第44話 しあわせなひび

 晴天時、一分。

 曇り時、十分。


 マユが空の下で安全に活動できる時間だ。

 このリミットを超えてしまうと、火傷のような重度の日焼けにより皮膚は真っ赤にただれ、さらには肝機能障害、消化器および循環器の異常、悪性腫瘍リスクの増加、意識障害といった深刻な事態を招く恐れがある。

 重ね着、日傘、日焼け止め等の紫外線対策によって多少の予防は可能だが、一般的な光線過敏症患者とは一線を画するマユにとっては、気休めにもならない。


 発症したのは、マユが小学校に入学する直前。

 いつものようにサユとアユと一緒に元気よく遊びに出かけたマユが、全身を痛々しく腫れ上がらせた状態で泣きながら帰ってきたのだ。

 何の前兆もなく。

 あまりにも唐突に。

 マユは、光を浴びることが許されなくなってしまった――――。




「がっこう……どんなとこなんだろ……。行ってみたいなぁ…………」


 二年もの間ずっと閉め切られた、薄暗い部屋。

 マユは、そこで黙々と教科書を読みふける毎日を過ごしていた。

 父や母が勉強を教えてくれる日もあるが、二人とも多忙のため孤独な日が多い。

 家庭教師の募集もしていたが、堅気じゃない人間――しかも、あろうことか組長の子に勉強を教えてくれる酔狂な個人も企業も存在しなかった。


「ただいまマユ! ごめんねー遅くなっちゃって」

「ママ!」


 振り子時計が時を刻む機械的な音だけが鳴り響く陰鬱とした雰囲気が、開け放たれた扉から入る新鮮な空気と朗らかで晴れ晴れしい声によって一変した。

 パッと顔を輝かせたマユは、部屋を訪れた背が高く髪の長い女性――母、凩栞那かんなに向かって手を広げて勢いよく飛び込む。


「マユねマユね、今日もおべんきょうがんばったよっ」

「あら、マユは偉いわね。さすが私の子だわ!」


 ぐしゃぐしゃとマユの頭を撫で、浴びることのできなくなった太陽を思わせる陽気な笑顔を浮かべる母の元気が体中に浸透する。

 マユは身長と比較して細い母の腰に手を回してぎゅっと抱きしめた。


「やぁっと面倒な仕事が片付いたから、明日はママとお勉強よ。ふふ、楽しみね」

「ほんと!? やったー! ママといっしょー♪」


 嬉しくて母の胸に顔を埋めると、庭に咲くサルビアのように真っ赤な髪が頬をくすぐる。

 ふんわりと漂う、爽やかで甘い香り。

 マユの大好きな髪。

 マユの大好きな香り。


 栞那は、寂れたうどん屋を営む貧しい家の一人娘だった。

 高校卒業後、実家の手伝いをして懸命に働いたものの、二十八歳の時に経営が破綻。

 大量に抱えた負債の中には違法貸金業者からの借金も含まれており、その取立てにやって来たのが剛健だった。

 しかし、二人が出会ったのはこの時が初めてではない。

 剛健は偶然にも彼女の店の常連客で、さして親しいわけではなかったが彼女の真面目さ、実直さは少なからず理解していた。

 半分は気まぐれで、剛健は多額の借金返済に融通を利かせ、さらには職に困っていた彼女に組の事務として働くことを提案した。

 栞那が、ほとんど手入れも疎かにしていたボサボサの髪を赤く染めたのは、この家に最初に足を踏み入れた日のことである。


「いいなぁ……マユもママみたいにきれいなかみにしたいなぁ」


 無邪気に笑うマユ。

 栞那も同様の表情で返す。


「あら、それは素敵だわ。うーん、でもマユにはまだ早いかな。もうちょっと大人になってからね」

「え~~~~っ」


 この髪は、栞那なりの覚悟だ。

 金を返すためには仕方がないとはいえ、ヤクザに加担していいのか――そんな迷いを断ち切り、決意を固めるための証なのだ。

 それが、まさか……。

 わずか数年の間に、組長となる男に恋をして妻になるとは思いもしなかったわけだが…………。


「さあっ、夕飯の用意しなくっちゃ。マユは何が食べたい?」

「えっとねー、えーっとね~…………チョコレート!」

「あははははっ! マユは本当に甘い物が好きね。じゃあ、それは明日のおやつにして……よし、今日は私の得意料理にしようかしら」

「うんっ!」

 



 凩家は建築様式、インテリア、庭木の品種、全てが洋風である。

 門と言った方が適切な両開きの厳かな玄関に、アイボリーの上品なタイルが張られた外壁、精緻な模様が施されたアーチ型の窓、広々としたバルコニーまで備えた美しい外観。

 加えて、石畳によって舗装された地面に、巨大な噴水が堂々と中央を陣取る円形の池、色鮮やかな花が咲き乱れるシンメトリックかつ幾何学的で形式美に富んだ庭園。

 ヤクザの本拠地というよりマフィア……むしろ英国貴族の屋敷といった印象だ。

 それは建物内も同様で、吹き抜けになったエントランスの正面には高級ホテルを思わせる幅の広い大理石の階段が三階までつながり、組の祝事の際にも使用されるダイニングルームには、純白のクロスが綺麗に敷かれた円卓ときらびやかな絨毯を天井高くのシャンデリアが眩く照らしている。


「うあ゛ー、つっかれた~おなかすいたぁ~。べんきょーがんばりすぎたよぉー」

「何言ってんの、遊び疲れただけでしょ。まったくもう、宿題だってマユおねえちゃんにいっつも手伝ってもらって、だらしないんだから……」

「あはは、しゅくだいって面白いねー。マユは毎日やりたいなぁ」

「はぁあぁぁぁ~……うちの娘はみんな頑張り屋さんで最高だなぁちくしょう。なあ栞那」

「ホントそうね! きっと将来は立派な大人になるわっ」


 日光を完全に遮断しているため内部から窺い知ることはできないが、辺りがすっかり暗闇に覆われた時分。

 凩一家は厨房の隣に位置する小部屋に集っていた。

 事務所としても使用している兼ね合いで警備上数名は常駐しているものの、食事は極力家族水入らずで、という夫婦の要望により他の組員の姿はない。

 ダイニングでは広すぎて落ち着かないため、ここで小さなテーブルに肩を寄せ合って談笑しながら食事をする。

 それが剛健、栞那、マユ、サユ、アユ、みんなにとって最も至福の時間だった。


「ごちそーさまでした。やっぱりママの作ったおうどんはおいしいねー」

「うんうん、あたしもそう思う。なんてゆーかこー、もちもちっとして~、えっと、う~~んと、なんかこー……すっごくおいしー!」

「……何言ってるか分かんないけど、おいしいっていうのは私も同感」


 満足そうに出汁まで残さず飲み干す娘達を見て、栞那は自慢げに胸を張る。


「あらあら、嬉しいこと言ってくれるわね。ふふふっ、何年も作り続けた甲斐があったわ!」

「栞那の料理は何でもうめぇが、やっぱうどんは格別だな。くぅっ……こんな完璧な嫁に可愛い娘……俺は何て幸せな男なんだ……!」


 目頭を押さえて感涙しながら大げさに肩を震わせる剛健。

 栞那は呆れ気味に息をついて立ち上がり、剛健の腕を引っ張る。


「あーはいはい。まったく、昔とは別人みたいに変わっちゃったわね、あなたったら。まあ、嫌いじゃないけど……。さっ、片付け手伝ってよね」

「おうともよ!」

「お母さん、私も手伝う」


 剛健、栞那、アユの三人は食器を持って洗い場へと向かった。


「あっ、マユも――――」

「おっとっとー、ちょーっとまってマユねぇ」


 サユは三人を慌てて追いかけようとするマユを制して、ポケットからトランプを取り出した。


「ふっふっふ……じつは今日がっこーであたらしいマジックをおもいついたのだよ。いやぁ、もうピコーンってひらめいたっていうか、これはぜったいびっくりするよーマユねぇ」


 そう言ってサユは口元を緩めると、少しだけ慣れてきた手つきでカードをシャッフルする。


「ホント!? すごいすごーい!」


 サユは本来、外で体を動かすことを好む活発な女の子だ。

 そんな彼女がマジックにのめり込むようになったのは、マユの病が発覚してほどなくの頃。

 たまたまテレビでマジックの特番を見たときに格好良くて面白そうだったから、とサユは言うが、本当は家から出られないマユを少しでも楽しませようという思いゆえであることは家族全員が察していた。


 サユのマジックは楽しい。

 サユが一緒にいてくれて嬉しい。

 しかし、マユにはサユの気持ちが本当に嬉しい反面、本当に申し訳なかった。


「それじゃあマユねぇ、まずはこの中から好きなカードを選んでっ」


 マユのために無理をしているのではないだろうか。

 マユのことは気にしなくていい。

 マユは大丈夫だから。

 そう、マユは言いたかった。 


「……うん。じゃあ…………これ!」


 でも、言えない。

 口に出すのが、怖いから。

 離れるのが、寂しいから。


「んっふっふー。ではでは、そのカー……ド…………を………………」

「……? どうしたの、サユ?」


 胸の奥で重い物がずしりと気分を沈め始めた矢先。

 不意に、目の前に座るサユの意気揚々とした口調とテンションが急速にしぼんでいく様子に気づき、マユは首をかしげた。

 サユは背後霊でも見るように青ざめた顔で大きく目を見開き、マユの後方を凝視たまま微動だにせず凍りついている。


「あ……あ…………あれ……って、ま……まさ、か…………」

「??」


 トランプを手から溢れ落として口を小刻みに開閉するサユの視線を追ったマユは、壁の隅……視線の高さに張り付く小さな黒い生物を、はっきりと捉えた。

 捉えてしまった。


「ご……ご……ゴ、ゴキ…………」

「………………」


 いかにセキュリティの優れた要塞の如き大豪邸であろうと、夏の訪れと共に密かに忍び寄る風物詩的害虫。

 ゴキブリである。


「ぎゃああああああああああっっ!! た、たたた、た、たすけてマユねぇーー!!」

「………………………………」


 サユは甲高い声を上げて弾かれたように飛び上がり、両手両足をマユに絡めて抱きついた。

 一方、助けを求められたマユの方は――――。


「………………………………」

「……ま、マユねぇ?」

「…………×@∂:+†☆〆〒⊃§∀∵△~~~!?」


 状況を把握するために十秒以上の時間を費やした後、声にならない叫びを上げてサユに抱きついた。


「んなー!? そ、そーだったーーーーっ! マユねぇゴキブリがだいっっっきらいだったあああああああっっ!!」

「%&$#※□⊿∥♭ーーー!!」


 お互いに目はゴキブリに釘付けになり、ほんのわずかな動きに悲鳴を上げながら強く抱き合う。

 ゴキブリはというと、二人の心中など知る由もなく無音で這い回り、家具の隙間へと入ろうとする。


「くぅぅっ……こ、ここでにがしちゃったら今日ねむれないよぉ……。こーなったら、あ、あたしがやっつけるしか…………!」


 意を決したサユは、しがみつくマユを引き剥がしてテーブルの上に広げてあった新聞紙を丸めた。


「さ、さ、サユ……だ、だいじょうぶ……? マ、マユ……マユ……が……」

「だ、だいじょーぶだいじょーぶ! あたしが本気だせば、こんな……こんなやつ、くらい…………」


 腰が引けた状態で手を思いっきり伸ばして新聞紙をゴキブリに突きつけるサユ。

 しかし、ゴキブリまで三メートル以上は離れており、到底届く距離ではない。

 ジリジリと足を引きずって近づこうと試みてはいるものの、目標が少しでも動きを見せるたびに大きく飛び退いて事態は一向に進展する気配がない。


「にゅぅぅ……が、がんばれあたし! あたしはつよい子――――あっ」


 必死に戦意を奮い立たせるサユが強く握り締めていた新聞紙は、突如として手から離れ――吸い寄せられるようにゴキブリを直撃して叩き潰した。


「はぁー…………さわがしいと思ったら……こんな虫くらいで情けないなぁ、サユおねえちゃん、マユおねえちゃん」

「「ア、アユーーッ!!」」


 大きく溜め息を付きながら手際良くゴキブリを処理するアユに、マユとサユが飛びついた。


「わっ!? な、何なの二人とも!?」

「たすかったーー! たすかったよーアユ~。ありがとー、ほんっとありがとおおおおっ!!」

「すごいよーアユ。マユこわくて何もできなくて……ありがとーー!」


 大げさに感謝を述べて輝く瞳を向ける二人から目を背け、アユは居心地悪そうに頬を掻く。


「そんな、たかがゴキブリくらいで……。あんまりうるさいから仕方なくっていうか、別に助けるつもりもなかったし……」

「へぇ~~? その割には、声が聞こえた瞬間に一生懸命走ってったわねー。ねえ、あなた」

「おう! 歳は一番下だが、やっぱりアユはメチャクチャおねえちゃん思いでしっかりしてるぜ!」

「な゛っ!?」


 気づけば剛健と栞那もいつの間にか戻ってきており、夫婦揃って穏やかな笑みを浮かべて娘達を見守っていた。

 二人の言葉にアユが動揺をあらわにして忙しなく視線を動かす。


「そ、そんなことないもん! 私はただ、あの、その……と、とにかく、ちがうんだからっ!」

「「アユ~~ありがとーーーーっ!」」

「ああ、もぉーーーーーーっ!!」



 変わらない日常。

 温かい家族。


 マユは幸せだった。

 お日様の下に出ることはできなくなったけれど。

 そんなことは些細なことだと思えるくらい、満たされていた。


 願わくば、これから先ずっと。

 こんな日々が続けばいいなと、そう思っていた――――――。




「――駄目ですね。三日間張り込んでますけど、中の様子は一切分かりません」

「……ルカ、本当なんだろうな? これが組長の指示だってのは」


 凩家から数百メートル離れた高層マンションの一室。

 そのベランダから双眼鏡を手に凩家を眺める短髪の男が一人。

 すぐ隣で煙草を吸うサングラスをかけた男が一人。

 そして…………。


「やぁだなぁぁあぁぁぁ超マジ本当ですってぇぇえぇ、直接確認してもらってもいいですよぉぉ? それでそれでぇ? 何か頑張っちゃった成果はありますかぁぁあ?」


 部屋の隅でサバイバルナイフを指で器用に回して手遊びをする、ルカと呼ばれる長身痩躯の若い男。

 一人だけ緊張感の欠けた間延びした声で、双眼鏡を覗く男に尋ねる。


「情報通り、凩剛健には三人の娘がいますが、長女だけ学校にも通わず一度も外出していません。どの部屋のカーテンも閉じたままであることから、例の病気の噂は信憑性が高いと思われます」

「へぇぇぇえぇぇ……まだちっちゃいのに難儀なもんですねぇぇええぇ」

「……昼間は常時二十人以上の組員が滞在していて警備が厳しい。だが、夜間は平均して五名以下……狙うなら深夜だろう」

「ふぅぅぅむふむぅううぅぅ……」

「スケジュールの調査を行ったところ、来週の土曜日、凩剛健は会合で出張、宿泊の予定です。おそらく大人数が同行するものと思われますので、自宅の方はこの日が最も手薄になるかと」

「なぁぁるほどなるほどぉぉぉぉおぉおお」


 なおもナイフをクルクル回しながら、細身の男は聞いているのか聞いていないのか判別のつかない、人を食ったような態度でいい加減な相槌を繰り返す。


「おい、ふざけてんじゃねえぞルカ! てめえ、組長の懐刀だからって調子乗ってんじゃねえぞこらぁっ!」


 サングラスの男が苛立った様子で声を張り上げる。

 だが、ルカはまるで動じることなく愉快そうに口元を歪ませた。


「ぅわぁぁあぁこわいこわぁぁぁい。やあぁぁ誤解されやすいんですけどぉぉお、これでいたって真面目なんですよぉぉお僕ぅぅ」

「…………チッ! まあいい。仕事さえキッチリこなしてくれりゃあな」


 床に叩きつけた煙草を乱暴に踏みつけ、忌々しそうに言葉を吐き捨てるサングラスの男に向かって、ルカはゆらりと立ち上がって大仰に手を広げる。


「お任せくださぁぁあぁぃい。実はですねぇえぇ、僕すっごいすっっっごい楽しみなんですよねぇぇぇえぇえぇ、今回の、お・し・ご・とぉ♪」

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