そして旧校舎の保健医はここで

第49話

 煙草を吸えなくなって、どれくらいが経ったか。

 いまでもときどき、吸いたくなる。

 そして、吸えないのだと気づいて、苦笑する。

 ――先生。

 ときどき時間の感覚がなくなり、あの少女がまぶたの裏でちらちら見える、笑ったように怒る顔、先生、学校で煙草吸っちゃだめですよ、怒ったように笑う、顔。

 もう、ここにはいない少女。

 ふしぎと、会いたいとは思わなかった。それに、ここ最近は、彼女のことを思いだすこともすくなくなった。おなじくらいの頑固者に会ったから。

 最初はたぶん、あの少女の代わりだった。

 身代わり、さびしさをうめるための。怒ったように笑う顔、それを見るたび、思いだして。

 それでもいまは、もうちがう。

 ――先生。

 いまは、わたしと。

 世界とを、つなぐたったひとつの存在。


     *


 文化祭から何日が経っただろうか。

 時間の感覚があいまいで、気を抜くと、今日が何日かもわからない。それでも、僕はぴんぴんしていた。どこも異常はない。

 あの日。

 あの、文化祭の日。

 舞台の上。夜半姫を演じる僕の真上に、照明器具が落ちてきたというのに。

 僕はおどろくほど――いつもどおりだった。



 久々に旧校舎一階の保健室へ行くと。

そこにいたのは、ふたり。――東条と、早乙女さん。

 僕を見て、死ぬほどおどろいた顔。

「あ……えと」

「おまえ……なんで」

 まるで、死人が生きかえった場面に遭遇したようなリアクション。もしかして、ほんとうに僕は死んだことにされていたのだろうか。笑えない冗談だ。

「無事だったんだ。なんでかは知らないけど」

 運がよかったんだろう。

「残念だったね、君の勘ははずれた」

 僕の言葉に、変な顔をする東条。というか、もう髪がもとの赤に戻っている。

「結城さんは……その、だいじょうぶ、なのですか」

「だいじょうぶもなにも、ぴんぴんしてるよ」

 あんなおおきな事故に遭ったのに。自分でもおどろきだ。

「……ゆき」

 気配がして、見れば、そこには遠子先生。

 僕を見て、やっぱりおどろいた顔をして、そうしてうれしそうに笑った。

「おかえり」

 あたたかい声。

 なんだか気恥ずかしい気持ちになって、僕は返事をためらう。そのかわりに。早口で云った。

「そういえば……わかったんです」

「わかった?」

「夜半姫の呪いの正体が」

 あの日、舞台の上で、僕は無数のイメージを見た。そして、不気味に這いずる女の姿も。

 ――ずる。

 あの生々しい音が思いだされて、僕は思わず目を見開く。頭をふって、あの光景を脳から追いだした。

「早乙女さん、前に云ってたよね。――夜半姫は心中したんじゃなくて、殺されたかもしれないって」

「え? は、はい……」

「それは正しかった。夜半姫は殺されて、そのときの恨みが、いまもつづいてる」

「……なんで、そんなこと、わかるんだ」

 急に怒りだしたような口調の東条。

「見たんだ」

「見た?」

「あのとき、舞台の上で」

 東条の身体がこわばる。

「僕は見たんだ。――夜半姫の記憶を」

 共感覚。

 いつだったか、先生はそう呼んだ。

 早乙女さんも東条も、おどろいただけでなにも云わない。遠子先生だけが、ほう、とうれしそうに息をもらした。

 僕はあのとき見た記憶を説明しはじめる。

「夜半姫は、早乙女さんが考えたとおり、もともと話すことができた」

 イメージの波でちらと見た、夜半姫の姿。

すきとおるように白い肌、朱色の唇、黒くふちどられた目元、前髪はなく、頬のよこで一束ずつきりそろえられ、そして床にちらばる、ながいながい黒髪。

「伝わっている伝説のとおり、彼女はいろんな男のひとに結婚を申しこまれた」

 次々きりかわってゆく記憶の嵐。贈りものをされる姫、贈りものを拒む姫。

 そして。

「流浪の法師と……恋に落ちた」

 法師の顔はよく見えなかった。視覚ではなくべつの感覚で享受された情報、その中で、夜半姫は、愛する男の胸にもたれる。

 しかし、ある日。

「姫は、知ってしまった」

「なにを……ですか」

 ささやくように問うたのは、早乙女さん。僕は息を吸い、ゆっくりと口にする。

「法師と、夜半姫の姉が愛し合っていたことを」

 保健室の中で、息を呑む声がひとつ、ふたつ。先生だけ、腕を組んだまま、表情をくずさない。いつもの、赤い唇を歪めた、あの表情。

「だから……姫は、憎しみのかたまりと化してしまったのですか?」

 僕は早乙女さんの言葉に、首をふる。

「ちがう」

 思いだす、あのとき、舞台の上で見た、感じた、よせてはひいてゆく記憶の断片。

「お姉さんは……妹の夜半姫が、自分と法師の関係に気づいたことを知って」

 自分の声がわずかにふるえるのがわかる。

「それで、口封じをしようとして」

 どこの馬の骨とも知れぬ法師と恋仲であることが周囲に知られたら。姉は法師と共謀することにした。

「毒を」

 あの瞬間、僕の意識は、夜半姫とともにあった。

 僕は姫の記憶の中で姫になり、毒と知らずに毒を飲んだ。

 のどが――焼けるように熱い。

「じゃあ……姫は」

 僕はうなずく。

「たぶん、そのとき、声が出なくなったんだ」

 鳥のさえずるように美しいと。

 だれかに褒められたその声を失い。

「それで……」

 目をつぶる。思いだす。

 話すことも、歌うことも、笑うことも、泣くことも。

 できなくなり、愛するひとに裏切られた夜半姫は。

「無理心中をしようとして」

 あの一瞬の中で僕が見たすべての記憶。

 理解する前に消えていった音のない映像、銀色に光る、小刀のようなものをにぎりしめて法師に近づく姫、次の瞬間にはそこには姉の姿、全体的にもやがかかって、色彩がなくて、だれの表情も判別できない、姫の手から刃物が落とされる、また画面が変わる、畳の上、横にふせった夜半姫、いつのまにか姉がいる、法師になにか云う、云われた法師は刃物をにぎる、その手を、姉もにぎる。

 ふたりで、刃物で。

 姫の顔を。

 思いだしただけで。あのときのように、僕の中いっぱいに、すさまじい量の感情がなだれこんでくる。憎しみ、嫉み、妬み、哀しみ、いつもいつも妹ばかり、自分よりも美しい、痛い、のどが熱い、肉に刃をつきたてて縦に横にねじこむ感触が生々しい、殺してゆく感覚、殺されてゆく感覚。

 僕は目を開ける。

 記憶の中の夜半姫が、息絶えた。

「これは僕の勝手な推測だけど……お姉さんは、ずっと妹である夜半姫を妬んでたんじゃないかな、それなのに、今度は姉妹で法師を奪いあうことになって、それで……」

 すきとおるように白い肌、朱色の唇、黒くふちどられた目元、ながいながい髪はからすの濡れ羽色、いつもいつもだれかに愛され、慕われ、守られてきた美しい妹。

 ――ねたましい。

 それなのに。

 姉妹ふたりして、おなじ男を愛してしまった。

「どうして、法師は姉とも関係をもったのか、なぜ姫を殺すことをためらわなかったのか、それはいまとなってはもう、わからないけれど」

 このままでは、自分が殺されると思ったのか。

 いずれにせよ、無残な最期を遂げた夜半姫の憎しみは、姉ではなく――むしろ、法師へ向いた。

「いままで舞台の上で死んでいった夜半姫役の生徒たちは……たぶん、途中で姫そのものになって……霊のもつ影響力、みたいなものに、耐えられなかったんじゃないかな。だけど、十年前の夜半姫――墨染雪枝は、霊にたいする抗体のようなものがあった。法師に飛びかかった瞬間、照明器具が落ちてきて事故死って云われてるけど――ほんとうは、法師役の生徒をかばおうとしたんじゃないかな。いつもであれば姫役の生徒が正気を失ってしまうくらいの事態でも、彼女はなんともなかった、そしてほんものの夜半姫の憎しみが、今度は法師役の生徒に向いたんだ、きっと」

 僕のつたない説明に、東条が、どこか心苦しそうな顔をする。

 きっと。

 あの日、舞台の上で起きたことを思いだしたんだろう。

 ――きぃ。

 耳障りな金属の音、舞台の真上、照明器具がぐらりと揺れて、だから僕はとっさに、東条をつきとばした。十年前の墨染雪枝のように。

 彼女は死んだ。

 だけど、僕は奇跡的に、ここに存在している。

 だから、そんな顔をしなくていいのだと、東条に云おうとして、やめる。なんだか、云うべきではないような気がした。

「では……あのとき、柳田さんは」

 早乙女さんは考えこみながら、ぽつりと云う。僕はうなずいた。

「舞台の直前……柳田さんには、夜半姫の影響、が残っていた。それはただ単に、彼女の……心、をこわしてしまっただけでなく、最終的にひとつの考えを植えつけた」

 法師への憎しみ。

 だから、法師役の東条を。

 保健室の中がしん、と冷える。だれも話さない。早乙女さんも東条も、暗く沈んだ顔。

「……それで」

 最初に口をひらいたのは、遠子先生。

「どうするんだ、これから」

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