第三部

第1章

残喘(1)

 その日は熱帯夜だった。

 アウロ・ルシエラ医師は冷たいコーヒーで喉を潤しながら、ラップトップのキーボードを軽快に叩いていた。久しぶりにオペも急患もなく、彼女は【〇五〇号】計画のその後について、深く思惟できると思っていたところだった。

〝ウイング〟が現れたのは。

 ルシエラは背後に訪れた気配を、看護師のユリア・ウィットネスだと勘違いした。

「ユリアくん。入るときくらいノックを──」

 言い終わる前にルシエラの腹部を刃が貫いた。臓器から溢れ出た血液が彼女の白衣を赤く染めていく。

 ルシエラは自らの血で溺れながら、背後を振り返った。

「……レイシアか」

 まばゆい灰色金髪アッシュブロンドを携える少女。立ち姿はしなやか。優雅で壮麗な彼女はレイシア・フォン・フェテロベル。細い骨格に良質な人工筋肉の体躯は八頭身。胸と腹を絞る、黒いビスチェが少女の生めかしい肢体を端麗に見せていた。

「その名はもう捨てた。今はウイング」

 レイシアは莞爾かんじに笑い、雄麗な翼を広げた。

 狭い部屋を漆黒が覆い尽くす。

「ねえ、先生。あなたには自覚があるのかしら。悪魔を作り上げたという自覚が」

「くだらない」

 確かにルシエラ医師はバンブル孤児院の研究者として、ハードウェア開発を行なっていた。もちろん、鋼鉄の子供たちスチール・チルドレンを作り上げることに対して、少なからず後ろめたさはあった。しかし、人間に対する倫理観よりも、研究者としての性が優ってしまった。当時は。

 だが、今更になって罪悪感を感じたのも事実だった。ゆえに彼女は誠心誠意、薊セナを含める子供たちと向き合うことにした。正しく導けるとまでは思っていなかったが、せめて彼らが迷った時には道を示すことくらいはしようと思った。

 それはルシエラの囁かな罪滅ぼしだったろう。

 いつかはこんな日が来ると思っていた。いや、先月オーフェン・グラハルドが訪れた際、その日がやって来ると感じた。だが、薊セナとロコ・コココによって幾ばくか運命という寿命が延命してしまったのだろう。ルシエラはそう思っていた。

「狙いは何? それとも計画はまだ終わってないの?」

「無論、計画は終わっていない」ルシエラは淡白に返した。「見苦しい言い訳をさせてもらえれば、私はいち研究員にすぎない。主導したのは私じゃない」

「ご安心を。関係者は順次、葬る予定なので」

「ネズミの尻尾切りというやつだな。君も私も、チェスボードの駒にしかすぎない」

「今、盤上を操るのは薊夫妻ではないわ。その息子、薊トウヤ」

「そこまで知ってしまったのなら、止めるのは無理だろうな」

 復讐か、とルシエラは呟いた。

「果たしてその感情は人間のみに許された憎悪であろうか」

「そうでなければ、なんだというの?」

「私は、魂とプログラムの融合の先にもう一つ次の段階があると予想している」

 そう仮説したルシエラは、薊兄弟の動向をずっと追いかけていた。一方は、侵食を受け入れ、シンプルな意識となった。もう一方は、自我の狭間でまだ揺れ動いている。この対照実験は【〇五〇号】計画の最終実験だった。

 罪意識に苛まれながらも、ルシエラは実験を続けた。いや、その実験はルシエラ一人が止めようとしたところで止まるものではなかった。また、止める方法もなかった。すでに機械の身体を手にいれた彼らは遅かれ早かれ、結論に至るしかない。たった一つだけ、結果を回避する方法があるとすれば、死のみである。

 ゆえにルシエラは、捻じ曲がった結論に至らないよう調整してきたつもりだった。できるなら、二人ともを正しい場所に着地させたかった。だが、それはもう叶わぬ夢であるとルシエラはずっと前から知っていた。

 ルシエラは血に濡れた手を伸ばし、紙媒体を拾い上げた。

「これは私が書いていた論文だ」

『〝外在的無意識〟が自我にもたらす変容性の加速』

「意識はいくつかの段階を経て、統合する。

 初期段階、無自覚。

 第二段階、二元意識。

 第三段階、意識融合。

 第四段階、変異。

 そして最終段階、完全統合。

 これは脳という一つの器官に意識を収めてしまうがゆえの必然性だ。しかし、これは別に機械化したがゆえに起こり得ることではない。言い換えれば、ということだ。

 少年少女たちは世界の法則、社会のルール、大人の国を見て知り学び、適応しようとする。その時、個人という存在は少しずつ変容していく。

 幼少期の自分と今の自分は果たして同じだろうか?

 同じ部分もあるだろうが、少なくとも、我々は子供のままではいられない。私だって昔と今が違うことくらい自覚している。ただし、完全有機人間パーフェクト・オーガニック全身躯体フルボーグにおいては変化量や方向性は異なるだろう。また部分的な機械化も割合は異なるだろう」

 それがここ数年、ルシエラが研究してきた仮説だった。

「一体、どうなるというの?」

 レイシアは純粋な疑問を投げかけた。

「そんなもの、私が知るはずもない」ルシエラは鼻を鳴らす。「私は君ではないからね」

 レイシアは目を剥いた。

「バカな!! この私が!? この化け物を知っているくせに!?」

 ルシエラは驚きを見せたあと、冷静にこう述べた。

「……は君だったか」

「ねえ、先生。どうすればいいの? 私はどうすればこの怪物を止められる? 混ざり合ったこの怪物たちを」

「……残念だよ、レイシア」

 ルシエラが呟いた直後、鎌が振り上げられた。鋭い刃先がルシエラの鎖骨を砕き、その下の動脈を分断した。レイシアはさらに鎌を突き立てた。

 執拗に。

 執拗に執拗に執拗に執拗に執拗に。

 怒り狂った刃を振り下ろし、レイシアは快楽にも近しい哄笑をあげた。あげ続けた。肉に食い込む音色と血が吹き出る音と、レイシアの笑い声が混合し、部屋に反響した。

 ルシエラは、骨が砕ける異音を聴きながら、肉がざっくり裂けていくのを感じながら、冷静な所見を考えた。虚血による低酸素症、呼吸困難と吐き気やめまい。脱水症状が恐ろしい速度で進行している。つまり、体液のほとんどを失っているとルシエラは結論した。従って、もう助からない。

 消えゆく意識の中、彼女は最後の結論を見出した。

 この世界の向こう側は、痛みのない天国へと陥るだろうと。

「……頼んだぞ、トウヤ」

 ルシエラは最期、煙草シガレットに手を伸ばそうとした。

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