した。

「頭が痛い」

「殴られたところか」

「そうじゃなくて、なんか変な感じ。目が回る」

「それはアルコールに酔ったんだな」

 言ってからおじさんは奇妙な顔つきになった。

「アルコールだ、これは」

 少年はおじさんがまた何かを思い出したのだということに気がついていた。

「どういうこと?」

「アルコールは……、そうだ、消毒に使われる」

「消毒?」

「傷口から雑菌が入り込まないようにすることだ」

 本で読んだことがあった気がする。けれど、おじさんが言っている話と結びつかない。

「地上には医者がいた。医者は病気や怪我を治療する。治療に雑菌は禁物だ」

 おじさんが思い出した知識を確認している時に話しかけても無駄だ。少年はただおじさんの話を聞いていた。

「この世界には医者はいない。この世界では誰も治療しない。誰も治療されない。病人や怪我人がいるにもかかわらず、医者はいない」

 言葉が途切れた。おじさんは眉間に皺を寄せ目を閉じた。

「大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

 おじさんは苦しげに目を開いた。それ以上思い出せない時、おじさんは苦痛に表情を歪める。それがどうしてなのか、少年には分からない。

「おじさんは医者じゃないの?」

「いや、違う」

 おじさんは大きく息を吐いた。

「違うの?」

「違う。医者はいない」

 おじさんは布を置き、急に立ち上がった。

 また、別の何かを思い出したようだった。

 コンロの上からポットを乱暴にどけ、そこに空の鍋を載せた。その中に液体を流し込む。

 強い匂いが漂ってきた。

「これではダメだ」

 鍋をコンロから下げる。机に駆け寄り引き出しの中をかきまぜる。粗い目のヤスリを二本取り出した。

「試してみよう」

「何を?」

 おじさんは少年を見た。それから言った。

「炎だ」

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