音楽室のピアノは無慈悲に歌う

第23話

 聖母とおなじ名前をもらった。

 それがいいことなのか、わるいことなのか、いまでもわからない。

 清らかであれ、美しくあれ。

 それを望んだはずの男が、神に背いて何年が経ったのか。

 もはや、痛みは感じない。憎悪も屈辱も、とっくのむかしに手放した。

 ――これから、僕たちは家族になるんだ。

 遠い記憶の中の言葉にしばられて、あたしは目を閉じ、我慢する。我慢することすら、我慢する。

 こんなことは、だれにも云えない。

 神に召されるまで、だれにも云えない。


 頭の中でくりかえす。

 あのとき、この男にもらった言葉を。

 ――僕たちは、ほんとうの家族になるんだ。


 どうして、こんなことになったんだろう。

 あたしはただ、家族が、ほしかっただけなのに。


     *


 夢を見ていた。

 どこか、山の中。むせかえるような、樹のにおい、が。土のにおいと合わさって、どこまでもあとをついてくる。地面はどこもでこぼこしていて、歩きにくい。

 自分がどこへ向かっているのかわからない。

 ただ、なにかに呼ばれるように、僕は歩みを進めてゆく。

 ふいに気配を感じた。声のようなものが聞こえる。赤ん坊の声だ。最初はひ弱に、庇護を求めるように。顔を上げる。声はしだいにおおきく、つんざくように、音量を増す。まるで僕の内側から発せられているのではないかと、そう思いたがえるくらいに、その泣き声はおおきく、暴力的に、執念を具現化したように、狂ったように、おおきく、おおきく、おおきく。

「結城」

 頭をかるくはたかれて、飛びおきた。

 ここは。

「学校に慣れたのはいいことだけど、ホームルームで寝るのは感心しないな」

 頭上から降りそそがれる低い声と、それに応じてまばらに湧きおこる、くすくすという笑い声。あろうことかホームルームの最中に、机に突っぷして眠りについていたのだと気づく。気づいた瞬間、自分が青ざめてゆくのがわかった。

「あの……僕は、その」

「いいから、今度から気をつけるようにね」

 手をふりながら、わが三年五組の担任である加納先生は教壇へと戻ってゆく。

 さきほどの忍び笑いが、耳元で何度も何度も鳴りひびいていた。



「さっきのはなんなんだよ、らしくねえな」

 時は六月の第三週、月曜日、の放課後。

 場所は朝霞中学校、旧校舎一階保健室。

 端に備えつけられた簡易的なベッドに腰かける、長身の男子生徒――東条漣は、僕に向かって言葉を投げかけた。えりあしを伸ばした髪はあざやかな赤色、両耳に光る無数のピアス、そのいでたちはまさに完全なる不良。しかし本人は更生したといってはばからない。

「なにかあったの?」

 保健室の中央、茶色い革の、こぢんまりとしたソファに、ちょこんと座った女子生徒、一ノ瀬鞠亜さんが、首をすこしだけかたむける。

「そいつ、寝てたんだよ、ホームルームの途中で」

「まさか……どっかの居眠りあんぽんたんじゃあるまいし」

「ねえ、もしかしてそれ俺のことじゃないよね?」

「ああ、よかった。自覚あったの。安心したわ」

「まりあちゃんひどい!」

「まりあちゃんゆうな」

 毎回くりかえされる掛けあいを、今日も見るはめになるとは。東条も、一ノ瀬さんも、ほんとうに仲がわるいな。しかし、一ノ瀬さんのとなり、ソファに座っているもうひとりの生徒は、花もはじらうようなたおやかな笑みを浮かべて、云った。

「まあ。ほんとうにおふたりは仲がよろしいのですね」

 早乙女稚羽矢。三年七組。腰までのばされた絹のような黒髪、透けるような肌に切れ長の目、そして、なぜか学校なのに、和服。

 どこをどう見ても絶世の美少女である早乙女さんは、残念ながら男子である。聖天狐教という宗教の教祖を名乗っていたが、とある事件を機に、いっさいから手を引いた。その際、衣服を男物の制服に切りかえたはずだったのだが、どうやらファンから不評だったらしく、しぶしぶ和服に戻したらしい。人気者は大変だ。

「仲がいい? だれと? だれが?」

 ぐるりと首をまわし、早乙女さんにつめよる一ノ瀬さん。に、微笑を返す早乙女さん。

「それはもちろん、東条さまと鞠亜さまです」

「断じてありえないから! ……あと、まえから思ってたけど、その鞠亜さまっていうのやめてちょうだい」

「はあ……では、なんとお呼びすれば。……一ノ瀬どの?」

「鞠亜。鞠亜でいいわ」

「はい。では、鞠亜」

 にっこり笑う早乙女さんに、一ノ瀬さんは満足げにうなずく。早乙女さんがこの部活に入ったのはかれこれ十日ほどまえのことだが、一ノ瀬さんとはすっかり仲がよくなったようだ。

「あ、あと東条さまもやめてね。ゾウリムシとかでいいから」

「俺単細胞生物じゃないんですけど」

「そうよね、ごめんなさい、ゾウリムシに失礼よね……」

 東条の言葉に真顔でつぶやくと、一ノ瀬さんは突然、僕を見る。おおきな、甘露飴みたいな目と視線が合った。

「それで? ほんとうはどうなの?」

「え、なにが?」

「だから、ホームルームの」

 さきほどの、帰りがけの居眠りの話か。耳元でよみがえる、くすくすという笑い声をふりはらい。僕は口をひらく。

「ちょっと……寝不足だったみたいで」

 最近、あまり寝つけない。眠るたびに、なにか夢を見るのだが、どんな夢なのかはまるっきり覚えていない。そういえば、さっきも夢を見たような。記憶を思いおこそうとした瞬間、一ノ瀬さんが声をあげる。

「わかった。テスト勉強でしょ」

 ああ、と早乙女さんもうなずく。

「たしかに、今週の木曜日から定期試験ですね」

 いつのまにか、僕の寝不足はテスト勉強ということで話がまとまっている。東条はベッドの上から僕を見下ろすと、腹が立つほどさわやかな表情で云った。

「いやあ。征継くんはまじめすぎてだめだな。やっぱ俺みたいに、テスト勉強はこう、効率的に? 常日頃から? ちょっとずつ勉強してく感じで? それができる男ってえやつだよな」

「毎日毎日授業中堂々と寝ている君に云われたくないんだけど……」

 どの教科の先生も、もはや東条の態度には愛想をつかしているようだ。いちいち怒っていたらきりがないからだろう。それにくらべれば、僕の居眠りなんてたいしたことないはずなのに。

「どうせいつも赤点なんだろ」

 ずりおちてきた眼鏡をかちゃりと直しながら、僕は唇をとがらせる。東条はにやにやと笑ったまま、しかしなにも云わなかった。図星か――と思いきや。一ノ瀬さんが、気まずそうに口をひらく。

「……ゆーきくん」

 そうして、いまいましげに、眉をひそめて。

「そいつ…………二位なのよね」

「え?」

「学年二位」

 そいつ、とは、簡易ベッドの上であぐらをかいている東条のことか。その東条が、学年二位?

「下から数えて……だよね?」

「あたしも信じたくないんだけど……残念ながら、上からよ」

 上からかぞえて学年二位。

 万年居眠り魔の東条が。

「嘘だ」

「これが嘘じゃねえんだなあ」

 にやにや。真っ赤な髪とおなじ、赤い舌をのぞかせて、東条が笑う。

「嘘だ」

「おい、二度も云うんじゃねえよ、ちょっと傷つくだろ」

「だって……だって」

「信じられないのもむりないわ。あたしだって、いまだにちょっとうたがってる」

「まりあちゃんひどい! 稚羽矢ちゃんは信じてくれるよな?」

「ええ、もちろん。人間その気になれば、本能でテストの答えがわかるにちがいありません」

「それはそれでひどい!」

「稚羽矢ちゃんだって……気持ちわる」

 ゴミでも見るような一ノ瀬さんの視線。

「かりに……なにか奇跡のようなものが原因で東条が学年二位だとして、一位はだれ?」

「そりゃあれだよ、俺らのクラスのいいんちょ」

 いいんちょ――委員長。おなじクラスの、ポニーテールの女子を思いだす。名前は柳田さん、だったか。何度か話したことがある。気さくな雰囲気の生徒だったが、学年一位の秀才だったのか。

「ま、俺も本気だしゃあ余裕で一位なんだけどな……ここはほれ、いいんちょに花を持たせるというか……ある種のレディ・ファーストだな」

「そういえば……あたし、依頼を頼まれてたのよね」

 東条の言葉をまるまる無視すると、一ノ瀬さんはスクールバッグからメモ帳を取りだす。依頼、という言葉に、自然、背筋がのびた。前回の依頼からは、かれこれ二週間ほど経っている。

 僕、結城征継を部長とするこの非公式団体は、通称をもす研という。

 ミステリー・オブ・スクール研究会、MOS研の略称らしいが、僕がつけた名前ではないので詳しいことはよくわからない。現在の部員は、僕と、東条、一ノ瀬さん、早乙女さん、そして顧問っぽいひとがひとり――の、計五人。活動場所はここ、いまは使用されていない旧校舎一階のちいさな保健室。

 そして活動内容は――学園内における心霊現象、および怪奇現象を調査すること。

「依頼? おまえに依頼を持ちかけるような友だちがいたのか」

「ほんと毎秒失礼なやつね。それに……依頼者は生徒じゃないわ。先生よ」

「まあ。先生がたも依頼に来られることが?」

 僕の疑問とそっくりおなじ質問を、早乙女さんが繰りだす。一ノ瀬さんは肩にかかった髪をはらりとどけると、答えた。

「あたしが知ってるなかでは一回だけ。でもたぶん、そのまえにも何度かあったんだと思う」

 こんなあやしげな団体に、教師が依頼なんて。と思ったが、僕はそのあやしげな団体の部長だった。まあ、勝手に決められただけだし、拘束力はないはずだけども。

「依頼してきた先生は、喜多村先生。音楽の先生ね」

 音楽の先生はたしかふたりいたはずだ。僕のクラスを受けもっているのは、飯田という先生だから、もうひとりのほうがその喜多村先生か。

「なんで音楽の先公がおまえに依頼すんだよ」

「秋に、合唱コンクールがあるでしょ。あたし、伴奏に決まったから、音楽室借りるときとかに何度か話をしたことあって」

 一ノ瀬さんはピアノが弾けるのか。初耳だ。よく考えたら、一ノ瀬さんのことはあまり知らない。おなじクラスの東条ですら、知っていることと云えば、実家がお寺ということと、妹さんがいるということくらい。

「その喜多村先生……は、なにかお困りなのですか」

「ううん……実際、事件らしきものに遭遇したのは三年三組のひとたちらしくて。それが音楽室でのことだったから、喜多村先生が相談を受けたみたい」

「……音楽室」

 たしか、この学校に伝わる七不思議、とやらにあったはずだ。音楽室にまつわる話が。僕の心中を察したか、一ノ瀬さんはかるくうなずく。

「――音楽室では幽霊がピアノを弾いている。聞くと呪われる」

 二ヶ月まえの僕なら、そんなことばかばかしいと一蹴できただろう。幽霊。七不思議。非科学的で、非論理的で、安っぽい、くだらない、ただの子どもだましだと。

 しかし、いまはどうだろう。

 そんなもの存在するはずがないと、僕は胸を張って云えるのだろうか。

「その、三組のやつらはピアノを引く幽霊を見たってえのか?」

 あぐらを組みかえながら、東条は云う。一ノ瀬さんはメモ帳を見ながらうなずいた。

「そうみたい。……事件が起こったのは先週の木曜日の夜ね。三組の生徒四人が、音楽室に肝だめしに行ったらしいの。男子と女子、それぞれふたりずつ。計四人」

「肝だめし……またそれか」

 いままでの事件も、たいがいは生徒たちの肝だめしが原因だった。なぜそんなにも夜中の学校に忍びこみたがるのか、僕には理解できない。ちなみに僕も二度、夜の学校を経験したが、それはべつに行きたくて行ったわけじゃない。

「肝だめしとはなんですか」

「…………え」

 早乙女さんがぽつりともらした声に、僕は思わず口を開ける。東条はひゅうと口笛を吹いた。

「早乙女、肝だめし知らないの」

「はい。なにぶん世間と隔離されていましたので……」

 たしかに。隔離どころか、学校すら通っていなかったのだ。ほぼ十年、友だちと遊ぶことなく、聖天狐さまという架空の神を演じつづけた人生。

 一ノ瀬さんもおなじようなことを考えたのだろうか。すこし眉をひそめ、しかしすぐに笑顔を浮かべると、早乙女さんに云った。

「肝だめしっていうのはね、えっと……度胸試しっていうか。心霊スポットとか夜の学校とかで、幽霊が出るかどうか見にいく……というか……」

「なぜわざわざそんなところへ行くのです? 幽霊などそのへんにいるではありませんか」

 いまなんか空怖ろしい発言が聞こえてきた。

「うん……まあそうなんだけどね……」

 困惑ぎみの一ノ瀬さんと、不思議そうに首をひねる早乙女さん。さすがにらちがあかないと思ったのか、めずらしく東条がフォローする。

「あー……えっと、まあ肝だめしは後日征継がていねいに教えるとして……一ノ瀬、つづき」

「あ、うん」

 ふたたびメモ帳に目を落とす一ノ瀬さん。

「それで、夜中に音楽室に忍びこんだんだけど、じつは男子ふたりがいたずらをしかけてたらしいの」

「いたずら?」

 僕の言葉に、一ノ瀬さんはうなずく。

「そ。携帯をね、音楽室のピアノのとこに隠しておいたんだって。それで、あとで電話かなにかすると、曲が鳴りはじめるように設定したらしいの。そうすると、まるで幽霊がピアノ弾いてるみたいでしょ」

 案の定、同伴した女子ふたりは、そのいたずらにおどろいたという。真っ暗な、夜の音楽室、静かに響くピアノの音色。僕はごくりと喉を鳴らす。

「それで……どうなったの」

「ひとしきり騒いだあと、それがただのいたずらだってばらしたの。女の子たちはすごく怒ったらしいけど、まあその場はなんとかおさまったって。それで、携帯を回収して、帰ろうとしたとき」

 ピアノの音が――聞こえたという。

「女子は、またいたずらかって怒ったらしいけど――あたりまえよね、前科があるし――男子はふたりとも、そんなの知らないって。なにもしてないって。女の子たち、最初は全然信じなかったけど……ふたりがあまりにもこわがってるから、徐々に信じはじめたのね。それで、四人ともこわくなって、とにかく帰ろうって。その場から立ちさろうとしたんだけど」

 突然、ピアノの音が止んだ。そして、大勢の人間が走るような足音が聞こえ、次いで、地震のような震動を感じたのだという。恐怖のあまり四人が立ちすくんでいると、変な音とともに、視線を感じ、見れば、壁にかけてある肖像画の、その目がぎょろりとうごいた。

「だいたいそんなところね」

「なんつうか……ベタな事件だな」

 あきれたようにうなる東条。僕もあながち否定はできない。ピアノの音、足音、振動、そしてきわめつけは肖像画。どこかで聞いたことがあるような話ばかりだ。

「でも、七不思議はピアノのことだけなんだろ。もしかりにそれが霊のしわざだとして……足音やら肖像画やらはなんなんだ」

「それを調べるのがあたしたちのしごとでしょ」

 ぴしゃりと一ノ瀬さんは云う。そのとき、ふわりとタバコの香りがした。ゆるりと顔を上げれば、目に入るのは異様にまばゆい白衣。

「音楽室の霊か……興味深いな」

 ひとつに結ったながい黒髪、おおきな目は黒目がち、女のひとにしては長身、黙っていれば美人なのにいつも黙らないそのひとは、保健医にして、僕たちもす研の実質的な顧問。

 名前を、五十嵐遠子という。

「しかも、ピアノの霊だけでなく、怪奇現象のオンパレードじゃあないか……とても楽しそうだ」

「全然楽しくないですよ……」

 脳天気な五十嵐先生の言葉に、僕は思わずつぶやく。というか、いつからそこにいたんだ。神出鬼没なのはいつものことだけれども。

「それに、七不思議以外の現象が混在している……というのも気になるな。そもそもあの七不思議とやらがいつどうやってできたのか、わたしは知らないが」

 七不思議。

 僕たちが事件としていままでかかわったのは、みっつ。

 旧校舎のトイレには花子さんがいる。見ると、呪われる。

 図書館にはなにも書かれていない本がある。読むと、呪われる。

 理科室の人体模型は生きている。さわると、呪われる。

 ちなみに、僕がかかわった事件としてはもう一個、聖天狐教という宗教に関するものがあるが、これは学校の七不思議とは関係ない。

 こうして考えると、僕が知っているもす研の依頼は、そのほとんどが七不思議に関係するものだ。

「今回の事件も、霊がかかわっていると見て、まちがいないのでしょうか」

 早乙女さんの問いに、先生はふうむと口をとがらせる。

「現場を見ていないし、確定はできんな。アンサーの事件のように、人為的なものという可能性は充分ある。とはいえ……もし霊のしわざであるとしたら、これはポルターガイストかもしれんな」

「ポルターガイスト?」

「心霊現象のひとつよ。さわがしい霊っていう意味」

 思わず声をあげた僕に、一ノ瀬さんがメモ帳を閉じながら云う。

「一ノ瀬くんの云うとおりだ。おもに物体の移動、音の発生、あるいは発光、発火なんてものもある。ともかく、説明のつかないような現象を、まとめてこうよぶんだ」

「ポルターガイストねえ」

 意味ありげな東条の声色に、先生はおもしろそうに口角をあげた。

「おや、東条はポルターガイストに否定的かな」

「そういうわけじゃねえけど……でもあんま信じてはいねえかな。ただの思いこみだったり、建築不良だったりすることが多いだろ。あとはサイコキネシス、とか」

「サイ……」

「念力だよ、念力」

 物体を浮かせたりするあれのことだろうか。それがいったいポルターガイストとなんの関係が。僕の疑念を感じとったか、東条は説明する。

「ポルターガイストの原因のひとつにあるんだよ、念力。年ごろのしょーねんしょーじょは、無意識に念力をつかって、ポルターガイストに似た現象を起こしてしまうんだとよ」

 どこまでほんとかわかんねえけど。東条は頭をかく。

 心霊現象の説明だけでもいっぱいいっぱいなのに、超能力の話とか勘弁してほしい。僕は眉をひそめる、それを見て、五十嵐先生は笑った。

「眉間のしわはとれなくなるぞ」

「余計なお世話です」

「そうかそうか。……あと、肖像画っていうのもおもしろいな。目がぎょろりと……ふむ」

「それよりも」

 ソファに座る一ノ瀬さんと早乙女さんを手で示しながら、僕は云った。

「事件はどうするんですか、こんな雑談してる場合じゃないですよ」

 ねえ、一ノ瀬さん、と顔を向ければ、そこには青い顔した一ノ瀬さん。

「一ノ瀬さん?」

「鞠亜、さきほどからこの調子なのです」

 早乙女さんが心配そうに一ノ瀬さんの顔を見つめる。東条がほう、と息をもらした。

「そいつはさっきの話にびびってんだろ、征継とは逆に」

「……び、びびってないし、そろそろ留年して」

「ひでえ! 俺ちゃんと卒業したいよ!」

 一ノ瀬さんの冷えきった視線を回避しつつ、唇をとがらせる東条。

「まーそいつはびびってるわりに元気だからいいとして……その事件たいしたことなさそうだし、とりあえずいまから音楽室行こうぜ。一ノ瀬つれてけば、霊のしわざかどうかの判別くらいはつくだろ」

「わるいけど、あたし今日はもう帰る」

「え」

 僕と東条は同時に声を発する。

「なにかご用でも? それとももしや、具合が……」

 不安げに顔を覗く早乙女さんの、その言葉を搔きけすように、一ノ瀬さんはすっくと立ちあがった。

「具合は平気よ。ただ、その……家の手伝いがあって」

「ほんとかあ? さてはさっきの話だけじゃなく、音楽室の霊にもびびってんじゃ」

「その口縫いあわせたほうがいいんじゃない?」

 こわ、と声もなくつぶやく東条。その意見に異論はない。

「じゃあね、また」

「あ、ちょ」

 流れるように帰っていった一ノ瀬さんと、あとに残された僕、東条、早乙女さん。

「あれ……また先生、いつのまにかいなくなってる」

「おい男三人残されたじゃねえか……どうすんだこれ……」

 どうもこうもなかった。今日は解散だ。

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