変異(4)
アヤネとは駅で別れ、ぼくはルシエラ医院に定期検診に訪れていた。検診といっても、主治医であるアウロ・ルシエラ先生の私室でお茶をしながら近況報告会といったところ。
スツールに腰掛ける細枝のような女性は、
「調子はどうかね?」
と首を傾けながら問いかけた。
「悪くないです」
「夢遊病の方はどうだ?」
ええまあ、とぼくは言葉を濁した。
ぼくは横目でリクライニングチェアを覗き込んだ。隣にはロコ・コココがいた。
曰く、彼女もルシエラ先生の患者らしい。ロコは、身体中に吸盤付きの電子コードが付着しており、その艶かしい肢体には布切れ一枚だけが被せられていた。光に溶け込んでしまいそうな白い肌。幼顔が残るものの、思わず目を奪われる端正な横顔。それから起伏ある乳房の稜線が狭間見えていた。
「
ぼくはさっと目を逸らす。
「そういうわけじゃ……」
「恥ずることはない。君くらいの年齢ならごく当たり前のことだ。むしろ私は君がエロスを忘れていなくて少し安心しているよ。なにせ、機械に生殖機能は無意味なことだからね。しかし面白いのは、コンピュータウイルスに限っては、自己増殖ではあるが、
ルシエラ先生は白衣のポケットに手を突っ込んで、銀色のケースを開いた。小指ほどの棒を見せつけ、
「悪いが一服させてもらうよ」
とオイルライターで
あまり表情の変わらないルシエラ先生だが、紫煙を吸い上げるその時は、とろけるような惚け顔を浮かべていた。
「意外です」
「そうかね?」先生は灰皿に煙草を叩きながら言った。「経験則的統計上では、賃金労働者ほど喫煙者が多い。だが、ホワイトカラーであっても激務な職種ほど、喫煙者は多い。医者でも健康リスクを知りながら、目の前のストレスを鎮圧するために溺れる人間はいるさ。それに私は長生きしたい方ではないから」
ルシエラ先生は自嘲的に口端を緩めた。
「今時、ガンを患っても、人工臓器に取り替えればいい話だ。そもそも、喫煙者は最初から人工肺や人工血管に換装している。煙草を吸うためにね」
「先生も?」
「言ってなかったか? 私は
ふふ、と先生は不敵に笑った。煙草をもみ消すと、足を組み替えた。
「依然先生がおっしゃった、制御ウェアが自我を侵食するってのは、具体的にどういう状態を迎えるのでしょうか?」
ぼくは出し抜けに質問した。
「様々だよ。私の経験上、それは実に様々な症例だった。意図せぬ奇行を起こすものもいれば、今まで通り変わらずにいる人もいる。どんな変化をもたらすのかは、十人十色である。だが、理屈的に誤解してはならないのは、プログラムそれ事態が脳を書き換えるのではない。そんなもの、構造的に不可能だ」
ぼくは大きく首を傾げて、疑問をあらわにした。
「以前まで
ぼくは拷問じみた訓練で無理やり腕の動かし方を習慣づけたが、普通は半年ないし一年ほどのリハビリ期間を経て、社会復帰する。運動神経のいい人なら三ヶ月くらいで筋電部位の使い方をマスターする。
「リハビリが終わったあと、筋電部位からこのマイコンを取り除く」
先生は小さな電子チップを摘んでぼくに見せた。
ぼくは無意識的に右腕をなぞっていた。
「以前までの組み込み系はフィードバック制御だった。だが、二年ほど前からフィードフォワード制御に変わり、まるで自分の手足のように動かせるようになった。指令値や外乱を修正する機構のことを指す。とはいえ、内部プログラムが大きく変わったわけではない。脳が機械の方に順応するんだよ。その研究をしていたのが【〇五〇号】計画の一端でもあった」
要するに、と先生は言葉をつないで、
「脳がマイコンの代わりをするようになる。脳が自らの言語でコーディングする。この訓練をするのがリハビリの意味だ」
「つまり、ぼくの脳の中にソフトウェアがあると?」
「たとえば、コンピュータで言うところの仮想記憶部分。運動野の神経細胞に制御プログラムをインストールするようなものだ。だから、機械化するには若いうちがいい。歳をとると人間は頭が固くなって行くからね。だがこれは同時にリスクを抱えている。感受性の高い青年期に論理の権化を頭に内在することの意味。これは自我への影響は計り知れない。以前、そう説明したはずだね?」
ぼくは頷きにもならないゆっくりとした動作で首を下げる。
「ぼくの夢遊病や、兄さんがああなったのは……」
いいや、と先生は断言した。
「先も言ったが、必ずしも脳が
先生はぼくの頭を指差し、
「遅かれ早かれ君も今とは違う何者かに変わりゆく。大人になっていく。だが恐れることはなかろう。機械の身体があろうとなかろうと、デジタルかアナログの違いこそあれど、もともと私たち人間という知的生命体は、緩やかに、時にダイナミックに変革期を迎える意識体だ。良し悪しは別にして」
「……先生もそうだったと?」
すると先生は目を丸くしたあと、頬をほころばせた。
「私は昔、病弱な女の子だったさ。寝たきりのか弱き少女だった。自分の未来に絶望して、自分で歩むことすらしようとしない世間知らずな少女だったよ。今では
先生は自嘲とも冷笑とも覚束ない、疲れた笑みを漏らした。
そんな女の子は大人になって、ぼくに哲学を説いていた。立派に医者をやっていた。
ぼくにとってその前例は少しだけ勇気をもらえた。
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