文字
「何をしてる?」
突然の声に驚いた少年は固まったように動けなくなっていた。
おじさんの声だった。
「どうした?」
振り向くと、見たことの無い黒いマントの男がいた。
おじさんだった。
おじさんは驚いたような表情で少年を見ていた。
「何をしていた?」
その目を少年が読んでいた本に向けた。おじさんは少年と本とをかわるがわる見た。
少年はまだ声が出せなかった。
「これは、私が読んでいた本だな?」
きつい言い方ではなかった。が、少年に返事を求めてはいた。
少年は声を出さずにうなずいた。
おじさんは改めて少年を見つめた。
おじさんは驚いていた。少年が本に向かっている姿が、おじさんを驚かせていた。
「読めるのか?」
おじさんは少年に聞いた。
「少し」
本当のことを言うべきなのか、迷っていた。
「少し?」
おじさんが少年の言葉を繰り返した。
「読めるんだ」
さっきよりはっきりと言った。
「読める?」
おじさんは腕組みをしながら大きく息を吐き出した。少年を見る目が変わっていた。
「そうだよ、読めるんだ。僕は本が読める」
そう言い切って、思わず目を伏せた。おじさんの視線に耐えられなかった。
「何を読んだ?」
目を合わせなくてもおじさんの声は体の奥底まで沁み込んでくるようだった。怖かった。
「この部屋にある本はほとんど読んだ」
おじさんは長い時間をかけて忍耐強く少年に文字を教え続けていた。そうしながらも、少年が本を読めるようになるとはまったく思っていないようだった。
居住区の男たちは本を読まない。文字を読める男もいない。少なくとも少年にとって文字を理解し本を読めるのはおじさんだけだった。おじさんは他の男たちとはまったく違った。おじさんだけが道具を使って望遠鏡を作る。おじさんだけが世界を歩き回って何かを探し続けている。おじさんだけが本を読む。おじさんだけが文字を知っている。おじさんに文字を教えてもらったのは自分だけだ。だから、おじさんにとっても自分は特別なのかもしれない。そう思いたかった。
おじさんが文字を教えるのは自分が初めてではないことに少年はとっくに気がついていた。自分よりも前、他の誰かにおじさんは文字を教えていた。それもひとりじゃないはずだ。部屋には微かな痕跡がいくつも残っていた。自分には大き過ぎる服、履いたことが無いのに履き古された靴。
おじさんは少年が聞いていようがいまいが部屋にいる時はほとんどずっとしゃべり続けている。自分の前の少年たちの話を、おじさんは話していたことすら覚えていないのかもしれない。
おじさんの視線が怖かった。
文字が読めると言ってしまったことを、少年は後悔していた。
「私は本を探している」
おじさんが言った。
「どういうこと?」
おじさんは本棚に歩み寄り本を一冊取り出した。
「この本には何が書いてある?」
「だから、おじさんがよく話してる地上の世界のことが書いてあるんでしょ?」
「そうだ。ここにある本には滅亡した地上の世界のことが書いてある」
「だから、地上の世界の話は読んだ」
「だが、その世界はどこにある?」
「地上だよ。おじさんが言ってるじゃない」
「そういうことじゃない。では、こう聞こう、地上はどこにある」
「地上って……」
少年は言葉に詰まった。おじさんが何を聞こうとしているのか、よく分からなかった。
「ここにある本に書かれているのは、すべて滅亡する前の世界の話だ」
「どういうこと?」
「滅亡した後の世界のことはどこにも書かれていない」
「滅亡した後の世界って、だって世界は滅亡したんじゃないの?」
「世界は滅亡した。では、ここはなんだ」
少年には答えられなかった。
考えてみたこともなかった。世界というのは滅亡している、おじさんはそう言っている。滅亡した前の世界は滅亡した後の世界とは何か。それは一体なんなのか。
「ここにある本はすべて世界が滅亡する前に書かれたものだ」
おじさんは続けた。
「私は世界が滅亡した後に書かれた本を探している」
「それは……、」
どういう意味なのか、少年にはやはり分からなかった。
「読めるんだな?」
おじさんは改めて少年に聞いた。
少年はうなずいた。
「では、図書館に行こう」
「図書館?」
「そうだ。そこに本がある。見たことが無いぐらいの数の本がある。私は随分前からそこで本を探している」
「それは……、」
どこにあるのか、どんな本を探しているのか、少年は聞こうとしていた。
「少し遠い」
「遠い?」
「そうだ。少し遠い。が、近い、とも言える」
「どういうこと?」
「行けば分かる」
おじさんは羽織っていた黒いマントをようやく脱いだ。少年は今までそのマントを見たことが無かったことに気がついた。
「そのマントは?」
「ああ、これはマントだ。もうひとつある。図書館に行く時に使う。少し遠いからな。一日がかりだ。明日の朝、出よう」
「明日?」
「そうだ、すぐに出るにはもう遅い」
すぐ出るつもりは少年にもなかった。
「何か食べたか?」
心なしかおじさんが生き生きしているように少年には思えた。
「何も」
「そうか」
おじさんがキッチンに消えてすぐ、いい匂いがしてきた。たまにしか食べられない、おじさんがどこかから持って来た、あの美味しいスープの匂いだ。
少年はお腹を空かせていたことを思い出した。本を読み始めた時からお腹を空かせていたような気もする。
今の今まで、すっかりそのことを忘れていた。
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