いつもより余計に時間をかけたつもりの朝食も片付けもすぐに終わった。特別なことはなにひとつない。おじさんと一緒に知らない場所に出かけるのも、それほど珍しいことではない。けれど、何もかもが違う。

 いつもとは違う日になる。少年は確信していた。

 出かける支度も簡単なものだった。おじさんの手にはあの黒いマントが二つあった。ひとつを少年に渡す。少年はおじさんの真似をして慎重に袖を通す。

 マントが見た目よりも遥かに軽いことに少年は驚いていた。配給所から持ってくる重たい服とは全然違う。一枚余分に着ているとは思えない。そして動きやすい。むしろマントを着たほうが身動きが軽くなるような気さえする。身体をどう動かしても気にならない。どう動いても布が立てる音がしない。音が聞こえない。身体を動かす音がすべて吸い込まれているような、周りの音すら吸い込んでいるような、それぐらい音がしない。

 大きなフードを深くかぶってみた。

 音が完全に消えた。

 近くにいるはずのおじさんの立てる音も自分の身体の動く音も、居住区ではどこにいても聞こえるはずの丸天井から跳ね返ってくる世界の音も、普段は気にもしていないような僅かな音も、何もかも全ての音がまったく聞こえなくなった。

 音の無い世界に吸い込まれてしまいそうな恐怖を感じて慌ててフードを外す。

「私が言うまでかぶるな」

 おじさんが言った。

「さて、靴もこっちにしておこう。配給所の靴とは違う。どこで手に入れたかは、そのうち教えよう。今は聞くな」

 おじさんから渡された靴はちょうどの大きさだった。靴も軽い。裸足と同じか、もしかしたら裸足よりも足が軽く感じられる。床を強く踏みしめて足音がしない。両足で跳ねても音が出ない。強く叩きつけるように地面を踏んでも全然痛くない。

「よし、出るか」

 おじさんはカバンを背負った。荷物は入っていない。

 おじさんが出かける時はいつも空のカバンを背負っていることは少年も知っていた。帰って来た時にはカバンには重そうな荷物が詰められている。おじさんにとっては今日もいつもと同じなのだろうか。

 おじさんはもうひとつのカバンを少年に手渡した。

「お前のカバンだ。使い方はそのうち教える。大事に使え」

 少年はカバンを背負った。思った通り、カバンも軽かった。

 少年がしっかりとカバンを背負ったことを確認したおじさんは、ゆっくりと部屋の扉を開けた。

 その先には全く知らない世界が広がっているのだろうか。

 扉の外は、そんな少年からしてみると拍子抜けするぐらい普段通りの、いつもと同じ静かな廊下だった。

 地上までの階段を降りる。

 おじさんは傷のある膝のことを忘れたかのような、軽快な足取りだった。

「少し時間がかかるかも知れないからな。急ごう」

 周りの様子を伺ってから外に出ようとする少年をおじさんが止めた。

「今日はそっちじゃない」

 おじさんは建物の奥を指差した。

 滅多に歩かない暗い廊下の両側には鍵のかかった同じ形の扉が並んでいる。開けられる扉が無いことは少年もよく知っていた。ひとりの時に何度も開けようと試していたからだ。

 廊下の真ん中を過ぎたあたりの特にこれといった特徴のない扉の前でおじさんが立ち止まった。

「ここだ」

 おじさんはマントのポケットから鍵束を取り出した。

 おじさんが別の建物でその鍵束を使っているのを見たことがあった。鍵を使って扉を開けるのはどきどきする。けれど、わざわざ鍵を使って扉を開けても、部屋の中には目新しいものは何もない。少年はその度にがっかりする。

 今日もそうなるのかと思うと、ちょっとだけ残念な気分になる。

 でも、今日は違うかも、少年はいつも楽観的だ。

「世界を読み解くための最初の鍵だ」

 おじさんは扉の鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。何かがはまるような外れるような、乾いた小さな音が聞こえた。

 扉は大きな音を立てて軋みながら、ゆっくりと開いた。

 扉の向こうから、埃っぽい、乾いた匂いが流れ出してきた。その先には薄暗い空間が広がっていた。

「ここは来たことがないだろう」

 おじさんが少年に尋ねた。

 少年はうなずいた。

「もうひとつの世界へはここから入る」

 おじさんが何のことを言っているのか、少年はよくわからなかった。部屋の中は他の鍵の開いている部屋と変わらないように見える。椅子がいくつか置いてあるのが見える。男たちの誰かが暮らしていない部屋はどれも同じようにほとんど空っぽだ。この部屋が特別だとは少年には思えなかった。

「さあ、行こう」

 おじさんは薄暗い部屋の中に入った。

 とにかく、ついていくだけだ。そう心の中でつぶやきながら、少年はおじさんの後に続いた。

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