第4章
幕間(1)
一夜明けた。
誘拐されていたリリィが目覚め、事態の把握に目を回していたが、彼女は状況を飲み込んだのか、一言「ありがとうです」と感謝を述べて、以降は押し黙った。
溢れ出る悲しみが収まるまでぼくは泣いていた。
目が覚めたロコが優しくぼくの頭を抱えて、その胸でぼくの悲しみを受け止めてくれた。
少し冷静に返ったぼくは、鋼鉄の心臓に刃を向けようとした。《ぼく》はただ黙って、その刃先を見つめているようでもあった。
こんな命、もろとも壊してしまおう。
そう思ったが、悲しそうな表情をしたロコがぼくの手を止めた。
「誰もきっと悪く無いのです。セナさんも、トウヤさんも。きっと私たちを造った誰も、こんな未来は見えはしなかったのです。だから悪く無いんです」
それでもぼくはぼくを許せはしなかった。
「だからどうか、私のために生きていてはくれませんか? セナさんが生きてくれさえすれば、私は幸せを感じますから。だから、私の幸せのために生きていて欲しいのです。ひどくエゴイスティックかもしれませんけれども」
「こんなぼくでも、君はまだ好きだと言ってくれるの?」
「はい。それだけは揺るぎない想いです。どんな姿でも。どんなセナさんでも私はあなたが好きです。だって、最後までセナさんは私の知るセナさんだった。最後まで彼を助けようとしていたから。大丈夫です。まだあなたは失われていません」
力の抜けた腕が垂れ下がる。
刃物で貫かれたように心にはぽっかりと穴が空いていた。せっかく地獄から抜け出たと思えたのに、地獄は永遠に続いている気がした。心に空いた穴を埋めるように感情が次々にこぼれ出る。カップに注ぎ続けた水が溢れるように。その度にぼくはまだ人間であることを感じる。ぼくは半分の機械で。人間を捨てきれずにいる中途半端な存在。
胸苦しくて涙が止まらない。悲しいかどうかもよく分からないのに、ただ涙が止まらない。ぼくは子供のように泣きじゃくっていた。
ロコはそっと手を握ってくれた。
その体温が余計に辛く感じた。いつか自分の血も凍っていくのだろうかと思うと強烈な不安に駆られる。ぼくは一体、何者だろうか。なんだろうかと、疑問の海に沈みゆこうとする。
「セナさん」
ロコの優しいさえずりがぼくの耳を通じて脳を浸した。
「私はずっとあなたを愛します。押し付けだとしても、ずっとずっと、あなたを愛することは変わらない。そう誓います。対価も見返りも何もいりません。あなたの手足となります」
「ロコ……側にいて欲しい」
一人になりたくなかった。
ぼくはその優しさに甘えようとしていた。
「はい。この魂が朽ちても永遠に。あなたの側にいます」
***
リリィを家まで送り、ぼくとロコはアイビー市北東にあるシオン区へと赴いた。
オーフェンを収めていた器を抱いて。
そのなだらかな丘は、茫漠な墓地が広がる地帯だった。あまねく雑草が続き、一面、白く清楚な花が咲いていた。ホワイトレースフラワー。傘のような
ぼくらは教会に事情を説明した。躯体を納棺することに牧師は嫌そうな顔をしたが、金を払えば渋々承諾してくれた。
「地獄の沙汰も金次第、か」
「アイロニーですね」
ぼくとロコは棺に祈りを捧げた。
丘には静かな風がそっと頬を撫でる。ロコの金髪がふわりとそよぐ。
「ねえ、セナさん。ついでだから、式を挙げません?」
ロコは陽気な表情を取り繕って言った。
ぼくは疲れた表情の中、少しだけ笑うことができた。
「気がはやいよ」
というか、あれはそういう言葉に誤解されたのかと、今更ながらにしてぼくは思うのであった。ともあれ、これと言って否定する理由もなかった。
再び教会に入り、ロコはドレスを着られないかと交渉していた。
ぼくは長机に腰掛け、夕暮れが降り注ぐステンドグラスの輝きをぼんやりと眺めていた。
ロコが振り返って、嬉しそうに頬を崩していた。小走りで近づくと、模擬的な式を体験するサービスがあるらしい。そうしてロコは着替えに向かった。
この数日、いや数週のうちに密度の濃い時間が流れた。
記憶を咀嚼するようにぼくはゆっくりと思い起こす。それから、この先には一体何が待ち受けているのだろうかと想像してみるが、うまく象れはしなかった。
この時、裏面の方は出て来ず、寝入るように沈黙していた。
思考の海に浸っていると、見慣れた後ろ姿が横切る。
ふと足を止めた女性が振り返る。
修道服を着た女性はこう言った。
「サボタージュ犯」
しとやかで穏やかな風貌のリール・フェテリシア先生。担任教師だ。
「フェテリシア先生……どうして、ここに?」
「それはこっちのセリフですよ。薊君。今日は前期の修了式だというのに、君は夏休みを迎えない気ですか?」
「いろいろあって……」
しかしフェテリシア先生はそれ以上咎める気はないらしく、柔らかく微笑んだ。
「心配してましたよ? みんなが」
そうですか、とぼくは力なく答えた。クラスの友達とやらの顔をぼくは思い出せずにいた。その顔立ちはひどく不透明にぼやけていた。このまま夜に浸り続ければ、存在ですらも記憶から消されていってしまうような気配を感じた。
「隣、いいですか?」
そう言って、先生は席に着く。
「少し話いいかな?」
ぼくは曖昧に頷いた。
「神の前で嘘は許されませんから」
ぼくはお説教が始まるのかと思って、ため息を吐く。
「君が何をしているのかまでは聞きません。ですが、高校生をやると決めたからには、できる限りの努力をすべきです。もっとも君はギリギリとはいえ、テストで結果を残しましたから意思はあるのだと私は思います」
ぼくは生返事を返した。
「それぞれには、それぞれの事情があるでしょう。残念なことですが、学院では短い時間ながらも去ってしまう子達がたくさんいます。先生の個人的な思いを言わせてもらえれば、少し寂しいです。同様に、クラスの子達もそう思っていることでしょう」
教師という肩書きがそう言った綺麗な言葉を言わせるのだ。
「すみません」
ぼくは心にもないことを言った。
どうしろというのだ。ぼくが真実から目を逸らして、普通を演じていれば、きっとこの人は満足だったのだろう。リリィが外国に売り飛ばされる事実に目をつぶって、高校生であれば、フェテリシア先生を満足させられたのだろう。ぼくの身体は一つしかない。ゆえに何かを選ぶには何かを犠牲にしなければならない。
「できる限りの努力はしているつもりです」
ぼくがそう言うと、フェテリシア先生は難しい顔をした。苦しそうに。
きっとこの人は優しすぎる。穢れを知らなさすぎる。銃を握ったこともなければ、むき出しの外気に命が晒される極限を味わったこともないだろう。
ぼくとは生きている世界が違う。
「つもり、なんて言葉が出てくるうちは、まだ限界じゃないはずです」
心を貫かれるような言葉だった。
これ以上ぼくに重責を与えないでほしい。今は高校生なんてちっぽけなことに構っていられないのだ。ぼくの心はもうぱんぱん。これ以上の負荷には耐えられそうもない。もしもこれ以上ぼくに何かを強いるというのなら、ぼくは感情をむき出しにする危険性があった。だから、それ以上は何も言わないでほしいと願った。
「手を組んで」
フェテリシア先生はそう促した。
「お祈りしましょう。君に平穏な日が訪れることを」
ぼくは目を丸くした。
「私にはこんなことくらいしかできませんが、協力できることがあれば言ってください」
不随意に片眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。
ぼくは神なんて信じない。神様なんていない。だってここは地獄だから。ここにいる神様は死神だけだと思っていた。だけど先生のその祈りは、その優しい願いはぼくの心の奥深くに響いた。神様よりもずっと信服に値すべき人だった。
次に先生は、真っ白いドレスに着飾ったロコを見つけ、「あら」と感嘆を浮かべた。
「とても綺麗……。薊君の彼女?」
ぼくは言葉を濁した。
その時ぼくは知った。
幸せとは一瞬にしか咲かない儚い花のようだと。
その一輪の花が永遠に咲き続けられないことを知っているから。プリザーブドフラワーのように、永遠を閉じ込めてしまえばその美しさは失せてしまうから。
それでもロコには長く咲いていてほしいと願った。
ぼくは誓った。
いるのかいないのかわからない神に。
ロコに本当の幸せが訪れる日を守ろうと。
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