混成(2)

 春の嵐が過ぎ去ってはや二ヶ月。

 肌にまとわりつく蒸し暑い季節。アイビー市の七月は雨季の季節だ。

 空はどんよりと曇っていた。

 たっぷりと悲しみ蓄えた雲が今にも悲愴を吐露しそうな天気。鉛色の空は少し憂鬱。

 夕方が近づくとメランコリーになる。

 だってこれから夜がやってくるから。

 ぼくはあいも変わらず高校生を演じていた。仮面の男と高校生を演じる分ける薊セナの日常にこれといって変化はなかった。

 教室の空席は空席が増えていた。半分ほどが来ていない。その理由は様々らしいが、春の嵐の際に巻き込まれた生徒もいた。街を舞台にした兄弟喧嘩に巻き込んだことに、少なからず良心の呵責のようなものをぼくは感じていた。

「──おい、薊。聞いているのか?」

 教師がぼくの名を呼んだ。慌ててぼくは「はい」と機敏に返事した。

「この問題やってみろ」

 今日の最終授業は数学だった。ぼくにとって、数学も命をかけた戦闘もさほど変わらない。どちらも地獄という点において。

 指数関数を意味する数式だということくらいはわかるが、弓なりに歪曲した曲線をわざわざ数字で表すというファンタジィはさっぱりだ。

 これを考えた数学者の頭はきっと狂っている。ベクトルこそ違えど、ぼくと同じくとち狂っている。その曲線を数字で表したところで、本質的にその曲線の姿を捉えているわけじゃなかろうに。だからぼくは数学というまやかしが嫌いだった。物理も奇想天外だったし、化学も社会科も言語の授業も。要するにぼくは勉強すべてが苦手だった。馬鹿には生き辛いところ。それが高校という場所らしい。

 ぼくは背中に突き刺さる哀れみの視線を感じながら、チョークを持ったまま固まっていた。ギブアップして、黒板に背を向けると同時、艶やかな黒髪が眼前に飛び込んだ。

 ローズのような華やかな香りが鼻腔をくすぐる。

 すらりと背が高い少女。天才プログラマー。完全有機人間パーフェクト・オーガニックでありながら運動神経抜群。細っこい首を咥え込むヘッドホンがトレードマークの少女、黒羽くろはねアヤネ。

 サンタマリア学院の夏服がよく似合っていた。黒い宝石のような髪と赤いリボンが無垢を綾なしていた。白いブラウスに土色のジャンパースカート。白いソックスがスラリと伸びる脚をタイトに包み込んでいる。洋服を着せたお人形さんみたいに、少女を美しく着飾っている。

 そんな彼女は、凛とした眼差しでぼくを見つめるとこう言った。

「この世に人間が解くことのできない問題なんてないのよ。時間がかかったとしても、必ず人は何かを見つける。ヒントは必ずそこに隠されている」

 そう言って、アヤネは黒板に記号を書き足した。

「君は多くを知らないだけ。でも知ってしまえば君は使いこなせるの」

 アヤネはチョークをぼくに返して、柔和な笑みを見せた。

「数学って異質よね。それだけが、たった一つの答えしか持っていないもの。でもそこにたどり着くまでの過程は色々あるものなのよ」

 ぼくは黒板に目を戻した。アヤネがくれた記号を見つめる。暗号にしか思えなかった問題に、おぼろげな標識が加えられた気がした。

 頭の中に道筋が見出されると、チョークは黒板を走り始めた。

「ほら、できるじゃない。君は知らない馬鹿かも知れないけれど、愚か者ではないわ」

 最近、アヤネは積極的に絡んでくる。特に授業中。なぜか、教師に名指しされる機会が増えていた。回答にまごついていると、アヤネが助け舟を出してくれる。そんなわけで、僕たちは恋人関係にある、とクラスメイトは思っているが事実無根である。

 以前、それっぽい会話を交わしたけれど、アヤネもぼくも異性としてではなく、一人の人間として認め合っている。それ以上の感情はなかった。──いや、少なくともぼくは好意を持っていたのだけれど、恋なんて今までしたことのなかったぼくが、それを異性として好きかどうかはまだ疑わしいところである。

「じゃあ、これもできるでしょ」

 そう言ってアヤネは新しい問題を黒板に書き上げた。

 最近のぼくは教壇に立たされて、アヤネの出す問題に付き合わされている。ぼくにとって、そんなことどうでもいいのに。兄さんが帰ってきたぼくにとって、数学なんて必要なかったのに。

 だって兄さんが答えをくれるから。

 アヤネ自家製の問題を解き終わったぼくは、心にもない「ありがとう」を告げた。

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